【コミカライズ配信中!】 婚約破棄後の悪役令嬢~ショックで前世の記憶を思い出したのでハッピーエンド目指します!~

弓削鈴音

41話:意識の狭間で

 暗い水底に沈んでいく。
 音も光もない世界で、ただ沈んでいくことだけがわかる。

 自分と周囲の境界が曖昧にぼやけて、意識が結んだ先からほどけていく。

 何か大切なことがあった気がする。
 どうしても負けたくないと思った何かがあった気がする。 
 救わねばならないと思った人がいた気がする。

 けれどそんな焦りにも似た想いも全てほつれて、暗い水の中に溶けてゆく。

 微睡みの中にいるような、抗いがたい温かい心地良さ。
 何もかもから解放されて、ただ流れに身を任せて、深く深く沈んでいく。


 ━━━起きて。


 このままここでずっとたゆたえのなら、どれほど良いのだろう。
 もうこれ以上誰かを気にする必要はない。ただ独りでどこまでも、この光の差さない水底に沈んでしまえたのなら。


 ━━━ねえ、起きて。


 なんだかひどく疲れたような気がする。
 身体の感覚があるわけではないのに不思議なものだが、奥深くから滲み出る疲労感が指先からどんどん溶けていくような、そんな感じがした。


 ━━━早く起きて。


 全部が溶けて、溶けて、溶けて。
 笑顔も涙も思い出も、全部が遠いどこかまで流されていって。

 後に残るのはなんだか浮遊感と混じったような空虚感だけではあるけれど、その身軽さが今はどうしてか有り難い。

 軽いのに、沈んでいく。
 何かに引かれるように、静かに奥底へと。

 すごく楽だ。
 何も考えなくて良いし、何も見なくていい。誰かに耳を傾ける必要も、陽の光に目を細める必要も、鏡に映る自分の姿に目を閉じる必要さえもない。

 ずっと、こうしていられたとしたら。


 ━━━ねえ、アマリリス。


 どれだけ目と耳を塞ぎやすいのだろう。


 ━━━苦しく、ないの?


「そんなところで、息ができるの?」


 唐突に耳に入ったその声が私の中で意味を成して形作られた瞬間、肉体の重さと共に息苦しさを感じる。

「……っ、ごほっ、ここは…?」

 真っ暗な世界が、少しだけ薄い黒になって、自分が目を閉じていたことに気が付く。

 ゆっくりと目を開けると、そこは大量の書架に囲まれていた。
 見渡す限りいっぱいの本棚に囲まれて、私は小さな泉のようなところの横に寝そべっている。

 不思議と身体は濡れてはいなかったが、自分の身体を見下ろした時に違和感を覚える。

 裾に黒で刺繍が施された、スレンダーラインの白金のドレス。
 ドレスとそろいのデザインの、上品なグローブ。

 我が家のお抱えドレス職人であるユカリが私のために、私の黒を引き立たせるように作ってくれた、大好きで宝物なドレス。

「なんで……」

 風呼びの宴に着て行った後は、屋敷のクローゼットに丁重に保管しているはずだ。
 袖を通した記憶はないのに、どうして。

「おはよう、アマリリス」

 ハッと声をかけられた方を向くと、そこに立っていたのは一人の少女だった。

 白いシャツと紺色のスカートに紺のブレザーを着て、黒髪を一つにまとめた少女は、私と目を合わせるとわずかにはにかむ。

「初めまして……は、ちょっと変かな。お互い、お互いの人生を知ってるのに」

 上手く言葉が出ない。
 そうね、とぎこちなく笑いながら返事をした私に、彼女もまたぎこちない笑みを浮かべた。

「とりあえず座って。……色々、説明するよ」



 私が目を覚ましたところの側には、二人で並んで掛けられるくらいの長椅子があって、私達はそこに並んで腰掛ける。

「……えっと、じゃあ、まずは自己紹介、かな」

 自分の指を不安そうに絡め合わせながら、彼女が口を開く。

「北川天音といいます。……えっと、十八歳で、一応同い年です」

 天音は、ここからは年齢抜かされちゃうけど、と小さく呟く。

 私はその溢れた言葉を聞かなかったフリをして、ゆったりと微笑みかけた。

「アマリリス・クリストと申します。……あなたは、私のことをどれくらい知っているのですか?」

「うーん……私が上がってきたのは最近だけど、大体知ってる、かな」

 上がってきた、という表現に首を傾げると、天音が私達の足元の泉を指差す。

 時折波打つその泉は、水は透き通っているようなのに光が差さないためか何も見えない。
 自分がこんなところにいたのだと思うとゾッとすると同時に、彼女もここにいたのだと気付く。

「アマリリスが、サーストンに婚約破棄されたでしょ?」

 何気なく口にされたその事実に、社交界と違って特に胸がざわつかないのは、彼女が私で私が彼女だからなのだろうか。

「その時にアマリリスの後悔がぐわーってここに流れてきて……ここって、感情が流れ出してくる場所なの。この水が全部、私達の感情。だからここにいる間は、自分の心で感じる必要がないから、すっごく楽だったの」

 確かに、と頷く。
 この泉の中にいる間は、まるで自分が世界に溶け込んだかのような気がして、自分の頭で考える必要も、心で感情を処理する必要もなくて、それが私には楽だった。

「でも、流れ込んできたアマリリスの後悔に、私も自分の後悔を思い出したの。自分を好きになれなかったこと、やけになって、自分を諦めちゃったこと」

 そこで一度言葉を切った天音は、私の目を覗き込んだ。

「知ってるでしょ、私が自殺したこと」

「っ……」

 言葉の出なかった私に、天音は弱々しく微笑む。

「私は戦えなかったの。私のことを攻撃するクラスのみんなとも、私にお人形さんでいて欲しいお母さんとも、全部投げ捨てようとする弱い自分とも。……私が唯一戦わなくてよくて、信頼してた相手が、お姉ちゃんだけだった」

「……」

「アマリリスが知ってる通り、私は前世でお姉ちゃんと……藍佳と双子で、学校は別だったけど、仲良くて。……私が他に、仲が良い人がいなかったから、お姉ちゃんが構ってくれてたんだけどね」

 なんと相槌を打てばいいかわからず、私は黙って聞くことしかできない。

「私、生まれた時から身体が弱くて、そのせいで親がすっごい過保護で、逆にお姉ちゃんはほったらかしで。お姉ちゃんは私のせいで、お母さんとかからもひどいこと言われてて……」

 そう。

 天音の母親は、双子として生まれた妹の身体の弱さを、共に生まれた姉の原因だと考えていた。
 妹の方が顔立ちが自分に似ていて、反対に姉が父親似だったこと、さらに夫婦仲が険悪になっていたことなどからも、母親の同時に生まれた姉妹への扱いの差は、ひどいものだった。

「でもお姉ちゃんは、私にすっごく優しかった。大好きで自慢の姉だった」

 そう語る天音の顔は、本当に嬉しそうで、そしてどこか翳りがあった。

「……お姉ちゃんが壊れちゃった時、私、何もできなかった」

 俯きながらポツリと溢れたその言葉に、私も思わず息が詰まった。

 彼女の感じた無力さを、悔しさを、悲しさを、私も知っているから。

「お母さんにやりたいこと全部否定されて、そのせいでお友達とも距離が遠くなっちゃって、居場所がなくて苦しいはずなのにずっと『大丈夫、大丈夫』って言い続けてて」

 白い細い指がぎゅっと握られて、余計に青白くなる。
 思わずそこに手を伸ばすと、天音が顔を上げた。

 今にも泣きそうなその顔に、私も胸が苦しくなる。

「お姉ちゃんは、私に弱みを見せてくれなかったの。最後の最後、一緒に飛び降りたあの時も、昔からずっと……今も」

 語気強く告げられたその言葉に、彼女の悲痛さをたたえた双眸の奥に、強い意志の光があることに気付く。

「アマリリス、お願いがあるの」

「……えぇ」

 私が頷いたのを見て、天音は一度深く息を吸うと、目を閉じながらゆっくりと吐いた。

 彼女が息を吐く音だけが、この静かな空間の中に響く。
 たっぷり十数秒ほど待って再び目を開けた彼女は、ぎこちなく笑いながら言った。

「私を、殺して」

「…………え」

「アマリリスの世界から、私を追い出して。……お姉ちゃんを、解放したいの」

 想像の外側から告げられたそのお願いに目を見開くことしかできない私に、天音が言葉を重ねる。

「お姉ちゃんは、今の"私達"の中に私がいることに気が付いてる。そして"私達"に対して罪悪感がある」

「……それは、確かに私もそう感じてるわ」

「でしょ?お姉ちゃんは、あの心中の責任は全部自分にあると思ってるの。私の人生を終わらせたのは、自分の責任だと思ってる。……私達二人の、罪なのに」

 天音の口から発せられた罪という単語は、私にも重々しくのしかかり、どうしようもない息苦しさを感じざるを得なかった。

「お姉ちゃん意外と頑固で、一回そうだと思うと絶対に変えてくれないから……お姉ちゃんを解放するには、私がいなくなるしかないの」

「そんな……他の方法が、きっとあるはずよ」

「私もアマリリスも、お姉ちゃんを説得することなんてできないよ」

「……でも」

「お願い、アマリリス。私を殺して」

 真っ直ぐに告げられたその言葉を、正面から受け止めたのはいいものの、なかなか頭も心も前に進まない。

 自分の前世を殺すなんて、そんな意味のわからない話があっていいのだろうか。

「……どう、やって?」

 天音の要求に従うにしても説得するにしても、ひとまず方法を聞かないといけない。

「強く、すっごく強く念じて」

「……何を?」

「私の死を」

 理解できない、有り得ないと思わず首を振る私の手を、天音がぎゅっと握る。

「ここは、あなたの世界なの」

「……私の、世界?」

「アマリリスの意識で構成されてる世界。今着てるドレスも、多分アマリリスの印象に一番強く残ってるからそれなんだと思う」

 そういうことだったのか、と自分の姿を見下ろす。

 言われてみて辺りを見渡すと、確かになんだかクリスト領の実家の図書室や王城の図書館、魔法学校の図書館のいずれにも少しずつ似ている。
 どれも私が長い時間勉強する際に過ごした場所で、私にとって慣れ親しんだ場所だからなのだろう。

「ここの王様……女王様はアマリリスなの。だからアマリリスが望めば、異物である私はきっといなくなれる」

「異物だなんて……あなたは私の前世で、私はあなたで、あなたは私なのよ?」

「違うよ」

 きっぱりと否定されたことに、私は鼻白む。

「あなたはアマリリス。他の誰でもない。……婚約破棄のショックで、ちょっと違う記憶を思い出しちゃっただけで、あなた自身はアマリリスだよ」

「でも……でも、もうあなたも私の一部なのに」

「今私は、アマリリスの中に少しだけ場所を借りて、いろいろ口出ししてるだけの状態なの。だから大丈夫。お願い」

 天音の手に力がこもる。

「お願い。私がいたら、お姉ちゃんは幸せになれないの…!」

 その言葉に、ふと風呼びの宴でのラインハルト様の言葉を思い出す。

 『君は幸せになれる、なるべき人だ』

 あの、無愛想で感情の起伏が乏しいように見えて思いやり深い人が、もしも今の天音を見たらどうするのだろう。

 そう思うと、少しずつ考えがまとまってくる。

「……アマリリス?」

 少しの間私が黙り込んでいたのを怪訝に思ったのか、天音が私の名前を呼ぶ。

 私はパッと笑みを浮かべると、安心させるように口を開いた。

「決めたわ、天音。私に任せて」

「……ありがとう。お願いね」

 私はニコッと笑いながら首肯して、立ち上がって天音の前に立つ。

 どこか緊張した面持ちの天音は、言い出したのは自分でもあっても、己の存在が再び消えてしまうことにやはり恐怖を感じているのだろう。

 当たり前だ。自分が消えるなんて、私は恐ろしくて考えられない。
 死がいずれやってくるものだとしても、私はまだそれを覚悟できていないし、そして目の前にいる自分の前世にもそれをもたらすことなんてできない。

「手を」

「……うん」

 私は膝をついて、天音の両手をそっと握る。

 この、現実ではない世界であっても温度は感じるのだと、さっきから何度も手を握っているのに初めて気付く。
 彼女の指先が冷えているのは、きっとこれから自分に訪れることに対するものだ。

 私は、天音をしっかりと見つめて考える。

 天音の願いを叶えながら、天音をも幸せにできる方法を。それを実現できるのは、私だけだ。

「……私は天音」

「…………え」

「私はアマリリス・クリストであり、北川天音でもある」

「ねえ、ちょっと待って」

「北川天音は私で、アマリリス・クリストも私」

「待ってってば、アマリリス!」

「私達は二人で一人。かけがえのない、幸せになれる一人」

「それじゃあお姉ちゃんを助けられないんだってば、ねえアマリリス!!」

 半分金切り声のような悲鳴を上げる天音に、私は笑いかける。

「私はあなた、あなたは私。大丈夫、私達ならきっとアイカを救える」

「無理だよ!お姉ちゃんの責任感の強さ知ってるでしょ!?頑固なんだよ!?」

「確かに、私だけだったら無理かもしれないわ」

 え、とそこで天音が声を漏らす。

「でもアイカの周りには、たくさんの素敵な人達がいる」

「……それは、そう、だけど」

「事情を話しましょう。そして協力をお願いするの」

 私の申し出に、天音がこぼれそうなほどに大きく目を見開く。

「そんな、信じてもらえるわけない」

「きっとみんな信じてくれるわ。そして絶対に協力してくれる」

 ラインハルト様、ダラン様、兄上、そしてユークライ殿下の顔を思い浮かべる。

 あの人達なら……特にユークライ殿下であれば、きっとアイカを救ってくれるはずだ。

「確かにユークライさんなら助けてくれるかもしれない……け、ど……」

 途切れ途切れの天音の言葉に、私は上手く行った喜びに頬が緩む。

「良かった。思った通りだわ」

「私達が一人になって、その上でちゃんとお姉ちゃんと話して、みんなに手伝ってもらってって……そんな、小学生が、考えるみたいな」

「小学生でもわかるくらい、対話は強力なものということよ」

 私の思考がどんどん天音に流れていくように、天音の思考も私に入ってくる。

 今までは、まとまって彼女の記憶が私に入ってくるだけだったから、この不思議な精神空間での彼女の考えは知らなかった。
 しかし、今こうして二人が一人になっていく中で、過去の彼女の思いやりも知ることになる。

「全部の記憶が流れてこないように、堰き止めてくれていたのね。私が耐えられなくなると思ったから」

 一度目の婚約破棄の時、自分の記憶が私に流れていくことに焦ったことや、二度目にアイカと会った時には自分自身ショックで記憶を全て止められなかったことの記憶に、私はありがたさと嬉しさで口角が上がってしまう。

「……ほんとは、全部止めるつもりだったの。思い出しても、いいことないし」

「でも、強くなれたと思う。人って経験が増えるだけで、大きく成長できるから」

 いつの間にか周囲の景色も崩れ始めていた。

 崩れたところに新しい何かが出来ようとして、再び壊れて、また新しいものが現れるというのも何度も繰り返しながら、この世界が創り変わっていく。

「私の前世でいてくれてありがとう、天音。これからもよろしくね」

 気付けば天音の姿は光の粒の塊のようになっていた。

「アマリリスも、つぶつぶになってるよ。……っ、私の生まれ変わりが、アマリリスで良かった!これからも、っ、よろしくね」

 しゃくり上げながら言う天音に、思わず笑みを漏らしてしまう。
 別に泣くこともないのに。

「一緒に幸せを掴みましょう」

「……うん、一緒に」

 足場も崩れて、自分が今どこに立っているかもわからない世界で、視界いっぱいに白が溢れて、そしてそこで意識は途切れた。

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