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立花 祈

雛芥子




「ただいまー」

家に帰るといつもの返事はない。

職場の同期に散々話を聞いてもらい、すっきりした気持ちで帰宅したつもりだったが

ふとした瞬間に蘇る記憶が、舞子を苦しめた。

あれもこれも、彼との思い出になるものは全部捨ててしまおうと思ったが、

なんだかその思い出が足を引っ張るようで、簡単な事ではなかった。



そして何日か経ったある日、

またあの黒猫が現れた。



その日は仕事が遅くなり、

日も出ていないのに溜まった洗濯物を干そうと窓を開けた時だった。



「あら、また来たの」

舞子がいうと

「迷い込んだといったほうが正しいね」

と猫は言った。

こんな何もないただの庭に迷い込むもなにもと思ったが、

黒猫の首についている鈴を見て、声をかけずにはいられなかった。



「その首の鈴、どうしたの?前はついてなかった」

「これ?これはね、もらったの。素敵でしょ、鈴を選んでくれた人はね、もっと素敵な人なんだよ」

猫は誇らしげに上を向いて見せた。

銀の大きな鈴は、月夜に照らされ光っていたが、それ以上に輝いた黒猫の瞳はその子に恋をしていることを物語った。



「ふぅん、素敵じゃない。野良猫が飼い猫になった気分はどう?いいご身分でしょう」



舞子はなんだか少し嫌味な事をいってしまったと後悔したが、

自分は元からこうだったといつも通りの開き直りをして猫の方を見た。



「いやいや、ぼくは野良猫なんだ。人になんか飼われないよ。一人で鼠を捕れるんだから、馬鹿にするのはよしなよ」



自分より大人な対応に少し笑ってしまいそうになったが、

黒猫の少しうつむいた横顔を舞子は見逃さなかった。



「なに、その子とうまくいっていないことでもあるの」



黒猫は少し間をおいて、舞子に打ち明け始めた。

「ぼく、猫でしょう。人間の女の人なんかに相手にしてもらえるのかな」

猫が自慢げに見せた鈴は、輝いて見えるようで

この美しい毛並みを一番苦しめているようだった。



「ぼく、人間の言葉を喋れても、人間の気持ちなんてわからないんだ。」



「えぇ、私だってわからないわよ。人間の言葉が喋れたって、相手の気持ちなんてわからない」

舞子と黒猫は暫しの時間見つめ合ったが、

あまりのさみしそうな黒猫の顔に口を開かずにいられなかった。



「じゃあ、プレゼントをあげるのはどうよ。その子の、好きそうなもの」



黒猫はプレゼントという言葉にピンとこないようだったが、好きそうなものについて一生懸命考え始めた。



「うーんと、僕が思うに、その子はなんだか雲みたいなものが好きなんだ。よく、雲を口に入れて、食べている」



「え、くも?」



一度昆虫を想像した舞子だったが、考え直して指を上にあげた。

「えーと、あの雲?」

「そうそう!とてもよく似ているんだよ」



『えーと、綿菓子のことかしら。そんな女のひといるかしら』



舞子は不思議に思ったが、

黒猫の話から、

どうやらそれは少女のようだった。



「あとはね、お花が好きそうなんだ。よく花のワンピースを着ている」



「それだ!」

と舞子が嬉しそうに黒猫を見ると、

黒猫も嬉しそうな顔をした。



「素敵な花の咲いている場所なら、僕もよく知っている」

さっそく行ってくるよと、

黒猫は意気揚々と駆け出した。



舞子もなんだか嬉しくなり、

ほったらかしになっていた洗濯物を干し終えると、

部屋に戻っていった。

彼と別れてから、

三日三晩舞子は涙を流さずにはいられなかった。



大好きなその香りも、大好きなその声も笑顔もいつだって舞子を幸せな気持ちにしたが、

こんな終わりがくるなら一緒になんていなきゃよかったと、何度も思っては行き場のない苦しみから立ち上がる事が難しく思えた。



もうその彼の隣には新しい大切がいる事も、舞子にはよくわかっていたが、

舞子は彼との思い出に縛り付けられたままだった。



その日も舞子はもうそこにはいない人の事を考えながら眠りについた。

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