【コミカライズ配信中!】 婚約破棄後の悪役令嬢~ショックで前世の記憶を思い出したのでハッピーエンド目指します!~
第6話:家族は
「……様、アマリリスお嬢様」
はっと顔を上げると、窓の外から橙色の光が差し込んできていた。
体がだるい。ソファで座ったまま眠ってしまったからだろうか。
何度か目を瞬いて軽く伸びをする。せっかく治癒をしてもらったというのに、質の悪い睡眠のせいで身体中が疲れていた。
しかし、気分は寝る寝る前よりもすっきりしている。
「旦那様がお呼びです。支度のお手伝いを」
「お、願い。……んんっ、ごめんなさい、水を」
かしこまりました、と侍女のエミーが微笑んで水差しを持ってきてくれた。
コップに注がれた冷たい水を飲んで、カラカラに乾いた喉を潤す。
結局お風呂には入れそびれてしまった。準備をしてもらっていたのに申し訳ない。きっと呼びに来てくれていたはずなのに。
そうしている間に、もう一人の侍女であるヘレナがてきぱきとクローゼットからドレスを取り出し、化粧机に道具を並べていく。
頭が痛むし体もまだ重いけれど、父上に呼ばれているのならあまり待たせられない。ソファから立ち上がって、部屋の中の比較的開けたところで両腕を広げた。
重いドレスを脱いで、一度体を軽く拭いてもらう。ただの濡れた布ではなく香油をわずかに混ぜているのか、爽やかで優しい匂いで落ち着く。
卒業式は制服での参加だったが、その後の卒業パーティーでの服装は自由だ。貴族の生徒は皆豪華な衣装に身を包むし、昨年度からは平民の生徒のために格安でドレスやタキシードの貸し出しも行っている。
私もドレスを着ていたが、あの一件のせいでもう着れるかどうか怪しい。手直しをするかどこかへ寄付してもいいかもしれないだなんて考えながら、用意されたミモレの紺色のドレスに腕を通す。
「一度化粧を落とします。冷たい水でよろしいですか?」
「えぇ、お願い」
鏡の中を見ると、相変わらずひどい顔をしている。涙のせいで化粧が崩れてしまっているから尚更だ。
しかし彼女たちの腕だったら、最低限父上と母上に見れる程度にはしてくれるし、大丈夫だろう。
肩の力を抜いて少し目を閉じていると、すぐに声をかけられる。
「髪型はどう致しますか?」
「シニヨン……いえ」
髪を纏めているのが好きだと言われて、それからずっとお団子かシニヨンにしていた。
けれど今の私がそうしたところで、意味はないから。
「適当にハーフアップでいいわ」
「っ!かしこまりました」
少し驚いたようにしたが、すぐにその通りにしてくれる。
長く伸ばした髪が首に触れている感触自体、久しぶりかもしれない。
鏡の中の自分を見ると、青白い自分の顔色が気になってしまう。
「ごめんなさい、紅を差してくれるかしら?」
「……っ、もちろんで、ございます」
口紅を塗るのなんて、いつぶりだろう。
橙色がかかった朱色の紅が乗ると、少し顔色が明るくなったように思えた。口角を上げると、いつもより柔らかい表情をしているような気がして嬉しくなる。
化粧も終わって立ち上がると、すごく新鮮な感じがした。
「これからは別に化粧を控えめにしなくてもいいわ」
━━━派手に顔に色を乗せるのは好きじゃない。
「髪型もあなたたちに任せるから」
━━━髪を下ろすことの良さが俺にはわからないな。
「ドレスも、あまり着てなかったラインを試してみたいわ」
━━━スカートは広がっている方がいい。
「使っていなかったアクセサリーも出してくれる?」
━━━装飾をジャラジャラつけるのは嫌いだ。
「いきなり変えてごめんなさい。頼めるかしら」
「もちろんでございます、お嬢様。お嬢様のお望みのままに」
そう言ったエミーに続くように、ヘレナも頷いてくれる。
思い返せば、彼女たちには随分とわがままを言ってしまっていた。自分の理想に近付くために、何度彼女たちの提案を拒否したことか。
どうか許して欲しいなという思いを込めて微笑み返し、私は父上の待つ部屋へと向かった。
「失礼致します」
団欒室と呼んでいる、いわば居間のような部屋の扉の前に立つ。
冬になると冷え込むクリスト領では、二重の扉をつけることが多い。特に我が公爵家では防犯の意味も込めて、重要な部屋に入るためには一つの小さな別の部屋を通らないといけないような設計にしている。
それはこの団欒室も同様だ。廊下から一つ入った扉の前に、守衛が二人立っていた。公爵家の護衛としては人数が少ないが、安全なタウンハウスの中で、しかも現役の魔法師がいるから、むしろ十分すぎるくらいかもしれない。
家族との時間を重んじる我が一族では、公爵領の屋敷にも、このタウンハウスにも、別荘にも団欒室が造られている。
基本的に立ち入れるのは私たち家族だけで、護衛も部屋の外で待機させていることが多い。家族での大事な話があるときにもよく使われる部屋だった。
「入りなさい」
父上の声で扉が開かれる。
なぜか緊張して、俯いたまま部屋に入って扉が閉まった瞬間、傍らにいたレオナールに抱き締められた。その腕は素早かったものの、まるで割れ物に触れるかのように優しい。
「姉さん、ごめん、俺、姉さんが疲れてることに気付いてなくて、いきなり抱き着いちゃって……」
「反省してるなら、今ここで同じことしないだろ普通」
兄上の言葉に、レオナールは照れ臭そうに笑う。
「だって姉さんが、自分らしくなってくれたから!可愛いよ姉さん!」
「気付いてくれたのね、ありがとう」
久しぶりに紅を唇に乗せて、少しだけ不安だった。私なんかに似合うのか、と。
しかしレオナールには好評だったようで、彼は大きく破顔して私をソファセットの方へと引っ張っていく。
父上と母上が並んで一つのソファに腰掛けていて、その隣の一人掛けのところに兄上は座っていた。レオナールとシルヴァンは別の大きめのソファを使っていたらしく、大量のクッションが置いてあるそこに私も座る。
私の左右を挟むように弟たちが座り直したところで、父上が軽く咳払いをした。
「まずはアマリリス。卒業おめでとう」
白が混じった色素の薄い金の髪、茶色の目の眦はわずかに下がっていて穏やかな顔立ちだが、公爵でありながら外務大臣として自ら諸外国の重鎮と渡り合っている父上の纏っている気迫は、娘の私であっても気圧されてしまう。
「私からもおめでとう、リリィ。卒業式での姿、立派だったわ」
そう言って灰色の瞳を細めた母上は、亜麻色の髪を緩く括って背中に垂らしている。
目が悪いため眉間に皺を寄せがちで、そのせいで怖い印象を与えることが多いらしいが、貴族社会においては眼鏡をかけることはあまり良しとはされていないのだ。
二人が並んでいると圧迫感があるな、だなんて今更なことを思ってしまうのは、「私」の記憶があるからだろうか。
「ありがとうございます、父上、母上」
午前中は仕事のあった父上に代わって、卒業式には母上が出ていた。そして、卒業パーティーには母上と交代で兄上が私と一緒にいてくれた。
「ヴィンセントとレオナールから卒業パーティーでのことは聞いた」
「……はい」
叱責か、慰めか。
どちらが来るか分からず、肩を強張らせる。
ふと、右手が暖かくなってそちらを向くと、レオナールが綻ぶように笑った。
反対の手にも温もりを感じると、「大丈夫です」と小さくシルヴァンが言ってくれる。
ありがとう、という気持ちを込めて両手を握り返して、下がりかけていた視線を上げると、父上と目が合った。
「アマリリス、お前が無事でよかった。取り返しのつかないことが起きる前に、イリスティア王妃が駆けつけたのは僥倖だ。……これは、父としての言葉でも、公爵としての言葉でもある」
「はい、父上」
そう告げる父上の目は、一人の為政者としての鋭さを宿していた。
「お前も、貴族令嬢の髪の重要性は理解しているはずだ。その上で、どうしてあそこで切るという選択肢を選んだ」
厳しい言葉を、父上はきっと敢えて選んでいるんだろう。私がこれから、その問いかけを突き付けられるであろうということを予想して。そして、それに私が傷つくだろうということも考えて。
「サ……第三王子殿下のお言葉だから、というのも少しはありました」
あの方の望みは全て叶えたいと、かつてはそう思っていた。
けれど私は……少しだけ、前を向けるようになった。それを伝えたい。
「しかしそれ以上に、殿下の状態が不安定だったことが理由です」
「状態が?」
「えぇ。殿下の魔力が抜きん出ていることは父上もご存知かと思います」
ふと、そこで第二王子のことを思い出す。
光属性に適性を持ち、私の疲労を直した上で大したことはないと言った彼の魔法の才能は、ひょっとしたらサーストン様以上なのではないかという気がしてくる。
「……殿下は魔法の才能に溢れた方ですが、その力の強大さゆえに魔力の制御はまだ完璧ではありません。特に感情が昂られた時に、無意識に風を起こされます」
「ヴィンセントの報告にもあったな」
「えぇ。魔法学校でも訓練をなさっていたのですが、不十分だったようです。そんな殿下が、他国の王族や貴族の子女がいる中で魔力を暴走させ、怪我を負わせるなんてことが万が一にもあれば、それは国損です」
「それを防ぐためだ、と?」
「どちらにしろ、第三王子に婚約破棄された私は傷物でしかありません。価値のない私一人が泥を被ることで国損を回避できるのであれば、喜んでこの髪を差し出します」
「……そうか」
父上は深く溜め息をついた。
まさか答えを間違えたのかと思って、だったら何を言えば良かったと考える。が、他に答えが見つからない。
「あの……」
「姉様、本気で仰ってるんですか」
シルヴァンの玲瓏な声は低く沈んでいた。
「……僕たちは、姉様が大事です。姉様の全てが大事です。もちろんその髪も」
「ルゥの言う通りだよ。俺たちは姉さんに傷ついて欲しくないんだ。姉さんがいいと思っていても、俺たちは嫌なんだ。姉さんに価値がないなんて、姉さんにも言わせない」
今までに聞いたことのないような真剣な声に、この子たちはもう小さな子供ではないのだと、場違いながら思う。
「二人に言われちまったけど、俺が言いたいのもほぼ一緒だ。……いいかリリィ、お前は自分を軽んじるな。俺ら家族にとって、お前はかけがえのない存在だから」
「そうよリリィ」
私の目の前までやってきた母上は、カーペットの上に膝をついて私の手を取る。
「あなたは私の大切な娘よ。あなたの婚約者なんて一切関係ないわ。私も、あの人もそう思ってるわ」
そう言って振り返った母上の視線の先にいる父上は、再び深く溜め息をついた。
「全て言われてしまったが……そうだな。私から言うのであれば、お前は昔から気負いすぎなきらいがある。お前が全てを解決しなくてはいけない、なんて思う必要はない。お前は私たちにとっての宝物だ。それは、それこそお前が婚約を破棄されたり、髪を失ったりしても変わらない。ありのままのお前を、私たちは愛しているから」
「…………私、なんかが」
気付いた時には、涙が溢れていた。
さっき散々泣きつかれたはずなのに、どうしてか胸から何かが込み上げてくるようなものが止まらない。
「なんか、なんて言わないの、リリィ」
母上に優しく抱き寄せられる。
ふわりと優しい花の香りが広がった。大好きな母上の香りだ。
「ずっとずっと届かなかった。でも、ずっと伝えたかったの。……あなたはずっと、殿下を基準に物事を考えていた。服も化粧も髪型も、全部」
「……わ、たしは…………」
「あなたのその努力を否定したりはしないわ。……私たちは、あなたを愛しているの。だからこそ、あなたには自分を見失って欲しくなかった」
「自分を、見うし、な、う」
私は私を忘れていたのだと、今更になって気付く。
ずっと私は、サーストン様の理想と自分を近付けようとしてきた。
あの方に認められることだけが、私の目的で生き甲斐だった。……でも今は違う。
あの方に拒絶されて、私は全てを無くした。空っぽになって、何もかもわからなくなって、そこで少し、私自身の心に素直になろうと思えた。
「……ごめん、なさい、母上。父上も、兄上も、レオも、ルゥも、みんな。ご、めん、なさ、い」
「いいのよリリィ。あなたが無事でいるだけでいいの」
家族の優しさに包まれて、すごく暖かくて幸せで、私なんかがこんなにも満たされていていいのかと幸福感と罪悪感で胸が詰まって苦しくなった。
はっと顔を上げると、窓の外から橙色の光が差し込んできていた。
体がだるい。ソファで座ったまま眠ってしまったからだろうか。
何度か目を瞬いて軽く伸びをする。せっかく治癒をしてもらったというのに、質の悪い睡眠のせいで身体中が疲れていた。
しかし、気分は寝る寝る前よりもすっきりしている。
「旦那様がお呼びです。支度のお手伝いを」
「お、願い。……んんっ、ごめんなさい、水を」
かしこまりました、と侍女のエミーが微笑んで水差しを持ってきてくれた。
コップに注がれた冷たい水を飲んで、カラカラに乾いた喉を潤す。
結局お風呂には入れそびれてしまった。準備をしてもらっていたのに申し訳ない。きっと呼びに来てくれていたはずなのに。
そうしている間に、もう一人の侍女であるヘレナがてきぱきとクローゼットからドレスを取り出し、化粧机に道具を並べていく。
頭が痛むし体もまだ重いけれど、父上に呼ばれているのならあまり待たせられない。ソファから立ち上がって、部屋の中の比較的開けたところで両腕を広げた。
重いドレスを脱いで、一度体を軽く拭いてもらう。ただの濡れた布ではなく香油をわずかに混ぜているのか、爽やかで優しい匂いで落ち着く。
卒業式は制服での参加だったが、その後の卒業パーティーでの服装は自由だ。貴族の生徒は皆豪華な衣装に身を包むし、昨年度からは平民の生徒のために格安でドレスやタキシードの貸し出しも行っている。
私もドレスを着ていたが、あの一件のせいでもう着れるかどうか怪しい。手直しをするかどこかへ寄付してもいいかもしれないだなんて考えながら、用意されたミモレの紺色のドレスに腕を通す。
「一度化粧を落とします。冷たい水でよろしいですか?」
「えぇ、お願い」
鏡の中を見ると、相変わらずひどい顔をしている。涙のせいで化粧が崩れてしまっているから尚更だ。
しかし彼女たちの腕だったら、最低限父上と母上に見れる程度にはしてくれるし、大丈夫だろう。
肩の力を抜いて少し目を閉じていると、すぐに声をかけられる。
「髪型はどう致しますか?」
「シニヨン……いえ」
髪を纏めているのが好きだと言われて、それからずっとお団子かシニヨンにしていた。
けれど今の私がそうしたところで、意味はないから。
「適当にハーフアップでいいわ」
「っ!かしこまりました」
少し驚いたようにしたが、すぐにその通りにしてくれる。
長く伸ばした髪が首に触れている感触自体、久しぶりかもしれない。
鏡の中の自分を見ると、青白い自分の顔色が気になってしまう。
「ごめんなさい、紅を差してくれるかしら?」
「……っ、もちろんで、ございます」
口紅を塗るのなんて、いつぶりだろう。
橙色がかかった朱色の紅が乗ると、少し顔色が明るくなったように思えた。口角を上げると、いつもより柔らかい表情をしているような気がして嬉しくなる。
化粧も終わって立ち上がると、すごく新鮮な感じがした。
「これからは別に化粧を控えめにしなくてもいいわ」
━━━派手に顔に色を乗せるのは好きじゃない。
「髪型もあなたたちに任せるから」
━━━髪を下ろすことの良さが俺にはわからないな。
「ドレスも、あまり着てなかったラインを試してみたいわ」
━━━スカートは広がっている方がいい。
「使っていなかったアクセサリーも出してくれる?」
━━━装飾をジャラジャラつけるのは嫌いだ。
「いきなり変えてごめんなさい。頼めるかしら」
「もちろんでございます、お嬢様。お嬢様のお望みのままに」
そう言ったエミーに続くように、ヘレナも頷いてくれる。
思い返せば、彼女たちには随分とわがままを言ってしまっていた。自分の理想に近付くために、何度彼女たちの提案を拒否したことか。
どうか許して欲しいなという思いを込めて微笑み返し、私は父上の待つ部屋へと向かった。
「失礼致します」
団欒室と呼んでいる、いわば居間のような部屋の扉の前に立つ。
冬になると冷え込むクリスト領では、二重の扉をつけることが多い。特に我が公爵家では防犯の意味も込めて、重要な部屋に入るためには一つの小さな別の部屋を通らないといけないような設計にしている。
それはこの団欒室も同様だ。廊下から一つ入った扉の前に、守衛が二人立っていた。公爵家の護衛としては人数が少ないが、安全なタウンハウスの中で、しかも現役の魔法師がいるから、むしろ十分すぎるくらいかもしれない。
家族との時間を重んじる我が一族では、公爵領の屋敷にも、このタウンハウスにも、別荘にも団欒室が造られている。
基本的に立ち入れるのは私たち家族だけで、護衛も部屋の外で待機させていることが多い。家族での大事な話があるときにもよく使われる部屋だった。
「入りなさい」
父上の声で扉が開かれる。
なぜか緊張して、俯いたまま部屋に入って扉が閉まった瞬間、傍らにいたレオナールに抱き締められた。その腕は素早かったものの、まるで割れ物に触れるかのように優しい。
「姉さん、ごめん、俺、姉さんが疲れてることに気付いてなくて、いきなり抱き着いちゃって……」
「反省してるなら、今ここで同じことしないだろ普通」
兄上の言葉に、レオナールは照れ臭そうに笑う。
「だって姉さんが、自分らしくなってくれたから!可愛いよ姉さん!」
「気付いてくれたのね、ありがとう」
久しぶりに紅を唇に乗せて、少しだけ不安だった。私なんかに似合うのか、と。
しかしレオナールには好評だったようで、彼は大きく破顔して私をソファセットの方へと引っ張っていく。
父上と母上が並んで一つのソファに腰掛けていて、その隣の一人掛けのところに兄上は座っていた。レオナールとシルヴァンは別の大きめのソファを使っていたらしく、大量のクッションが置いてあるそこに私も座る。
私の左右を挟むように弟たちが座り直したところで、父上が軽く咳払いをした。
「まずはアマリリス。卒業おめでとう」
白が混じった色素の薄い金の髪、茶色の目の眦はわずかに下がっていて穏やかな顔立ちだが、公爵でありながら外務大臣として自ら諸外国の重鎮と渡り合っている父上の纏っている気迫は、娘の私であっても気圧されてしまう。
「私からもおめでとう、リリィ。卒業式での姿、立派だったわ」
そう言って灰色の瞳を細めた母上は、亜麻色の髪を緩く括って背中に垂らしている。
目が悪いため眉間に皺を寄せがちで、そのせいで怖い印象を与えることが多いらしいが、貴族社会においては眼鏡をかけることはあまり良しとはされていないのだ。
二人が並んでいると圧迫感があるな、だなんて今更なことを思ってしまうのは、「私」の記憶があるからだろうか。
「ありがとうございます、父上、母上」
午前中は仕事のあった父上に代わって、卒業式には母上が出ていた。そして、卒業パーティーには母上と交代で兄上が私と一緒にいてくれた。
「ヴィンセントとレオナールから卒業パーティーでのことは聞いた」
「……はい」
叱責か、慰めか。
どちらが来るか分からず、肩を強張らせる。
ふと、右手が暖かくなってそちらを向くと、レオナールが綻ぶように笑った。
反対の手にも温もりを感じると、「大丈夫です」と小さくシルヴァンが言ってくれる。
ありがとう、という気持ちを込めて両手を握り返して、下がりかけていた視線を上げると、父上と目が合った。
「アマリリス、お前が無事でよかった。取り返しのつかないことが起きる前に、イリスティア王妃が駆けつけたのは僥倖だ。……これは、父としての言葉でも、公爵としての言葉でもある」
「はい、父上」
そう告げる父上の目は、一人の為政者としての鋭さを宿していた。
「お前も、貴族令嬢の髪の重要性は理解しているはずだ。その上で、どうしてあそこで切るという選択肢を選んだ」
厳しい言葉を、父上はきっと敢えて選んでいるんだろう。私がこれから、その問いかけを突き付けられるであろうということを予想して。そして、それに私が傷つくだろうということも考えて。
「サ……第三王子殿下のお言葉だから、というのも少しはありました」
あの方の望みは全て叶えたいと、かつてはそう思っていた。
けれど私は……少しだけ、前を向けるようになった。それを伝えたい。
「しかしそれ以上に、殿下の状態が不安定だったことが理由です」
「状態が?」
「えぇ。殿下の魔力が抜きん出ていることは父上もご存知かと思います」
ふと、そこで第二王子のことを思い出す。
光属性に適性を持ち、私の疲労を直した上で大したことはないと言った彼の魔法の才能は、ひょっとしたらサーストン様以上なのではないかという気がしてくる。
「……殿下は魔法の才能に溢れた方ですが、その力の強大さゆえに魔力の制御はまだ完璧ではありません。特に感情が昂られた時に、無意識に風を起こされます」
「ヴィンセントの報告にもあったな」
「えぇ。魔法学校でも訓練をなさっていたのですが、不十分だったようです。そんな殿下が、他国の王族や貴族の子女がいる中で魔力を暴走させ、怪我を負わせるなんてことが万が一にもあれば、それは国損です」
「それを防ぐためだ、と?」
「どちらにしろ、第三王子に婚約破棄された私は傷物でしかありません。価値のない私一人が泥を被ることで国損を回避できるのであれば、喜んでこの髪を差し出します」
「……そうか」
父上は深く溜め息をついた。
まさか答えを間違えたのかと思って、だったら何を言えば良かったと考える。が、他に答えが見つからない。
「あの……」
「姉様、本気で仰ってるんですか」
シルヴァンの玲瓏な声は低く沈んでいた。
「……僕たちは、姉様が大事です。姉様の全てが大事です。もちろんその髪も」
「ルゥの言う通りだよ。俺たちは姉さんに傷ついて欲しくないんだ。姉さんがいいと思っていても、俺たちは嫌なんだ。姉さんに価値がないなんて、姉さんにも言わせない」
今までに聞いたことのないような真剣な声に、この子たちはもう小さな子供ではないのだと、場違いながら思う。
「二人に言われちまったけど、俺が言いたいのもほぼ一緒だ。……いいかリリィ、お前は自分を軽んじるな。俺ら家族にとって、お前はかけがえのない存在だから」
「そうよリリィ」
私の目の前までやってきた母上は、カーペットの上に膝をついて私の手を取る。
「あなたは私の大切な娘よ。あなたの婚約者なんて一切関係ないわ。私も、あの人もそう思ってるわ」
そう言って振り返った母上の視線の先にいる父上は、再び深く溜め息をついた。
「全て言われてしまったが……そうだな。私から言うのであれば、お前は昔から気負いすぎなきらいがある。お前が全てを解決しなくてはいけない、なんて思う必要はない。お前は私たちにとっての宝物だ。それは、それこそお前が婚約を破棄されたり、髪を失ったりしても変わらない。ありのままのお前を、私たちは愛しているから」
「…………私、なんかが」
気付いた時には、涙が溢れていた。
さっき散々泣きつかれたはずなのに、どうしてか胸から何かが込み上げてくるようなものが止まらない。
「なんか、なんて言わないの、リリィ」
母上に優しく抱き寄せられる。
ふわりと優しい花の香りが広がった。大好きな母上の香りだ。
「ずっとずっと届かなかった。でも、ずっと伝えたかったの。……あなたはずっと、殿下を基準に物事を考えていた。服も化粧も髪型も、全部」
「……わ、たしは…………」
「あなたのその努力を否定したりはしないわ。……私たちは、あなたを愛しているの。だからこそ、あなたには自分を見失って欲しくなかった」
「自分を、見うし、な、う」
私は私を忘れていたのだと、今更になって気付く。
ずっと私は、サーストン様の理想と自分を近付けようとしてきた。
あの方に認められることだけが、私の目的で生き甲斐だった。……でも今は違う。
あの方に拒絶されて、私は全てを無くした。空っぽになって、何もかもわからなくなって、そこで少し、私自身の心に素直になろうと思えた。
「……ごめん、なさい、母上。父上も、兄上も、レオも、ルゥも、みんな。ご、めん、なさ、い」
「いいのよリリィ。あなたが無事でいるだけでいいの」
家族の優しさに包まれて、すごく暖かくて幸せで、私なんかがこんなにも満たされていていいのかと幸福感と罪悪感で胸が詰まって苦しくなった。
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