【コミカライズ配信中!】 婚約破棄後の悪役令嬢~ショックで前世の記憶を思い出したのでハッピーエンド目指します!~
69話:弟の治療
びゅうっと風を切る音と、内臓が居場所をなくしたような気持ち悪さのある浮遊感。
目を閉じたまま、ラインハルト様の手を握り締める。
真っ暗な視界に浮かび上がってくるのは、さっき脳裏をよぎった、体が燃えている兄上とサーストン殿下の姿。そして、エストレイの報告が再び脳の中に響いた。
間に合ってと、そう落下しながら祈ったのは、きっとわずか数秒のことだったのだろう。
「もう着くぞ」
そう言われて目を開けると、下から柔らかい風が吹き、ラインハルト様が難なく着地する。同じように、ダラン様とエミー、エストレイも地面に足を着けた。
私達が着地したのは外苑のひらけた芝生のところで、サーストン殿下がララティーナと約束した場所まで少しある。
ハイヒールではない靴を選んでおいて良かった、と思いながら走ると、茂みの奥に倒れている人の姿が見えた。
「兄上っ!!」
「リ、リィ……俺は、平気だ……ぞ」
倒れているサーストン殿下の横であぐらをかいて座り込み、弱々しく笑って見せた兄上は、肩から首にかけてが焼け爛れていた。
私と目が合うと、緩慢な動きでそこを隠すように手を添えるが、指の隙間から、火傷跡の表面を黒い蔦のようなものが毒々しく蠢いているのが見える。
「……兄上、すぐに、治療師を…っ」
私が駆け寄ろうとするのを、兄上は手のひらを向けて私を止める。
「俺は、まだマシ、だ。セルカから、魔力操作を……ぐっ、教わっといて良かったぜ。呪いから、魔力を、逃せてる」
「さすがだ、ヴィンセント。すまないが、先にサーストンの解呪をする」
「そうして、くれ」
兄上はラインハルト様と、痛みを堪えながら会話をする。
苦しそうにする兄上の姿に痛々しさを感じるが、それ以上に、ずっと倒れ込んだままのサーストン殿下の方が、きっと切迫した事態なのだろう。
腕を捲りながらサーストン殿下の側に膝をついたラインハルト様が、振り返って指示を出す。
「エミー、ヴィンセントをベンチに運んで休ませてから傷口の洗浄を。ダランは周囲の警戒を頼む」
「かしこまりました」
「了解」
エミーが兄上に肩を貸し、ダラン様が少し離れた位置に立つ。
私は、セルカから護身用にと渡されていた魔法具が入った道具袋を確認してから、ラインハルト様の隣に膝をついた。
「アマリリス、今回も側にいてくれるか?」
「もちろん、そのつもりですわ」
「ありがとう」
この場において圧倒的に無力な私は、ラインハルト様の側にいることしかできない。
私は、後でユカリに怒られるなと思いながら、ドレスの袖を折って捲る。
ラインハルト様は、鞄からいくつかの魔法石と水筒を取り出す。そしてその魔法石を、サーストン殿下の周りに正三角形を描くように置いて行った。
その手の動きを丁寧に目で追ってしまったのは、あまりにもサーストン殿下の状態が酷かったからかもしれない。
右肩から腹にかけてが、全て燃やされたのだろう。黒焦げになった服と肌を、兄上にあったのと同様の黒い蔦が這っている。そしてその中心には、ドクドクと脈打つ心臓のような、赤黒い塊があった。
魔法の感知がからっきしな私でもわかる。とても強力で、恐ろしい呪いだと。
ラインハルト様とセルカの魔法具があったはずなのに、と思うが、きっとそれがなかったらもっとひどい状態だったのだろう。
サーストン殿下の顔色は、とても悪かった。
額には脂汗をかき、顔は青白く、唇も色が薄くて震えている。きつく閉じられた目は、時々痛みで呻くとピクリと動くが、開く気配はない。
「……ダランの時よりも、強力な呪いだ」
呪いの一部を水に移し、それを検査していたラインハルト様がそう口にする。
普段と変わらない声色だったが、何かを押し殺すようなゆっくりとした物言いに違和感を覚え、よくよく見ると彼の表情には隠し切れない焦りと怒りがあった。
「ラインハルト様…?」
小さく彼の名前を呼ぶが、耳には届いているはずなのに、返事はない。
今まで見たことのない様子に、私は一瞬迷ってから、何も言わずにラインハルト様の方に体を寄せた。
肩が触れ合い、やっとそこでラインハルト様が困惑したような顔を向けてくるのに、私はあえて悪戯っぽく微笑みかける。
「ラインハルト様が、ララティーナ程度に負けるとは思えませんわ。普段通りのお力を発揮できれば、必ずサーストン殿下を救えますとも」
「……あぁ」
まだどこか気がそぞろなような彼に、私は言葉を重ねる。
「大丈夫です、私が側にいます」
真っ直ぐに目を見てそう告げる。
橙色の瞳が、私を映した。
一秒でも、刹那の間だけでも、目の前の状況から意識が逸れれば、そして負の感情を忘れることができれば。
この方が誰かに負けることなんてきっとないと、私は知っている。
だから、瞬きの間だけでもいいから、私だけを見て欲しい。
「……ありがとう」
静かな声でそう言った時、ラインハルト様は普段通りの無表情で、私は思わず笑みを深くした。
「君がいてくれれば安心だ。もし暴走しそうになったら、殴って止めてくれ」
「臣下にそんなことを頼まないでくださいませ?」
「そうならないよう努力はする。それと、今回も呪いが僕達を襲うかもしれない。近くにいてくれ」
「わかりましたわ」
私が返事をしたのに頷くと、ラインハルト様は息を吸い、右手をサーストン殿下の胸の上にかざした。
「では始める」
指に嵌められた指輪が光ったかと思うと、魔法陣が浮かび上がり、白く光った。
それに照らされた黒い呪いの蔦は、苦しむように震え、光から逃れようと体中に広がろうとする。それと同時に、サーストン殿下が呻き声を漏らし、体をよじった。
「うぐっ……」
ラインハルト様の描いた魔法陣から出た光の粒が呪いに降りかかり、今まさに腕や脚にまで伸びようとしていた黒い蔦が消えていく。
しかし、またすぐに呪いが広がろうとし、再び光の粒で打ち消された。
「……仕方ない」
それを五回ほど繰り返した時、ラインハルト様が自分の着けているピアスに手を伸ばす。
今日彼が身に着けているピアスは、黒曜石のような黒く透き通った水晶を加工した小ぶりリングのようなもので、指が触れると内側からじわりと青く光った。
そうして、ラインハルト様が一瞬手を離したからだろうか。
呪いの大元とも思えるような赤黒い塊が、ドクンと大きく脈打ったかと思うと、一気に黒い蔦がその物量を増す。
嫌な予感がして、胸元のピアスを握り締めた。
「ひっ…!?」
突如、黒い蔦の奥から、一気に巨大な狼の頭が飛び出してくる。
私の頭ほどは、一口で容易に丸呑みできてしまうだろう。
噛み付くように大きく口を開いたそれが目の前に迫ってくるまでは本当に一瞬で、黒の奥に緑や紫、赤が混じった毒々しい呪いの牙が、私の鼻先に触れようとした時だった。
「……」
黙ったままのラインハルト様の手が狼の頭に触れたかと思うと、一気に呪いが霧散する。
彼の手の表面には白く光った魔法陣が浮かび、こちらを向いたその目には、何重にも魔法陣が描かれていた。
「……ラインハルト、様?」
青白い複雑な模様の奥にある橙色の双眸。
普段は怜悧な光を宿している彼の瞳が、なんだか何も映していない透明なガラス玉のようで、背筋を冷たいものが走る。
見つめられているのがわかっても、言葉を発することも動くこともできなかった私から、ラインハルト様が視線を外し解呪が再開された。
元々、感情が表に出る人ではないし、精密な魔力操作が必要とされる解呪の最中だから、集中しているのも頷ける。しかし、どうにも様子がおかしく見えて気が気がでない。
とは言っても、精密な魔法の操作中に声をかけてもいいのかわからず、彼の手を握っている右手に力を込めるしかなかった。
私が感じている不安とは裏腹に、ラインハルト様は淡々と魔法を発動していく。
同時に発動されている魔法陣が、さっきまでは三つほどだったのに、どんどんと数を増やして重なり合う。
「……え」
魔法陣は数を増やし続け、二十を超えた辺りから私が追えない速さで現れたり消えたりする。
ユークライ殿下の夜会で、呪いをかけられた人々を解呪するラインハルト様にずっと付き添っていたが、その時よりも何倍も多くの魔法陣が何倍も速く入れ替わっていた。
およそ一人ではやっていると思えない膨大な量の魔法。
そして、それを黙々と発動し続けるラインハルト様。
「あっ……」
解呪はかなり順調になり、ラインハルト様と呪いの形勢が逆転したようだった。
呪いが再生するよりも速く白い光の粒がサーストン殿下の胸に降り掛かり、黒い蔦がその数を減らしていくと同時に、黒焦げにされた傷口も癒されて健康な肌色へと戻っていく。
呪いの大元であろう赤黒い心臓もその拍動が弱まり、そして何よりも。
「っ、あ……」
「サーストン殿下!」
彼のきつく閉じられていた瞼が震えたかと思うと、細くだが目が開いた。
私の呼び掛けに、彼は首をわずかに傾けて、私の方を向こうとする。
「私がわかりますか、殿下!」
「……あ、ま……ぅ」
「なっ、ラインハルト様っ!?」
サーストン殿下の額の上に浮かび上がった魔法陣が光り、開かれた目がすぐに閉じられた。
その魔法の張本人であるラインハルト様の方を向くが、彼は再び意識を手放した弟から視線を外そうとはしない。
「何をなさっているんですか、ラインハルト様!?」
「意識を奪っただけだ。痛みで動かれると治療が長引く」
「……っ」
確かに、合理的な判断だ。
しかし、弟が傷付けられたことに、他人に気取られるほどの怒りを覚えていた彼が、その弟が意識を取り戻した一瞬で再び意識を奪ったということが信じられなかった。
人間離れした魔法の数々を連発していることもあり、なんだか彼が機械になったような恐怖を感じてしまう。
それでも、私の心中なんてお構いなしに、時間は進み、解呪も進んでいく。
いつの間にか蔦はなくなり、後は随分と小さくなった呪いの大元があるのみだった。
赤黒いドクドクと脈打つ呪いの塊は、自らを守るように、表面に硬い鱗を生み出す。
「……ふぅ」
ラインハルト様は息を吐いて右手をかざすと、魔法陣の数を減らしていき、最後の呪いの上に巨大な魔法陣を描いていった。
魔法陣が描き込まれいき、完成したと同時に、彼の指に嵌められた指輪の宝石が強く発光する。
「っ……」
あまりの眩しさに手をかざす。
目の前がほとんど見えない中、パリンと音が鳴ったと思うと、段々と光が収まった。
「……サーストン殿下、良かった」
手をどかすと、サーストン殿下が安らかに寝息を立てている様子が目に入る。
呪いの禍々しい気配もなくなり、顔色も良くなった彼を見て安心した私が胸を撫で下ろしている横で、ラインハルト様がスッと立ち上がった。
「……」
「……ラインハルト様?」
なんだか様子がおかしくて名前を呼ぶが、返事はなく、私は慌てて立ち上がり彼の後を追う。
「……終わった、みたい、だな」
兄上が横たわるベンチの側まで歩いて行ったラインハルト様は、無言のまま兄上の肩に手を乗せる。
「解呪を始める」
「ライン、ハルト様。頼む、ぞ」
一方的に宣言だけし、兄上の言葉には反応しなかったラインハルト様は、いきなり手をかざすと魔法陣を描いた。
一つ、二つ、四つ、八つと倍々になっていく魔法陣が重なり合い、十秒も経たない内に、三十ほどにまでなる。
「……お、い。飛ばし過ぎ、じゃ」
魔法師である兄上から見てもきっと異常なくらいの魔法を展開するラインハルト様は、兄上の心配そうな声にも返事をしない。
清らかに白く光った魔法陣から、白や黄色、水色、桃色に輝く光の粒が降り注ぐ。
その光の粒が兄上の呪いと傷を全て覆い、ラインハルト様が手を振ると、指輪が輝いたのと同時に、さっきサーストン殿下の解呪が終わった時と同じ何かが割れるパリンという音が響いた。
「……え?」
「おいおい、マジか……」
ラインハルト様が兄上のところに向かってから、一分も経っていない。
それなのに、光の粒が消えてあらわになった兄上の肌には、呪いはおろか、傷一つ残っていなかった。
兄上は、何度か信じられないという様子で自分の首元や肩を撫でている。
私も、目の前の光景が信じられず、ラインハルト様と兄上の間で視線を行き来させていた。
「……え?」
そんな中、ラインハルト様が全身から力が抜けたかのように、不意に地面に膝をつく。
「ラインハルト様…?」
慌てて駆け寄って、彼の顔を覗き込んだ。
橙色の瞳が見えないほどに、未だに光を放つ魔法陣が何重にも重なり合っている。そのせいか、視線も合わず私に気付く様子もない。
私は少し躊躇ってから、彼の肩に手を乗せて名前を呼んだ。
「ラインハルト様、聞こえますか?」
「……アマ、リリ、ス?」
一瞬、魔法陣の光が弱まり、お互いの視線が合う。
が、すぐに幾何学模様の輝きは増していった。彼の体から力が抜けていき、私は彼を抱きかかえるようにして倒れないよう受け止める。
「ラインハルト様!返事をしてください、ラインハルト様!」
「……っ、あっ……ぐ……」
ラインハルト様が呻き声を漏らし、魔法陣がより一層強く輝くのが視界の端でわかった。
「ラインハルト様!!」
肩を揺すり、いくら何度大きな声で名前を呼んでも、目が合うことも返事をすることもない。
どうしようと、焦りが頭の中を埋め尽くしそうになるのを、ゆっくり息を吸って自分を落ち着ける。
「……冷静に、思い出して」
口に出してそう言い聞かせ、さっきまでの出来事の記憶を一つ一つ辿っていく。
ラインハルト様の様子がおかしくなったのは、どのタイミングだったか。
確か、サーストン殿下の解呪の途中だったはずだ。
サーストン殿下が途中で一度意識を取り戻した時には、もう既に普段と違う雰囲気だった。
その少し前。なかなか呪いを消すことができなかった時、確か。
「……失礼します」
ラインハルト様の黒いさらさらとした髪を指に乗せ、耳の後ろにかける。
あらわになったピアスは、私が見た時には黒曜石のような透き通る黒だったはずなのに、今は青白く燃えるように光っていた。
きっとこれが原因なのだと、確信めいたものを持って、私はそのピアスに手を伸ばす。
「……ラインハルト様、ゆっくり外しますね。だから魔力を、少しずつ抑えてください」
返事はないが、彼には聞こえているはず。
私はラインハルト様の耳に手を伸ばす。
内側から淡く光を放ち続けるピアスは、触れてみるとほんの少し温かい。
外すために両手を添えると、彼の柔らかい耳たぶに手が触れてしまう。
「ごめんなさい、くすぐったくないですか?」
ピアス本体を引き離そうとすると、一瞬ピリッと電流が走り、どうしてかラインハルト様の耳から離れようとしない。
一度深く息を吸ってから、手に力を込める。
「……あ」
まるで磁石で引き合っているかのようだったが、グッと力を込めた瞬間、引き離されたピアスからパチンと火花のようなものが舞う。
「あつっ……」
一気に熱くなったピアスが指からこぼれる。
それを拾おうと、少しラインハルト様から離れてかがもうとした時だった。
「……っ」
ギュッと抱き締められる。
驚いて声が出せない私の耳元で、低く小さい声で囁かれた。
「君のお陰で、戻って来ることができた」
腕が緩められて、ゆっくりと互いの体を離す。
やっと合ったラインハルト様の橙色の瞳は、私を映すと柔らかく細められた。
「僕の側にいてくれてありがとう」
私にだけ届いたその声は、今までに聞いたどの声よりも、優しくて暖かかった。
目を閉じたまま、ラインハルト様の手を握り締める。
真っ暗な視界に浮かび上がってくるのは、さっき脳裏をよぎった、体が燃えている兄上とサーストン殿下の姿。そして、エストレイの報告が再び脳の中に響いた。
間に合ってと、そう落下しながら祈ったのは、きっとわずか数秒のことだったのだろう。
「もう着くぞ」
そう言われて目を開けると、下から柔らかい風が吹き、ラインハルト様が難なく着地する。同じように、ダラン様とエミー、エストレイも地面に足を着けた。
私達が着地したのは外苑のひらけた芝生のところで、サーストン殿下がララティーナと約束した場所まで少しある。
ハイヒールではない靴を選んでおいて良かった、と思いながら走ると、茂みの奥に倒れている人の姿が見えた。
「兄上っ!!」
「リ、リィ……俺は、平気だ……ぞ」
倒れているサーストン殿下の横であぐらをかいて座り込み、弱々しく笑って見せた兄上は、肩から首にかけてが焼け爛れていた。
私と目が合うと、緩慢な動きでそこを隠すように手を添えるが、指の隙間から、火傷跡の表面を黒い蔦のようなものが毒々しく蠢いているのが見える。
「……兄上、すぐに、治療師を…っ」
私が駆け寄ろうとするのを、兄上は手のひらを向けて私を止める。
「俺は、まだマシ、だ。セルカから、魔力操作を……ぐっ、教わっといて良かったぜ。呪いから、魔力を、逃せてる」
「さすがだ、ヴィンセント。すまないが、先にサーストンの解呪をする」
「そうして、くれ」
兄上はラインハルト様と、痛みを堪えながら会話をする。
苦しそうにする兄上の姿に痛々しさを感じるが、それ以上に、ずっと倒れ込んだままのサーストン殿下の方が、きっと切迫した事態なのだろう。
腕を捲りながらサーストン殿下の側に膝をついたラインハルト様が、振り返って指示を出す。
「エミー、ヴィンセントをベンチに運んで休ませてから傷口の洗浄を。ダランは周囲の警戒を頼む」
「かしこまりました」
「了解」
エミーが兄上に肩を貸し、ダラン様が少し離れた位置に立つ。
私は、セルカから護身用にと渡されていた魔法具が入った道具袋を確認してから、ラインハルト様の隣に膝をついた。
「アマリリス、今回も側にいてくれるか?」
「もちろん、そのつもりですわ」
「ありがとう」
この場において圧倒的に無力な私は、ラインハルト様の側にいることしかできない。
私は、後でユカリに怒られるなと思いながら、ドレスの袖を折って捲る。
ラインハルト様は、鞄からいくつかの魔法石と水筒を取り出す。そしてその魔法石を、サーストン殿下の周りに正三角形を描くように置いて行った。
その手の動きを丁寧に目で追ってしまったのは、あまりにもサーストン殿下の状態が酷かったからかもしれない。
右肩から腹にかけてが、全て燃やされたのだろう。黒焦げになった服と肌を、兄上にあったのと同様の黒い蔦が這っている。そしてその中心には、ドクドクと脈打つ心臓のような、赤黒い塊があった。
魔法の感知がからっきしな私でもわかる。とても強力で、恐ろしい呪いだと。
ラインハルト様とセルカの魔法具があったはずなのに、と思うが、きっとそれがなかったらもっとひどい状態だったのだろう。
サーストン殿下の顔色は、とても悪かった。
額には脂汗をかき、顔は青白く、唇も色が薄くて震えている。きつく閉じられた目は、時々痛みで呻くとピクリと動くが、開く気配はない。
「……ダランの時よりも、強力な呪いだ」
呪いの一部を水に移し、それを検査していたラインハルト様がそう口にする。
普段と変わらない声色だったが、何かを押し殺すようなゆっくりとした物言いに違和感を覚え、よくよく見ると彼の表情には隠し切れない焦りと怒りがあった。
「ラインハルト様…?」
小さく彼の名前を呼ぶが、耳には届いているはずなのに、返事はない。
今まで見たことのない様子に、私は一瞬迷ってから、何も言わずにラインハルト様の方に体を寄せた。
肩が触れ合い、やっとそこでラインハルト様が困惑したような顔を向けてくるのに、私はあえて悪戯っぽく微笑みかける。
「ラインハルト様が、ララティーナ程度に負けるとは思えませんわ。普段通りのお力を発揮できれば、必ずサーストン殿下を救えますとも」
「……あぁ」
まだどこか気がそぞろなような彼に、私は言葉を重ねる。
「大丈夫です、私が側にいます」
真っ直ぐに目を見てそう告げる。
橙色の瞳が、私を映した。
一秒でも、刹那の間だけでも、目の前の状況から意識が逸れれば、そして負の感情を忘れることができれば。
この方が誰かに負けることなんてきっとないと、私は知っている。
だから、瞬きの間だけでもいいから、私だけを見て欲しい。
「……ありがとう」
静かな声でそう言った時、ラインハルト様は普段通りの無表情で、私は思わず笑みを深くした。
「君がいてくれれば安心だ。もし暴走しそうになったら、殴って止めてくれ」
「臣下にそんなことを頼まないでくださいませ?」
「そうならないよう努力はする。それと、今回も呪いが僕達を襲うかもしれない。近くにいてくれ」
「わかりましたわ」
私が返事をしたのに頷くと、ラインハルト様は息を吸い、右手をサーストン殿下の胸の上にかざした。
「では始める」
指に嵌められた指輪が光ったかと思うと、魔法陣が浮かび上がり、白く光った。
それに照らされた黒い呪いの蔦は、苦しむように震え、光から逃れようと体中に広がろうとする。それと同時に、サーストン殿下が呻き声を漏らし、体をよじった。
「うぐっ……」
ラインハルト様の描いた魔法陣から出た光の粒が呪いに降りかかり、今まさに腕や脚にまで伸びようとしていた黒い蔦が消えていく。
しかし、またすぐに呪いが広がろうとし、再び光の粒で打ち消された。
「……仕方ない」
それを五回ほど繰り返した時、ラインハルト様が自分の着けているピアスに手を伸ばす。
今日彼が身に着けているピアスは、黒曜石のような黒く透き通った水晶を加工した小ぶりリングのようなもので、指が触れると内側からじわりと青く光った。
そうして、ラインハルト様が一瞬手を離したからだろうか。
呪いの大元とも思えるような赤黒い塊が、ドクンと大きく脈打ったかと思うと、一気に黒い蔦がその物量を増す。
嫌な予感がして、胸元のピアスを握り締めた。
「ひっ…!?」
突如、黒い蔦の奥から、一気に巨大な狼の頭が飛び出してくる。
私の頭ほどは、一口で容易に丸呑みできてしまうだろう。
噛み付くように大きく口を開いたそれが目の前に迫ってくるまでは本当に一瞬で、黒の奥に緑や紫、赤が混じった毒々しい呪いの牙が、私の鼻先に触れようとした時だった。
「……」
黙ったままのラインハルト様の手が狼の頭に触れたかと思うと、一気に呪いが霧散する。
彼の手の表面には白く光った魔法陣が浮かび、こちらを向いたその目には、何重にも魔法陣が描かれていた。
「……ラインハルト、様?」
青白い複雑な模様の奥にある橙色の双眸。
普段は怜悧な光を宿している彼の瞳が、なんだか何も映していない透明なガラス玉のようで、背筋を冷たいものが走る。
見つめられているのがわかっても、言葉を発することも動くこともできなかった私から、ラインハルト様が視線を外し解呪が再開された。
元々、感情が表に出る人ではないし、精密な魔力操作が必要とされる解呪の最中だから、集中しているのも頷ける。しかし、どうにも様子がおかしく見えて気が気がでない。
とは言っても、精密な魔法の操作中に声をかけてもいいのかわからず、彼の手を握っている右手に力を込めるしかなかった。
私が感じている不安とは裏腹に、ラインハルト様は淡々と魔法を発動していく。
同時に発動されている魔法陣が、さっきまでは三つほどだったのに、どんどんと数を増やして重なり合う。
「……え」
魔法陣は数を増やし続け、二十を超えた辺りから私が追えない速さで現れたり消えたりする。
ユークライ殿下の夜会で、呪いをかけられた人々を解呪するラインハルト様にずっと付き添っていたが、その時よりも何倍も多くの魔法陣が何倍も速く入れ替わっていた。
およそ一人ではやっていると思えない膨大な量の魔法。
そして、それを黙々と発動し続けるラインハルト様。
「あっ……」
解呪はかなり順調になり、ラインハルト様と呪いの形勢が逆転したようだった。
呪いが再生するよりも速く白い光の粒がサーストン殿下の胸に降り掛かり、黒い蔦がその数を減らしていくと同時に、黒焦げにされた傷口も癒されて健康な肌色へと戻っていく。
呪いの大元であろう赤黒い心臓もその拍動が弱まり、そして何よりも。
「っ、あ……」
「サーストン殿下!」
彼のきつく閉じられていた瞼が震えたかと思うと、細くだが目が開いた。
私の呼び掛けに、彼は首をわずかに傾けて、私の方を向こうとする。
「私がわかりますか、殿下!」
「……あ、ま……ぅ」
「なっ、ラインハルト様っ!?」
サーストン殿下の額の上に浮かび上がった魔法陣が光り、開かれた目がすぐに閉じられた。
その魔法の張本人であるラインハルト様の方を向くが、彼は再び意識を手放した弟から視線を外そうとはしない。
「何をなさっているんですか、ラインハルト様!?」
「意識を奪っただけだ。痛みで動かれると治療が長引く」
「……っ」
確かに、合理的な判断だ。
しかし、弟が傷付けられたことに、他人に気取られるほどの怒りを覚えていた彼が、その弟が意識を取り戻した一瞬で再び意識を奪ったということが信じられなかった。
人間離れした魔法の数々を連発していることもあり、なんだか彼が機械になったような恐怖を感じてしまう。
それでも、私の心中なんてお構いなしに、時間は進み、解呪も進んでいく。
いつの間にか蔦はなくなり、後は随分と小さくなった呪いの大元があるのみだった。
赤黒いドクドクと脈打つ呪いの塊は、自らを守るように、表面に硬い鱗を生み出す。
「……ふぅ」
ラインハルト様は息を吐いて右手をかざすと、魔法陣の数を減らしていき、最後の呪いの上に巨大な魔法陣を描いていった。
魔法陣が描き込まれいき、完成したと同時に、彼の指に嵌められた指輪の宝石が強く発光する。
「っ……」
あまりの眩しさに手をかざす。
目の前がほとんど見えない中、パリンと音が鳴ったと思うと、段々と光が収まった。
「……サーストン殿下、良かった」
手をどかすと、サーストン殿下が安らかに寝息を立てている様子が目に入る。
呪いの禍々しい気配もなくなり、顔色も良くなった彼を見て安心した私が胸を撫で下ろしている横で、ラインハルト様がスッと立ち上がった。
「……」
「……ラインハルト様?」
なんだか様子がおかしくて名前を呼ぶが、返事はなく、私は慌てて立ち上がり彼の後を追う。
「……終わった、みたい、だな」
兄上が横たわるベンチの側まで歩いて行ったラインハルト様は、無言のまま兄上の肩に手を乗せる。
「解呪を始める」
「ライン、ハルト様。頼む、ぞ」
一方的に宣言だけし、兄上の言葉には反応しなかったラインハルト様は、いきなり手をかざすと魔法陣を描いた。
一つ、二つ、四つ、八つと倍々になっていく魔法陣が重なり合い、十秒も経たない内に、三十ほどにまでなる。
「……お、い。飛ばし過ぎ、じゃ」
魔法師である兄上から見てもきっと異常なくらいの魔法を展開するラインハルト様は、兄上の心配そうな声にも返事をしない。
清らかに白く光った魔法陣から、白や黄色、水色、桃色に輝く光の粒が降り注ぐ。
その光の粒が兄上の呪いと傷を全て覆い、ラインハルト様が手を振ると、指輪が輝いたのと同時に、さっきサーストン殿下の解呪が終わった時と同じ何かが割れるパリンという音が響いた。
「……え?」
「おいおい、マジか……」
ラインハルト様が兄上のところに向かってから、一分も経っていない。
それなのに、光の粒が消えてあらわになった兄上の肌には、呪いはおろか、傷一つ残っていなかった。
兄上は、何度か信じられないという様子で自分の首元や肩を撫でている。
私も、目の前の光景が信じられず、ラインハルト様と兄上の間で視線を行き来させていた。
「……え?」
そんな中、ラインハルト様が全身から力が抜けたかのように、不意に地面に膝をつく。
「ラインハルト様…?」
慌てて駆け寄って、彼の顔を覗き込んだ。
橙色の瞳が見えないほどに、未だに光を放つ魔法陣が何重にも重なり合っている。そのせいか、視線も合わず私に気付く様子もない。
私は少し躊躇ってから、彼の肩に手を乗せて名前を呼んだ。
「ラインハルト様、聞こえますか?」
「……アマ、リリ、ス?」
一瞬、魔法陣の光が弱まり、お互いの視線が合う。
が、すぐに幾何学模様の輝きは増していった。彼の体から力が抜けていき、私は彼を抱きかかえるようにして倒れないよう受け止める。
「ラインハルト様!返事をしてください、ラインハルト様!」
「……っ、あっ……ぐ……」
ラインハルト様が呻き声を漏らし、魔法陣がより一層強く輝くのが視界の端でわかった。
「ラインハルト様!!」
肩を揺すり、いくら何度大きな声で名前を呼んでも、目が合うことも返事をすることもない。
どうしようと、焦りが頭の中を埋め尽くしそうになるのを、ゆっくり息を吸って自分を落ち着ける。
「……冷静に、思い出して」
口に出してそう言い聞かせ、さっきまでの出来事の記憶を一つ一つ辿っていく。
ラインハルト様の様子がおかしくなったのは、どのタイミングだったか。
確か、サーストン殿下の解呪の途中だったはずだ。
サーストン殿下が途中で一度意識を取り戻した時には、もう既に普段と違う雰囲気だった。
その少し前。なかなか呪いを消すことができなかった時、確か。
「……失礼します」
ラインハルト様の黒いさらさらとした髪を指に乗せ、耳の後ろにかける。
あらわになったピアスは、私が見た時には黒曜石のような透き通る黒だったはずなのに、今は青白く燃えるように光っていた。
きっとこれが原因なのだと、確信めいたものを持って、私はそのピアスに手を伸ばす。
「……ラインハルト様、ゆっくり外しますね。だから魔力を、少しずつ抑えてください」
返事はないが、彼には聞こえているはず。
私はラインハルト様の耳に手を伸ばす。
内側から淡く光を放ち続けるピアスは、触れてみるとほんの少し温かい。
外すために両手を添えると、彼の柔らかい耳たぶに手が触れてしまう。
「ごめんなさい、くすぐったくないですか?」
ピアス本体を引き離そうとすると、一瞬ピリッと電流が走り、どうしてかラインハルト様の耳から離れようとしない。
一度深く息を吸ってから、手に力を込める。
「……あ」
まるで磁石で引き合っているかのようだったが、グッと力を込めた瞬間、引き離されたピアスからパチンと火花のようなものが舞う。
「あつっ……」
一気に熱くなったピアスが指からこぼれる。
それを拾おうと、少しラインハルト様から離れてかがもうとした時だった。
「……っ」
ギュッと抱き締められる。
驚いて声が出せない私の耳元で、低く小さい声で囁かれた。
「君のお陰で、戻って来ることができた」
腕が緩められて、ゆっくりと互いの体を離す。
やっと合ったラインハルト様の橙色の瞳は、私を映すと柔らかく細められた。
「僕の側にいてくれてありがとう」
私にだけ届いたその声は、今までに聞いたどの声よりも、優しくて暖かかった。

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