【コミカライズ配信中!】 婚約破棄後の悪役令嬢~ショックで前世の記憶を思い出したのでハッピーエンド目指します!~
85話:婚約の申し出
「……僕はこれ以上誰も傷付けないように一人で生きるべきだと思ったことと、あの時奪った命の重さは、今でもずっと……ずっと覚えている」
そう告げたラインハルト様の橙色の目は、私の方を向きながらも、遥か遠くの過去を未だに見つめているようだった。
ふと、彼のその強く後悔しながらもどこか諦めているような様子に、ある一人の少女が重なった。
私の中に生きる、かつての私。
前世で自分の人生を、そして最愛の姉も諦めた、あの頃の私。
状況は似ているようで全く異なるものだが、それでも自らを責め続けている姿は、どうにも重なってしまう。
そしてそれは、今の私にも。
「……」
右手をゆっくりと開く。
傷一つないこの手が、実は血に濡れているのだと、そう思う度にあの感触が蘇った。そして脳裏に、二度と動かない骸が浮かんでくる。
誰かの人生を終わらせてしまったというこの鈍く冷たい重さを、彼はずっと背負って生きていたのだろう。
「……傷の舐め合いにもなりそうだが、それでも伝えたかったんだ。……僕の過去を知って、君が独りではないのだと、わかって欲しかった」
「あっ……」
そこで、どうして彼が私にこの話をしたのか、初めて気付いた。
今までに聞いたことがないほどに歯切れが悪く、辿々しく、苦痛を感じながら、それでも無理矢理彼が過去を言葉にしてくれたのは、全部私のためだったのだ。
私が独りではないのだと、自分も同じような苦しみを抱えているのだと、そう伝えてくれるために。
「……っ、ラインハルト様」
どうやって、今私が抱いている気持ちを伝えればいいのだろう。
彼の言葉に想起された後悔、苦しさ、痛み。一方で、心の底から暖かくなるような、彼の優しさに触れられた感謝と、同じような境遇に置かれているのが自分だけではないとわかったことへの安堵。
一言で言い切れない。言い表すことなんて、できるはずがない。
でも、この気持ちを伝えることは、決して諦めたくない。
「……私は今までずっと、何事も一人で耐えるべきだと思いながら生きてきました」
クリスト公爵家に、黒持ちとして生を受けた私は、家の唯一の瑕疵だった。私にとって家族は、信頼できて、心から大好きな存在だったからこそ、家族にとって重荷である私の、この苦しみは、家族に共有してはいけないと思っていた。
「それが、自分の人生なのだと……私は、そうあって当然なのだと、そう思っていました」
誰かのために尽くして少しでも恩返ししないといけないと、誰かに自分の負担を分けることなどしてはいけないのだと、そう思っていた。
今思えば、どこか強迫観念めいたものを持っていたのだろう。
「……だから、この痛みを誰かと共有できるとは、思っていませんでした。昔からずっと抱えてきた痛みも、つい最近できた新たな傷の痛みも」
目の奥から熱いものが溢れそうで、声が喉に何度も引っかかりそうになる。
それでもお腹に力を入れて、姿勢を正して、声を震わせることは決してしない。
これが貴族令嬢としての、私の矜持。
「この痛みを、完全に消すことは、きっとできない。でも、和らげることはできるのだと、そうわかりました」
「……」
「ありがとうございます、ラインハルト様。……あなたとこうやって、それぞれの人生の出来事やその時感じた思いを共有できることが、すごく嬉しいです」
自然と、口元が綻んだ。
結局のところ、私は嬉しかったのだ。
言いにくいはずの過去を、信頼して話してもらえたこと。そして、その経験を共有できたことが。
「……僕も、君にそう言ってもらえて嬉しい」
ふぅ、と息を吐いたラインハルト様が、安心したように表情を緩めた。
どこか張り詰めたような空気も弛緩したところで、ダラン様が私に軽食を勧めてくれる。
「アマリリス嬢、少しいかがです?」
ラインハルト様ばかりに気を取られていて、ダラン様の様子はあまり見ていなかった。
が、主人と同じように安堵したような表情をしている彼は、柔らかく私に微笑みかけてくれた。
「えぇ、ではありがたく」
「……ダラン、アレックスとヘレナを呼んできてくれるか?」
「わかりました」
ダラン様が立ち上がり、部屋を出る。
私とラインハルト様は、それぞれ果物に手を伸ばし、コップを仰いで、緊張で乾いていた喉を潤した。
酸味の中に甘さが残る葡萄ジュースを飲み下そうとした瞬間、ドアがノックされる。
「入れ」
ラインハルト様がそう返事をすると、ドアノブがガチャリと押される。
思ったよりも戻ってくるのが早かったなと思いながら何の気なしに扉の方を見ると、そこに立っていたのは、全く予想していない人物だった。
喉にジュースを詰まらせそうになるのを堪え、すぐに立ち上がる。
カーテシーをしようとスカートを摘もうとしたところで、自分がまだ商人の変装のままの簡素なワンピースを着ていたことを思い出した。
この方の前でこんな身なりなんて、と焦りながらも、いつも以上に優雅に見えるように意識しながら膝と腰をゆっくり曲げる。
「まさかこのような場でお会いできるとは、存外の光栄に思いますわ、ポルトレト公爵閣下」
「どうぞ楽に、アマリリス・クリスト」
どうして彼女がここに、と思いながら、許しを得て顔を上げる。
小柄な身体を、複雑な模様に彩られたローブにすっぽりと包んでいる彼女は、その金色の瞳を私と合わせると、フードをパサりと取った。
無数に細く編まれた髪は、夜空を映し取ったような深い青。いくつかの房が不自然に短いのは、おそらく自身の髪を媒体とし、魔法を操っているから。
ピューヴァ・シュウ・ポルトレト公爵。
当代のポルトレト公爵家当主であり、ウィンドール王国一の占星術の使い手。
ポルトレト公爵家は、五大公爵家の中で唯一特定の領地を持たない。
常に国の中を旅し、星を見るために最適な地を探し続けている彼らの動向を知るのは、なかなか困難だ。
先月に、国の一年を占いそれを発表していたが、その発表も王家を通して行われており、ポルトレトの者達が表舞台に立つことは滅多にない。
それでも私が彼女のことを知っていて、尚且つ顔見知りなのは、彼女が私の弟のシルヴァンを気に入っているからだ。
シルヴァン自身もあまり社交界に顔を出さないのに、どこからか弟のことを知った彼女は我が家に連絡をとり、定期的にお茶をしている。
シルヴァンのみとお茶をすることを求めている彼女とは、その行き帰りなどで偶然顔を合わせる程度ではあったが、私のことを覚えてもらっているようで良かった。
「ラインハルト殿下におかれましては、ご健勝のようで」
そういえばポルトレト公爵とラインハルト様は関わりがあるのかと疑問に思いながら、私と同じように立ち上がっていたラインハルト様の方をチラリと見る。
「ポルトレト公も、壮健そうで何よりだ。託宣以来か」
「左様で」
そういうことか、と心の中だけで納得する。
占いの発表を行うのが王家であるということは、内容を伝えてもらう場に、王太子候補であるラインハルト様が同席していてもおかしくない。
そんな風に納得しながら、彼女の後ろに立つ人に顔を向ける。
のっぺりとした白い仮面を被っているその人物は、公爵と同じように体型を隠すローブに身を包んでいるため、性別がどうにも判別できない。私よりは高いだろうけれど、長身の女性とも言えるし、小柄な男性とも言えるくらいだ。
ポルトレト公爵が供を連れていることは別段不思議でもないが、このように仮面を付けている人物は初めて見る。
大丈夫だとは思うが、素性を明かそうとしないその人物を、時期が時期なだけにどうにも警戒してしまう。
「……アマリリス・クリスト。今日はあなたに用がある」
「まぁ。どのようなご用事で?」
私がそう尋ねたところで、扉がノックされる。
と、間髪を空けずに仮面を付けた人物が、扉を開いた。
そこに立っていたのはダラン様とアレックス、ヘレナで、部屋の中に見知らぬ二人がいることにそれぞれ驚いた様子を見せる。
彼らに声をかけようとするが、それより前にポルトレト公爵が口を開いた。
「あなたと私の甥の婚約の申し込みだ」
「……まぁ」
「えぇっ!!??」
「アレックス!……大変失礼いたしました」
間の抜けた声しか出せない私の声を掻き消すように、大声でそう驚いたのはアレックスだった。
すぐにダラン様がアレックスを小突き謝罪の言葉を口にするが、私はアレックスを責められる気がしなかった。
正直、私が自分のリアクションを抑えられたのは、今日という一日であまりにも心理的な上下が起こりすぎて、疲れていたからという側面が大きい。普段であれば、反射的に手で口を押さえるくらいはしていただろう。
誰もが驚き、戸惑って口を開くことができずに、数秒間沈黙が降りる。
私も、どう返答するべきかと考えあぐねていると、ポルトレト公爵が再び口を開いた。
「……このような日に申し込むことを謝罪する」
唐突に告げられたその言葉に、ピリッとかすかではあるが緊張が走る。
今日、私達がブレデル元伯爵領に乗り込んだのは、私達以外には誰も知らない。
秘密裏に行われた潜入のことを、どうしてポルトレト公爵が口にするのか。
「しかし、星が今日だと告げていた。……異なる木の下に生まれた、我らが同胞よ」
彼女の金色の瞳が、きらりと光る。
その瞳の輝きに、なんだか呑まれそうになってしまう。
「あなたを我が木の下に迎え入れたい。どうだ?」
どうして彼女が私を同胞と呼ぶのか。そして、婚約を持ちかけてくるのか。
さっきまでとの温度差で、ろくに回らない頭で、それでもどうにかゆったりと笑みを浮かべる。
「……ありがたいお申し出ですが、家族に相談しないことには」
「わかった」
一体どういうことなのか、と混乱に目を回しそうになりながら、どうにか無礼にならない返事をする。
食い下がられたらどうしようと思ったが、案外すぐに頷いてくれたポルトレト公爵は、くるりと振り返った。
「紹介しておこう。甥のジュミニ・サリ・ポルトレトだ」
「……」
ポルトレト公爵に紹介されるのに合わせて、フードと仮面が取られた。
長く伸ばされた青い髪は、後ろで高い位置に一つにまとめられている。愛嬌のある丸く大きな金色の目は、私を捉えるとふんわりと細められた。
そんな彼は、仮面の下にマスクのようなものを付けており、口元は隠されていて見えない。声も発さないから、ひょっとして話すことができないのかと思っていると、私の疑問を見透かしたかのようにポルトレト公爵が口を開いた。
「ジュミニは、稀有な力を持った占星術師だ。不用意に言葉を発すれば、予期しない事態を引き起こしかねない。ゆえに、普段は喋ることをしない」
「そうなのですね。……お目にかかれて光栄に思います、ジュミニ・サリ・ポルトレト様」
私が一礼すると、彼も丁寧に礼を返してくれる。
初めて聞く名前だが、思えばポルトレト公爵家の人物で私が知っているのは、当主であるポルトレト公爵自身だけだ。
稀有な力、というのが果たしてどんなものなのか少し気になるが、魔法に関してあまり詳しくない私が聞いてもあまり意味がないだろう。
それよりも、と後ろをこっそり盗み見る。
王子でありながら、魔法研究の第一人者であり知的好奇心に溢れている彼は、きっとジュミニ様に興味を持つのではないかと思っていたが、いつの間にか普段通りの無表情に戻っていて、関心を持っているのかどうかいまいちわからない。
奇妙な沈黙がしばらく降りたところで、「さて」とポルトレト公爵が口を開いた。
「私は王城に向かう。が、ジュミニはここに残して、アマリリス・クリスト、あなたに占星術を授けたい。星を見る術を、あなたに。……あなたは既に、その片鱗を手にしている。しかし、その状態では危うい」
同胞、と呼ばれていたことからもなんとなく感じていたが、私が占星術の適性があることまで、どうやら知られているらしい。
ひょっとしたら、ラインハルト様の補助を受けて天気の予知をしたことも、勘付かれているのかもしれない。
未来に起こることを予測するのだから、過去に起きたことを把握することができる可能性は十分にある。
それに、占星術はポルトレト一族の秘術。私達が知らない何かしらの事情があってもおかしくない。
「そこに、できればあなたも同席して欲しい、ラインハルト殿下」
「僕も?」
「あなたの魔法に対しての深い理解と知識、そして飽くなき探究心は、双方にとって良い刺激となる」
「わかった。ここで知り得たことは、どこまで公開していいんだ?」
ラインハルト様からの問いかけに、一瞬ポルトレト公爵は虚をつかれたように言葉に詰まる。
が、彼女はすぐ納得したように頷いた。
「学術的な話であれば、どこまでもと。しかし、我らの言葉が神秘性によって飾られているのもまた事実」
「承知した。僕達だけでの共有に留めよう」
「感謝いたします、ラインハルト殿下」
ポルトレト公爵は、ゆっくり深く一礼すると、フードを被った。
彼女が扉のところまで辿り着くと、彼女が触れる前にドアが開く。どうやら廊下で待機していた従者がいたらしく、ドアが開けられた状態で公爵が最後にもう一度振り返った。
「それでは、先に失礼いたします。アマリリス・クリスト、どうか検討を。そしてみなに風のご加護があらんことを」
「ポルトレト公とあなたの一族にも、風のご加護があらんことを」
ラインハルト様がそう返す横で、私はカーテシーをする。
やっぱりスカートがあまり広がらないことに違和感を覚えながら、扉が閉じるのを待った。
パタリ、と静かにドアが閉められたところで、ヘレナが私に駆け寄って耳打ちしてくる。
普段なら周りにこんな人がいる中で、駆け足なんて絶対にしないのに、彼女はそれほど焦っていたのだろう。
「一体何があったのですか、お嬢様?私が退出している間に何が?」
早口に告げられたその潜められた声から、彼女の狼狽具合が十二分に伝わってくる。
「……私も、あまりよくわかっていないの」
「左様でございますか……殿下からのお話も、まさか…?」
「それは違うわ!」
さらに潜められた囁くような声で投げかけられた問いかけに、思わず大きな声で返事をしてしまったのは、あまりにも精神的に疲れていたからだ。
私の声に、橙色と金色の双眸が丸くなったのを見て、私はそう言い訳したくなった。
そう告げたラインハルト様の橙色の目は、私の方を向きながらも、遥か遠くの過去を未だに見つめているようだった。
ふと、彼のその強く後悔しながらもどこか諦めているような様子に、ある一人の少女が重なった。
私の中に生きる、かつての私。
前世で自分の人生を、そして最愛の姉も諦めた、あの頃の私。
状況は似ているようで全く異なるものだが、それでも自らを責め続けている姿は、どうにも重なってしまう。
そしてそれは、今の私にも。
「……」
右手をゆっくりと開く。
傷一つないこの手が、実は血に濡れているのだと、そう思う度にあの感触が蘇った。そして脳裏に、二度と動かない骸が浮かんでくる。
誰かの人生を終わらせてしまったというこの鈍く冷たい重さを、彼はずっと背負って生きていたのだろう。
「……傷の舐め合いにもなりそうだが、それでも伝えたかったんだ。……僕の過去を知って、君が独りではないのだと、わかって欲しかった」
「あっ……」
そこで、どうして彼が私にこの話をしたのか、初めて気付いた。
今までに聞いたことがないほどに歯切れが悪く、辿々しく、苦痛を感じながら、それでも無理矢理彼が過去を言葉にしてくれたのは、全部私のためだったのだ。
私が独りではないのだと、自分も同じような苦しみを抱えているのだと、そう伝えてくれるために。
「……っ、ラインハルト様」
どうやって、今私が抱いている気持ちを伝えればいいのだろう。
彼の言葉に想起された後悔、苦しさ、痛み。一方で、心の底から暖かくなるような、彼の優しさに触れられた感謝と、同じような境遇に置かれているのが自分だけではないとわかったことへの安堵。
一言で言い切れない。言い表すことなんて、できるはずがない。
でも、この気持ちを伝えることは、決して諦めたくない。
「……私は今までずっと、何事も一人で耐えるべきだと思いながら生きてきました」
クリスト公爵家に、黒持ちとして生を受けた私は、家の唯一の瑕疵だった。私にとって家族は、信頼できて、心から大好きな存在だったからこそ、家族にとって重荷である私の、この苦しみは、家族に共有してはいけないと思っていた。
「それが、自分の人生なのだと……私は、そうあって当然なのだと、そう思っていました」
誰かのために尽くして少しでも恩返ししないといけないと、誰かに自分の負担を分けることなどしてはいけないのだと、そう思っていた。
今思えば、どこか強迫観念めいたものを持っていたのだろう。
「……だから、この痛みを誰かと共有できるとは、思っていませんでした。昔からずっと抱えてきた痛みも、つい最近できた新たな傷の痛みも」
目の奥から熱いものが溢れそうで、声が喉に何度も引っかかりそうになる。
それでもお腹に力を入れて、姿勢を正して、声を震わせることは決してしない。
これが貴族令嬢としての、私の矜持。
「この痛みを、完全に消すことは、きっとできない。でも、和らげることはできるのだと、そうわかりました」
「……」
「ありがとうございます、ラインハルト様。……あなたとこうやって、それぞれの人生の出来事やその時感じた思いを共有できることが、すごく嬉しいです」
自然と、口元が綻んだ。
結局のところ、私は嬉しかったのだ。
言いにくいはずの過去を、信頼して話してもらえたこと。そして、その経験を共有できたことが。
「……僕も、君にそう言ってもらえて嬉しい」
ふぅ、と息を吐いたラインハルト様が、安心したように表情を緩めた。
どこか張り詰めたような空気も弛緩したところで、ダラン様が私に軽食を勧めてくれる。
「アマリリス嬢、少しいかがです?」
ラインハルト様ばかりに気を取られていて、ダラン様の様子はあまり見ていなかった。
が、主人と同じように安堵したような表情をしている彼は、柔らかく私に微笑みかけてくれた。
「えぇ、ではありがたく」
「……ダラン、アレックスとヘレナを呼んできてくれるか?」
「わかりました」
ダラン様が立ち上がり、部屋を出る。
私とラインハルト様は、それぞれ果物に手を伸ばし、コップを仰いで、緊張で乾いていた喉を潤した。
酸味の中に甘さが残る葡萄ジュースを飲み下そうとした瞬間、ドアがノックされる。
「入れ」
ラインハルト様がそう返事をすると、ドアノブがガチャリと押される。
思ったよりも戻ってくるのが早かったなと思いながら何の気なしに扉の方を見ると、そこに立っていたのは、全く予想していない人物だった。
喉にジュースを詰まらせそうになるのを堪え、すぐに立ち上がる。
カーテシーをしようとスカートを摘もうとしたところで、自分がまだ商人の変装のままの簡素なワンピースを着ていたことを思い出した。
この方の前でこんな身なりなんて、と焦りながらも、いつも以上に優雅に見えるように意識しながら膝と腰をゆっくり曲げる。
「まさかこのような場でお会いできるとは、存外の光栄に思いますわ、ポルトレト公爵閣下」
「どうぞ楽に、アマリリス・クリスト」
どうして彼女がここに、と思いながら、許しを得て顔を上げる。
小柄な身体を、複雑な模様に彩られたローブにすっぽりと包んでいる彼女は、その金色の瞳を私と合わせると、フードをパサりと取った。
無数に細く編まれた髪は、夜空を映し取ったような深い青。いくつかの房が不自然に短いのは、おそらく自身の髪を媒体とし、魔法を操っているから。
ピューヴァ・シュウ・ポルトレト公爵。
当代のポルトレト公爵家当主であり、ウィンドール王国一の占星術の使い手。
ポルトレト公爵家は、五大公爵家の中で唯一特定の領地を持たない。
常に国の中を旅し、星を見るために最適な地を探し続けている彼らの動向を知るのは、なかなか困難だ。
先月に、国の一年を占いそれを発表していたが、その発表も王家を通して行われており、ポルトレトの者達が表舞台に立つことは滅多にない。
それでも私が彼女のことを知っていて、尚且つ顔見知りなのは、彼女が私の弟のシルヴァンを気に入っているからだ。
シルヴァン自身もあまり社交界に顔を出さないのに、どこからか弟のことを知った彼女は我が家に連絡をとり、定期的にお茶をしている。
シルヴァンのみとお茶をすることを求めている彼女とは、その行き帰りなどで偶然顔を合わせる程度ではあったが、私のことを覚えてもらっているようで良かった。
「ラインハルト殿下におかれましては、ご健勝のようで」
そういえばポルトレト公爵とラインハルト様は関わりがあるのかと疑問に思いながら、私と同じように立ち上がっていたラインハルト様の方をチラリと見る。
「ポルトレト公も、壮健そうで何よりだ。託宣以来か」
「左様で」
そういうことか、と心の中だけで納得する。
占いの発表を行うのが王家であるということは、内容を伝えてもらう場に、王太子候補であるラインハルト様が同席していてもおかしくない。
そんな風に納得しながら、彼女の後ろに立つ人に顔を向ける。
のっぺりとした白い仮面を被っているその人物は、公爵と同じように体型を隠すローブに身を包んでいるため、性別がどうにも判別できない。私よりは高いだろうけれど、長身の女性とも言えるし、小柄な男性とも言えるくらいだ。
ポルトレト公爵が供を連れていることは別段不思議でもないが、このように仮面を付けている人物は初めて見る。
大丈夫だとは思うが、素性を明かそうとしないその人物を、時期が時期なだけにどうにも警戒してしまう。
「……アマリリス・クリスト。今日はあなたに用がある」
「まぁ。どのようなご用事で?」
私がそう尋ねたところで、扉がノックされる。
と、間髪を空けずに仮面を付けた人物が、扉を開いた。
そこに立っていたのはダラン様とアレックス、ヘレナで、部屋の中に見知らぬ二人がいることにそれぞれ驚いた様子を見せる。
彼らに声をかけようとするが、それより前にポルトレト公爵が口を開いた。
「あなたと私の甥の婚約の申し込みだ」
「……まぁ」
「えぇっ!!??」
「アレックス!……大変失礼いたしました」
間の抜けた声しか出せない私の声を掻き消すように、大声でそう驚いたのはアレックスだった。
すぐにダラン様がアレックスを小突き謝罪の言葉を口にするが、私はアレックスを責められる気がしなかった。
正直、私が自分のリアクションを抑えられたのは、今日という一日であまりにも心理的な上下が起こりすぎて、疲れていたからという側面が大きい。普段であれば、反射的に手で口を押さえるくらいはしていただろう。
誰もが驚き、戸惑って口を開くことができずに、数秒間沈黙が降りる。
私も、どう返答するべきかと考えあぐねていると、ポルトレト公爵が再び口を開いた。
「……このような日に申し込むことを謝罪する」
唐突に告げられたその言葉に、ピリッとかすかではあるが緊張が走る。
今日、私達がブレデル元伯爵領に乗り込んだのは、私達以外には誰も知らない。
秘密裏に行われた潜入のことを、どうしてポルトレト公爵が口にするのか。
「しかし、星が今日だと告げていた。……異なる木の下に生まれた、我らが同胞よ」
彼女の金色の瞳が、きらりと光る。
その瞳の輝きに、なんだか呑まれそうになってしまう。
「あなたを我が木の下に迎え入れたい。どうだ?」
どうして彼女が私を同胞と呼ぶのか。そして、婚約を持ちかけてくるのか。
さっきまでとの温度差で、ろくに回らない頭で、それでもどうにかゆったりと笑みを浮かべる。
「……ありがたいお申し出ですが、家族に相談しないことには」
「わかった」
一体どういうことなのか、と混乱に目を回しそうになりながら、どうにか無礼にならない返事をする。
食い下がられたらどうしようと思ったが、案外すぐに頷いてくれたポルトレト公爵は、くるりと振り返った。
「紹介しておこう。甥のジュミニ・サリ・ポルトレトだ」
「……」
ポルトレト公爵に紹介されるのに合わせて、フードと仮面が取られた。
長く伸ばされた青い髪は、後ろで高い位置に一つにまとめられている。愛嬌のある丸く大きな金色の目は、私を捉えるとふんわりと細められた。
そんな彼は、仮面の下にマスクのようなものを付けており、口元は隠されていて見えない。声も発さないから、ひょっとして話すことができないのかと思っていると、私の疑問を見透かしたかのようにポルトレト公爵が口を開いた。
「ジュミニは、稀有な力を持った占星術師だ。不用意に言葉を発すれば、予期しない事態を引き起こしかねない。ゆえに、普段は喋ることをしない」
「そうなのですね。……お目にかかれて光栄に思います、ジュミニ・サリ・ポルトレト様」
私が一礼すると、彼も丁寧に礼を返してくれる。
初めて聞く名前だが、思えばポルトレト公爵家の人物で私が知っているのは、当主であるポルトレト公爵自身だけだ。
稀有な力、というのが果たしてどんなものなのか少し気になるが、魔法に関してあまり詳しくない私が聞いてもあまり意味がないだろう。
それよりも、と後ろをこっそり盗み見る。
王子でありながら、魔法研究の第一人者であり知的好奇心に溢れている彼は、きっとジュミニ様に興味を持つのではないかと思っていたが、いつの間にか普段通りの無表情に戻っていて、関心を持っているのかどうかいまいちわからない。
奇妙な沈黙がしばらく降りたところで、「さて」とポルトレト公爵が口を開いた。
「私は王城に向かう。が、ジュミニはここに残して、アマリリス・クリスト、あなたに占星術を授けたい。星を見る術を、あなたに。……あなたは既に、その片鱗を手にしている。しかし、その状態では危うい」
同胞、と呼ばれていたことからもなんとなく感じていたが、私が占星術の適性があることまで、どうやら知られているらしい。
ひょっとしたら、ラインハルト様の補助を受けて天気の予知をしたことも、勘付かれているのかもしれない。
未来に起こることを予測するのだから、過去に起きたことを把握することができる可能性は十分にある。
それに、占星術はポルトレト一族の秘術。私達が知らない何かしらの事情があってもおかしくない。
「そこに、できればあなたも同席して欲しい、ラインハルト殿下」
「僕も?」
「あなたの魔法に対しての深い理解と知識、そして飽くなき探究心は、双方にとって良い刺激となる」
「わかった。ここで知り得たことは、どこまで公開していいんだ?」
ラインハルト様からの問いかけに、一瞬ポルトレト公爵は虚をつかれたように言葉に詰まる。
が、彼女はすぐ納得したように頷いた。
「学術的な話であれば、どこまでもと。しかし、我らの言葉が神秘性によって飾られているのもまた事実」
「承知した。僕達だけでの共有に留めよう」
「感謝いたします、ラインハルト殿下」
ポルトレト公爵は、ゆっくり深く一礼すると、フードを被った。
彼女が扉のところまで辿り着くと、彼女が触れる前にドアが開く。どうやら廊下で待機していた従者がいたらしく、ドアが開けられた状態で公爵が最後にもう一度振り返った。
「それでは、先に失礼いたします。アマリリス・クリスト、どうか検討を。そしてみなに風のご加護があらんことを」
「ポルトレト公とあなたの一族にも、風のご加護があらんことを」
ラインハルト様がそう返す横で、私はカーテシーをする。
やっぱりスカートがあまり広がらないことに違和感を覚えながら、扉が閉じるのを待った。
パタリ、と静かにドアが閉められたところで、ヘレナが私に駆け寄って耳打ちしてくる。
普段なら周りにこんな人がいる中で、駆け足なんて絶対にしないのに、彼女はそれほど焦っていたのだろう。
「一体何があったのですか、お嬢様?私が退出している間に何が?」
早口に告げられたその潜められた声から、彼女の狼狽具合が十二分に伝わってくる。
「……私も、あまりよくわかっていないの」
「左様でございますか……殿下からのお話も、まさか…?」
「それは違うわ!」
さらに潜められた囁くような声で投げかけられた問いかけに、思わず大きな声で返事をしてしまったのは、あまりにも精神的に疲れていたからだ。
私の声に、橙色と金色の双眸が丸くなったのを見て、私はそう言い訳したくなった。
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