【コミカライズ配信中!】 婚約破棄後の悪役令嬢~ショックで前世の記憶を思い出したのでハッピーエンド目指します!~

弓削鈴音

89話:冷や水

 パタリと、手にしていた分厚い本が閉じた音でハッと目を覚ました。

 もう既に外は真っ暗で、防犯のために手元以外の照明を全て消している部屋は、全体的に薄暗い。
 いつもならとっくに眠りに入っている時間だが、ブレデル元伯爵の屋敷から帰る時、そして占星術を使った後に気を失うように眠ってしまったせいで、どうにも眠くならなかった。

「いや……」

 それらももちろん一因ではあるだろうけれど、今私が寝る気になれなかったのは、胸がずっとざわついているからだ。

 叡智の森、そのどこかの洞窟にセルカがいると、そのことがわかったから。

 占星術でそのことを突き止め、そのまま意識を失った私が再び目を覚ました時、日はもう暮れていて、その一報は王城に……ユークライ殿下に伝えられていた。
 彼がすぐに救助を向かわせることは予想していたが、まさか彼本人が向かうとは思わなかった。従者からはかなり止められたらしいが、かなり強情に自分が行くと言い張っていたらしいと、言伝をしたアレックスが言っていたが、その様子はありありと浮かんでくる。
 おそらく彼のことだから、直接捜査をするついでだとかなんとか言っているのだろうと思ったらやはりその通りで、今回ブレデル元伯爵領に行く途中で通らなかった箇所を通って向かうとのことだった。

 そんな一悶着があったことを聞いた私は、すっかり夕飯の時間になるまで目を覚まさなかった私に付き添ってくれていたラインハルト様とジュミニに、謝罪とお礼を伝えた。
 と言っても、眠っていた私の傍らに、たくさんの専門書や書き付けが置いてあったから、二人が話題に事欠かなかったことは明らかだったけれど。

 とにかく濃い一日だったから、帰って来て軽く夕飯を食べて湯浴みをした後も、どうにも寝付けずにいた。
 私を心配するヘレナをどうにか誤魔化して下がってもらい、暗い部屋の中で無理矢理目を閉じていたけれど、なんだか時間を無駄にしてしまっている気がして、少し前から本を読んでいた。

 選んだのは、精霊の愛し子についてまとめている一冊。
 おそらく、調査隊の中で私しか知らない秘密━━━セルカが天災の精霊の愛し子だということがなんでか頭に浮かんできて、それに関連した話を調べずにはいられなかった。

 文字通り、人智を超えた力を持つ精霊。
 その精霊に愛され、加護を受け、超常の力を分け与えられた人間を、愛し子と呼ぶ。
 そして、あらゆる精霊の中でも、天災の精霊は一際存在感を持っている存在である。それはひとえに、その力の強大さゆえに。

 だから、私はセルカの安否に関して、一種の安心があった。
 精霊にとって愛し子は、己の一部を受け渡したともいえる、何にも代え難い存在。天災の精霊が、そう簡単にセルカに何かあることを許すとは思えなかった。

 ただ、かの精霊について情報がなさすぎて、セルカの無事を心から言い切ることもできなかった。残虐な面が取り上げられているような逸話が多く、自身を祀るリエーシェにも数百年姿を表していないから、愛し子を見捨てるような可能性もあるのではないかと、そう心によぎってしまったのだ。
 そんな不安をかき消したいという気持ちも手伝い、精霊が自身の愛し子に手を貸した例を中心に読んでいたのだが、いつの間にかうつらうつらしてしまっていたらしい。

「……ん」

 目をぱちぱちと瞬いて、意識が途切れそうになる前まで読んでいた行を探す。
 自分の指が置かれていた箇所の記述に見覚えがなく、指をずらしてそこを確認した。

「『愛し子と常に行動を共にする精霊についても、報告が複数上がっている。人の感情を司る精霊に多く見られる現象であり……』。天災は、自然に関係するわよね」

 どうやら、関係ないところを読み進めていたらしい。
 親指の長さほどの分厚さがあるこの本を、隅から隅まで読むのは、さすがに厳しいものがある。
 自分に必要そうなところだけかいつまんで読むのも、貴族として必要な技能だと幼い頃から教えられてきたが、長年の教えも眠気には勝てなかったようだ。

 さすがにそろそろ眠らなくてはと思いながら、立ち上がり椅子を戻して、ベッドの中に潜り込む。
 ふんわりとした毛布が自分を包む中、セルカはあの硬い地面の上で寝ていたのか思うと、安全な場所でぬくぬくとした自分への嫌悪感が湧いてきた。

 その感情を押し殺すのも、なんだか自分の罪悪感を無かったことにしているようで、頭から一向に離れてくれない。
 罪悪感、とその単語が浮かび上がると、今度は手に人を斬った生々しい感触が蘇ってくる。ぴくりとも動かなくなった、冷たい死体も。

「っ、はぁ……ふぅ……」

 これでは眠ることができないと、寝返りを打ちながらゆっくりと深く呼吸をする。私は眠っているのだと、何度も自分にそう言い聞かせた。

 できるだけ外の情報を遮断しようとすればするほど、窓の外で梢が揺れる音や、遠くでカラカラと鳴る馬車の車輪の音が聞こえてきてしまう。ジュミニから、こうやって遠くの音もはっきり拾えるのは占星術師の特性で、制御さえできれば普通の人と同じような範囲に限ることもできるらしいのだが、どうやら道のりは遠そうだ。

 そういえば、ジュミニとの婚約の申し出の話を、城から帰ってきた父上にしたところ、とてもとても深い溜め息をつかれた。私達の前では常に厳しい表情か、あるいは家族に対して見せる慈愛の表情しか見せないため、かなり驚いたが。

 ダラン様から、ラインハルト様との婚約を仄めかされていることも伝えるべきかと悩んだが、結局伝えないことにした。父上に一度に衝撃を与えすぎることは望んでいないし、それにまだダラン様が個人的に伝えてきているだけだ。

 いずれにせよ、十二年間も結んでいた婚約が白紙に戻ったのだから、すぐに新たな相手を見つける必要はない。
 父上達からもそう言われているし、私自身そう思っている。

「駄目ね……」

 一度今日のことを振り返り始めると止まらなくなって、目が冴えてくる。
 明日は王城に行く予定だから、きちんと眠りをとっておきたいのに。

 体を軽く動かせば眠くなるかしら、と思いながらベッドから降りようとすると、急な空腹とめまいが襲って来る。

「あっ……」

 体がぐらついて、反射的に近くの椅子を掴むとそのままガタリと倒れ込んでしまう。
 ふかふかのカーペットに衝撃が吸収され、鈍い音だけが低く響くが、深夜の屋敷で音を立ててしまったことに、思わず周囲に耳を澄ます。

 普段であれば、何か物を落としたりすると、常駐している侍女や護衛が駆け付けてくるが、人が出払っていて、かつ夜もだいぶ更けていることもあり、そういった気配はない。
 誰も起こさなくて良かったと、胸を撫で下ろしながら体を起こそうとすると、唐突に扉がバンと開かれた。

「リリィ!?」

「あ、兄上」

「……あぁ、良かった。倒れただけか」

「まだ、起きてたの?」

「それはこっちの台詞だっての」

 寝巻き姿に杖を構えて現れたのは、兄上だった。
 床にへたり込んでいる私を見て、ほっとしたように息を吐く。そのまま私の隣まで歩いてくると、私に手を差し出した。

「明日も明後日も、やることが山積みだ。リリィにはたくさん働いてもらわないとなぁ」

「わかってるわ。……でも、寝ようと思うと色々思い出してしまって」

「それでも寝るんだよ。それが、大人として生きてくってことだ」

 そう言ってニカっと笑った兄上に、私は思わず苦笑してしまう。

「大人って……嫌になっちゃうわね。悪人である自分を、許容するなんて」

「善とか悪とか、そういうのは一面的じゃねぇよ。考えたらキリがねぇ。だから、眠くなったら寝て、スッキリした頭でいることが重要なの」

「どうしよう。珍しく、兄上に説得されちゃったわ」

「少しはお兄様の言うことを聞けっての。ほら、寝るぞ」

 兄上に促されて、ベッドに再び潜り込む。

 ふんわりとした毛布に包まれると、気が抜けたのか、唐突に眠気が襲ってきた。
 体の端から暖かくなり、瞼が重くなってきて、だんだん思考も靄がかかってくる。

 どこか焦点が定まらない目で、薄暗い部屋の中兄上の姿を探すと、彼はベッドに浅く腰掛けた。
 目が合うと、私の額に手を伸ばしてくる。

 顔にかかっていた私の髪を優しく横に流してくれる兄上の手は、暗がりだからぼんやりとしてしか見えなかったが、タコと傷だらけだった。
 なんだか新しい傷もあったようで、心配な感情も少し頭を出すが、眠気のせいかそれも曖昧に解けていく。

「……おやすみリリィ。良い夢を」





 誰かの話し声が聞こえたような気がして、目を開ける。
 カーテンの奥から眩しい陽の光が差し込んでいて、どこか遠くから鳥の鳴き声も聞こえてきていた。

「お嬢様、お目覚めですか?」

 私が体を起こすと、そう声をかけられる。
 声がした方を振り向くと、ふわりと柔らかくエミーが微笑んだ。

「エミー、おはよう。今何時?」

「七時でございます。もう起きられますか?」

「そうね。……この声、兄上?」

 壁の向こうのさらに向こうから聞こえてきている声に耳を澄ませる。
 内容こそ聞き取れないが、昨晩も聞いた兄上の声のように思えてそう尋ねると、エミーは「左様です」と頷いた。

「王城からの使者が、若様かお嬢様に直接言付けがあるとのことでして。……お嬢様?」

 まさか、と思って急いでベッドから抜け出す。
 お腹が空いているからか、床に足をつけると少しふらついてしまった。そんな私を支えてくれたエミーが、心配そうに私の顔を覗き込む。

「最低限の身支度だけして、すぐにその使者殿にお会いしたいわ」

「かしこまりました。ではお着替えだけこちらで」

 エミーに促され鏡台の前に腰掛けると、水を差し出される。
 それにお礼を言って口をつけている間に、彼女は扉を開けて外で待っていたらしいヘレナを伴って戻ってきた。

 二人とも、昨日まで私と一緒に遠征に向かっていてきっと疲れていたはずなのに。
 ありがたいと思いながら、手早く着替えを済ませてもらう。

 シンプルなサーモンピンクのドレスを身に纏い、髪を軽く結ってもらった私は、椅子から立ち上がった。

「朝食はいかがしますか?」

「使者殿にお会いした後でいいわ。……ひょっとしたら馬車の中で食べるかもしれないから、そういう風に厨房に伝えてくれる?」

「かしこまりました」

 部屋を出て一階に下がるまでにそう会話をし、ヘレナが厨房の方に向かっていく。
 普段だったら、そこら辺にいる他の侍女に伝言するだけで事足りるのだが、ほとんどの使用人を領地に戻している今、この屋敷には最低限の人員しかいない。そんな中で、朝の慌ただしい時間となると、自分で伝えに行くしかないのだ。

 階段を急いで、しかし不必要に足音を立てないように下がる。
 話し声がどんどん近付いてきて、耳が会話の内容を少しずつ拾っていく。

 その内容にどきどきと胸が鳴るのを感じながら、階段を下り切った私は「兄上」と声をかけた。

「遅くなりました。そちらの方が、言付けがあると」

「お、リリィ」

「これはこれはクリスト嬢。お早いですね」

「リズヴェルト?」

 誰かと思えば、兄上と会話をしていたのはリズヴェルトだった。
 ローブのフードを被っていて遠目からはわからなかったが、私と目が合うと彼はフードを外す。

「お邪魔しております。本日は、ユークライ殿下からの言付けを預かっておりまして」

「セルカね?」

 勢い込んでそう尋ねる私に、リズヴェルトが深く頷いた。

「えぇ。叡智の森で、見つかったとのことです」

「そう……」

 ふぅ、と深く息を吐く。
 それとなく、遠くから聞こえてきた兄上とリズヴェルトの会話からもわかっていたが、はっきりと言葉にされると、一気に胸に詰まっていたものが溶けていった。

 やはりあの時私が見えた彼女の姿は本当だったのだと、そうわかって安心する。
 怪我こそしていたが、命に別状はなさそうだった。ユークライ殿下は、光属性に適正のあるヘンリック殿を連れて行っているらしいし、動けるくらいまで治療をしてからすぐに戻ってきてくれるはずだ。

 セルカと、また再び会える。言葉を交わすことができる。
 そのことがはっきりと言葉として伝えられて、良かったと、ただその思いが満ちていくところに、突如リズヴェルトが口を開く。

「それと、緊急事態ですのでこちらも先にお伝えさせていただきます」

 その言葉に、冷たい水をかけられたような気分になる。彼が緊急とわざわざ口にし、さらに兄上の表情も硬くなったのを見て、一度深呼吸をして身構える。
 まだセルカが戻ってきていないのに彼女が見つかったことだけ報告が来たこと……彼女を迎えに行ったユークライ殿下が、すぐに伝えるべきだと判断して誰かを伝令として王都に戻したということに、嫌な予感が這い上がってきた。

「ララティーナ・ゼンリルは、色情の精霊の愛し子です」

「……え?」

 思いもよらないその言葉に、思考が一瞬止まる。
 頭をガツンと殴られたような、突然後ろから撃たれたような、そんな感覚。

 しかし、すぐに思考はどんどん加速していき、たまたま昨日の夜に読んでいた本の内容を思い出す。

「詳細については、俺もまだ。ただ、最低限の人員に最速で伝えるようにと」

 表情が固まる私の様子をチラリと確認したリズヴェルトは、「最低限」の部分を強調する。
 見れば、偶然近くを通りかかった我が家の使用人が、距離を取りながらもこちらの様子を窺っていた。

 私は軽く手でこれ以上近付かないように指示し、目の前のリズヴェルトに向き直る。

「わかりましたわ。兄上も、このことは?」

「さっき聞いた。で、質問をしてたとこ」

「個別でやっていたら時間がもったいないわ。一度全員で集まりましょう」

 私の頭を過ったのは、本の一節。
 「愛し子と常に行動を共にする」。「人の感情を司る精霊」。

「……警備を練り直さないと。それに、情報もさらに集めないといけないわ」

 やることや対策しなくてはならないことが山積みだ。

 色情の精霊について、名前を軽く聞いたことこそあるが、あまり詳しくは知らない。
 今まで精霊について調べてきたことはあまりなかったから、精霊自体への対策も正直不得手だ。

 精霊術師である兄上だけでなく、自身が精霊の愛し子であるセルカもいる。
 恐ろしい相手ではあるけれど、不必要なまでに恐れなくていい。

「このこと、ラインハルト様は?」

「もちろんご存知です。俺は、あのお方から言付けを頼まれましたので」

「承知しましたわ。私達以外に、言付けを頼まれては?」

「おりません」

「でしたら、一緒に王城に向かいましょう。……あぁヘレナ、ちょうど良かった。朝食の用意は?」

 厨房の方からこちらにやって来たヘレナに声をかけると、彼女は丁寧に一礼してから私の斜め後ろまで足早に駆け寄る。

「ただいまサンドイッチをご用意しております。十分ほどいただければ」

「わかったわ。そうしたら、こちらの方にお茶をお出しして、少し休んでいただいて。兄上、身支度をしてくるから、こちらをお願いしても?」

「俺も一瞬自室に戻りたい。レーミル、すまないが……」

「どうぞお構いなく。あぁ、できれば冷たい飲み物を頂いても?」

 見れば、彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいる。いつもの余裕げな笑みを浮かべてはいるものの、作り物という感じが強い。

 普段飄々としているリズヴェルトがこれほどになるのも無理もない。
 精霊の愛し子は、たった一人で国を破滅に導けるほどの存在。そんな存在が、王族や公爵家の命を狙っているとわかって、冷静でいられるはずもない。

 しかも、これは私だけが知っていることだが、今回の一連の騒動には二人の精霊の愛し子が関わっている。

「……それでは、またすぐ」

 カーテシーをして、一旦自室へと戻る。
 階段を、普段よりも急足で上がり、心臓がだんだん早く脈打つのを感じながら、私の頭は冷えていった。



 ともすれば、このウィンドール王国の存続を揺るがしかねない事態が起きているのだと、その事実が冷たい重石として、私の胸中に沈んでいった。

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