【コミカライズ配信中!】 婚約破棄後の悪役令嬢~ショックで前世の記憶を思い出したのでハッピーエンド目指します!~
84話:第二王子の過去
「……すまない。今終わった」
ラインハルト様がペンを置いて顔を上げたのは、彼が紙に向かって十分ほど経った時だった。
淀みなく書き付けていたそれを、ダラン様が慣れた手つきでまとめていく。
ふぅ、と深く長い息を吐いたラインハルト様が、チラリと傍らのダラン様に視線を送った。
その視線に小さく頷くと、ダラン様は眉を下げながら口を開く。
「申し訳ありませんが、侍女のヘレナ女史には、一度席を外していただいても?少々長くなりそうですので、適当に休んでいてください。アレックスも」
「承知しました。ヘレナ、外で待っていて」
「かしこまりました」
私の専属侍女であるヘレナを外すとは、相当な話なのだろう。
もちろん秘密を知る人間の数は少ないに越したことはないが、私にとって腹心に当たる彼女にまで退室を求めるのは、そうそうあることではない。
さらに、ラインハルト様の専属護衛であるアレックスにまで聞かせたくないとなると、かなりの機密な可能性が高い。
一礼したアレックスとヘレナが、扉を静かにパタリと閉めたところで、ラインハルト様が自分の斜め後ろに立つダラン様を振り返った。
「ダラン、お前も座ってくれ」
「えぇ、わかりました」
並んで座った二人に、一人向かい合うようにしている私は、机の下でぎゅっと手を握る。
ラインハルト様の、過去の話をしたいという申し出。
会議の前にされたそれは、目の前の議題に集中しながらも、常に私の頭の奥に引っかかり続けていた。
王族の秘密を知る、ということに、気後れしているのかもしれない。王政のこの国において、国の頂に位置するお方の、弱みとも成り得るような秘匿された情報を知ることは、大きな爆弾を抱えることと同義だ。
一方で、その弱みを見せてもらえることは、即ちその弱みを私が悪意を持って利用しないと信頼されていることでもある。
秘密を共有できるほどの友人だと、そう思ってもらえていることは、もちろん嬉しい。しかし嬉しさと同時に、苦しさも感じてしまう。
第二王子が、表舞台から姿を消すほどの大事件。
それを、果たして私が受け止められるのか。
「……アマリリス」
いつの間にか下がっていた視線が、ラインハルト様から名前を呼ばれてパッと上がる。
普段と変わらない無表情で、切り分けられた果物を私に勧める彼に、私は緊張が解けるのを感じた。
「……これを話したいと思うのは、僕の我儘だ」
皿を押し出したまま、言葉を一つ一つ探し出すように、彼は口を開いた。
「聞いていて気持ちの良い話とは、決して言えない。この話を聞くことによる君の利益も、特には思いつかない。……それでも、君には話したいと、そう思うんだ」
凪いでいる橙の双眸は、まるで夜を前に沈みゆく太陽のように、静かに熱を持っていて。
その音のない熱に、私は今まで感じていた不安や重圧感が、跡形もなく消えていくのを感じた。
「……聞かせてください。ラインハルト様、あなたの話を」
どうしてかは言葉にできないが、この人を支えたいと、そう私は心から思っているのだと、その瞳に再度思い出したのだから。
私は椅子に座り直して、真正面から体をラインハルト様の方に向けた。
体を向けることは耳を傾けると示すことだと、そう小さい頃に母上から教わったのを思い出す。貴族は、不用意に発言して言質を取られることを避けるために、仕草で多くを語る。
位置や距離の取り方、視線のやり方、表情、声の調子、それら全てが、情報を持つ。
それはつまり、言葉に動きを重ねれば、より確たる伝え方になるということだ。
あなたの話を聞きたいと、そうしっかり伝えることが、私に対して過去のことを伝えてくれると決意してくれたこの人への、最低限の誠意の示し方だと思うから。
たった三人しかいない部屋に静寂が降りる。
目を閉じたラインハルト様は、何度か息を吸うと、薄く苦笑を漏らした。
「……どうにも、僕は自分の話をするのが下手らしい。どこから話すべきなのか、今こうして話す時になっても迷ってしまう」
「それは、当然のことですわ。人生というものは、どこか一ヶ所だけを切り取って語れるほど、単純なものではありませんから」
「あぁ。……せっかくだし、僕が生まれた時の話からしよう」
ラインハルト様が生まれた時。
もちろん、貴族としての教育の一環で、王族である彼が生まれた年も、その時にどのような情勢だったかも、私は叩き込まれていた。しかし、当事者からそれが語られるということに、つい体が少し前のめりになってしまいそうになる。
「僕は、レシア第一王妃の第二子、ハーマイル王にとっては第三子として生まれた。レシア王妃と同じ橙の瞳と、忌み嫌われる黒の髪を持って生まれたことで、不義の子だと言いがかりを付けられたこともあったらしい」
これは、私も聞き及んでいる。
いくら黒持ちへの差別がだいぶ緩和されたとはいえ、王族から黒持ちが生まれたことへ、当時は廃嫡を望む声もあったらしい。しかし、それを抑え込んだのは。
「だが、男児として僕を王太子に推そうとしていたケーシー公爵家の動きもあり、そういった声は封じ込められたらしい。幼少期は、王家からの基礎的な教育に加えて、ケーシーの方から武術や軍事、魔法を詰め込まれていた」
レシア王妃の実家、ケーシー公爵家。
五大公爵家の一つで、武門の頂点に立つ家。
他国からの脅威を受けて六つの民族が統合した我が国にとって、武力というのは決して無視することのできない、尊敬を集める要素だ。
そんな歴史的背景もあり、五大公爵家の力は横並びだと言われているにも関わらず、実際社会全体への影響力が最も強いのがケーシー家である。
「……僕に全属性への魔法適正がわかると判明した時の周囲の大人の顔は、一生忘れられない」
ラインハルト様が、彼にしては珍しく私から視線を外し、わずかに眉を顰めた。
「恐怖と歓喜、忌避感と歓迎が混ざったあの表情……彼らはきっと、僕を持て余していたのだろう」
淡々とその言葉は告げられたが、私はその口ぶりが、どこか諦めの色を帯びているように思えた。
「いっそ僕が無力であれば、御輿として担ぎ上げることもできただろう。しかし僕は書を読むのが苦痛ではなく、剣も槍も手に馴染んだし、何より魔法の才に優れていた。少しでも舵取りを間違えれば自分達を刺す諸刃の剣だと、彼らはよく理解していた。だから僕に与えられたのは、神童という黒持ちを塗り潰すための称号と、過剰とも思える量の教育と、孤独と、叱責と、そして感情を表に出さない術だった」
「……感情を?」
黙って聞いていようと思っていたのに、思わず口を挟んでしまった。
まさか、と目の前の彼を見る。
驚きに目を丸くする私を前にしても、彼の表情はほとんど動くことはない。声の調子が変わることも、呼吸が変わることも、瞬きの数が変わることも。
「膨大な魔力量を制御するために、そして彼ら以外に心を開かないために、僕は感情を押し殺す訓練を幼い頃から……物心付いた時から受けていた」
「そんな…っ」
ひどい、と掠れた声はあまりの衝撃にほとんど声にならなかった。
あまりにもやりすぎだ。
大人の都合で、この方は無邪気に笑える幼少期を過ごせなかった。そればかりか、今も感情表現に乏しい。
王族や貴族がいくら感情や表情を制御する訓練を受けるとはいえ、あまりにもラインハルト様は人間離れしていると思っていたのだ。まさかその原因が、幼少期にあったなんて。
「……僕の代わりに傷付いてくれて、ありがとう」
言葉を失った私に、ラインハルト様が声をかけてくれた。
橙色の双眸が、静かに私を見据える。
「ただ、僕はあまりこの過去を重くは捉えていないんだ。この訓練がなければ、幼い僕は感情に任せて人を傷付けていたかもしれない。ろくな世渡りができない僕が、社交界で食い物にされていないのも、感情が出にくいお陰だ」
その語り口は本当に淡白なもので、まるで他人事のようだった。
彼が深刻に捉えてなければ良いのではないかと、そう安易な結論に走ってしまうそうな自分を止める。
本来なら得られたはずの喜びや人との繋がりを、一方的な抑圧のせいで得られなかったことを、是正していいはずがない。
「……しかし」
自分の中に渦巻く、怒りとも悲しみとも嘆きともつかないような気持ちを飲み込もうとしていた私は、唐突に耳に入ったラインハルト様の声に驚いて目を見開く。
その低められた声からは、隠し切れないほどの煮えたぎる感情が、漏れ出ていた。
「一度だけ、感情の制御ができず、魔法を暴走させてしまったことがある」
「……」
かすかに震える声からは、強い後悔が滲み出る。
私も一度だけ、経験がある。
前世の記憶を完全に取り戻し、今まで自分の中に眠っていた魔力が目覚めた時。精神面でも魔力面でも己を制御できなかったあの時の恐ろしさは、今でも鮮明に思い出せる。
まるで自分が全能者にでもなったような無敵感と、思いのままに魔力を放出できる爽快感。
私以上に、普段から感情を抑圧していたラインハルト様からすれば、あの誘惑ともいえる感覚は、きっと耐え難いものだったのだろう。
しかし、彼の様子や今まで断片的に得た情報から考えるに、彼はただ魔法を暴走させてしまっただけではない。
「……僕が、十三歳の時だった。……僕は」
言葉に詰まるラインハルト様の肩に、ダラン様が手を乗せる。
静かに首を振る元従者に、それでもラインハルト様は話を続けた。
「当時の僕に、使用人はいなかった。黒持ちで強大な魔力を持つ僕自身を恐れ、僕の背後にいるケーシー家を恐れていたのだろう。……僕には、使用人も護衛もいなかった」
「護衛も…?」
「もちろん、王城全体を巡回する衛兵は、僕の私室の近くにも見回りに来ていた。しかし、専属の護衛騎士も衛兵もいなかった。政治的な要因が色々あったらしいが、今となってはその理由はわからないし、あまり興味もない」
なんとなくその理由は、予測することができる。
ケーシー公爵家の血を引く王子とあれば、その護衛騎士となることは最高の誉れでもあると同時に、出世への大きな一歩だ。一方で、黒持ちで類を見ない魔法の才能の持ち主となれば、その近くに行くことへの懸念もある。
自分が側に行きたくないのと同時に、他の人にも行って欲しくない。
そんな奇妙な利害の一致から、誰も手を挙げなかったのだろう。
「当然侍女もいなかったから、僕の側にいたのはダランだけだった。……王城の私室で、僕が刺客に襲われた時も」
「っ!?」
思わず口元を手で覆う。
あってはならない、王族への襲撃。
さらにそれが王城の中で行われて、しかも護衛もろくにおらず従者一人しかいなかったなんて事態、信じられない。
そんな王子としての背景を抜きにしても、まだ十三歳の少年が、あまり歳の離れていない青年と二人っきりの時に、その命を狙われるなんて。
「刺客は、強力な魔法使いで、剣士だった。あの時……僕を守ろうとしたダランが、倒れて、動かなくなった。その傷口から黒い膿のようなものが蠢いているのを見て……何かが抑え切れなくなったのを、感じたんだ」
絞り出すように、苦しそうに辿々しくそう話すラインハルト様の肩に手を置くダラン様が、ぎりっと歯噛みして下を向く。
「……不思議な感覚だった。まるで、僕はもう一人の僕を……傍観、しているようだった。僕が魔法を振るい、部屋中を破壊しながら、ダランを傷付けた刺客を追い詰めていくのを、僕はただ眺めているしかなかった」
「……っ」
ダラン様が何かを言いかけて、しかし視線を下げたまま唇を噛む。
「気付いた時……僕が生み出した風の刃は、刺客の胸を深く切り裂いていた」
え、と声にならない声が漏れた。
「血が勢いよく噴き出して……目の前が真っ赤に染まった。そして、『化け物』だと、『忌むべき黒持ち』だと、そう言われた。そこでやっと、僕は自分の体を自分で動かせるようになったが……そうして僕は、守ろうとしていたダランも、自分の手で傷つけてしまっていたことに、気が付いた」
どう反応すればいいのか、全くわからなかった。
「呪いが進み、僕の魔法によってさらに傷を負ったダランをどう助ければいいのか、僕はわからなかった。自分が見ている景色が、頭を素通りしていくような感覚だった。……その後のことは、あまりよく覚えていない。ただ、僕はこれ以上誰も傷付けないように一人でいるべきだと思ったことと、あの時奪った命の重さは、今でもずっと……ずっと覚えている」
ラインハルト様の瞳は、変わらず凪いだままだった。
その静寂の裏にあったのは、どこまでも深い闇なのだと、私はそう気付いた。
ラインハルト様がペンを置いて顔を上げたのは、彼が紙に向かって十分ほど経った時だった。
淀みなく書き付けていたそれを、ダラン様が慣れた手つきでまとめていく。
ふぅ、と深く長い息を吐いたラインハルト様が、チラリと傍らのダラン様に視線を送った。
その視線に小さく頷くと、ダラン様は眉を下げながら口を開く。
「申し訳ありませんが、侍女のヘレナ女史には、一度席を外していただいても?少々長くなりそうですので、適当に休んでいてください。アレックスも」
「承知しました。ヘレナ、外で待っていて」
「かしこまりました」
私の専属侍女であるヘレナを外すとは、相当な話なのだろう。
もちろん秘密を知る人間の数は少ないに越したことはないが、私にとって腹心に当たる彼女にまで退室を求めるのは、そうそうあることではない。
さらに、ラインハルト様の専属護衛であるアレックスにまで聞かせたくないとなると、かなりの機密な可能性が高い。
一礼したアレックスとヘレナが、扉を静かにパタリと閉めたところで、ラインハルト様が自分の斜め後ろに立つダラン様を振り返った。
「ダラン、お前も座ってくれ」
「えぇ、わかりました」
並んで座った二人に、一人向かい合うようにしている私は、机の下でぎゅっと手を握る。
ラインハルト様の、過去の話をしたいという申し出。
会議の前にされたそれは、目の前の議題に集中しながらも、常に私の頭の奥に引っかかり続けていた。
王族の秘密を知る、ということに、気後れしているのかもしれない。王政のこの国において、国の頂に位置するお方の、弱みとも成り得るような秘匿された情報を知ることは、大きな爆弾を抱えることと同義だ。
一方で、その弱みを見せてもらえることは、即ちその弱みを私が悪意を持って利用しないと信頼されていることでもある。
秘密を共有できるほどの友人だと、そう思ってもらえていることは、もちろん嬉しい。しかし嬉しさと同時に、苦しさも感じてしまう。
第二王子が、表舞台から姿を消すほどの大事件。
それを、果たして私が受け止められるのか。
「……アマリリス」
いつの間にか下がっていた視線が、ラインハルト様から名前を呼ばれてパッと上がる。
普段と変わらない無表情で、切り分けられた果物を私に勧める彼に、私は緊張が解けるのを感じた。
「……これを話したいと思うのは、僕の我儘だ」
皿を押し出したまま、言葉を一つ一つ探し出すように、彼は口を開いた。
「聞いていて気持ちの良い話とは、決して言えない。この話を聞くことによる君の利益も、特には思いつかない。……それでも、君には話したいと、そう思うんだ」
凪いでいる橙の双眸は、まるで夜を前に沈みゆく太陽のように、静かに熱を持っていて。
その音のない熱に、私は今まで感じていた不安や重圧感が、跡形もなく消えていくのを感じた。
「……聞かせてください。ラインハルト様、あなたの話を」
どうしてかは言葉にできないが、この人を支えたいと、そう私は心から思っているのだと、その瞳に再度思い出したのだから。
私は椅子に座り直して、真正面から体をラインハルト様の方に向けた。
体を向けることは耳を傾けると示すことだと、そう小さい頃に母上から教わったのを思い出す。貴族は、不用意に発言して言質を取られることを避けるために、仕草で多くを語る。
位置や距離の取り方、視線のやり方、表情、声の調子、それら全てが、情報を持つ。
それはつまり、言葉に動きを重ねれば、より確たる伝え方になるということだ。
あなたの話を聞きたいと、そうしっかり伝えることが、私に対して過去のことを伝えてくれると決意してくれたこの人への、最低限の誠意の示し方だと思うから。
たった三人しかいない部屋に静寂が降りる。
目を閉じたラインハルト様は、何度か息を吸うと、薄く苦笑を漏らした。
「……どうにも、僕は自分の話をするのが下手らしい。どこから話すべきなのか、今こうして話す時になっても迷ってしまう」
「それは、当然のことですわ。人生というものは、どこか一ヶ所だけを切り取って語れるほど、単純なものではありませんから」
「あぁ。……せっかくだし、僕が生まれた時の話からしよう」
ラインハルト様が生まれた時。
もちろん、貴族としての教育の一環で、王族である彼が生まれた年も、その時にどのような情勢だったかも、私は叩き込まれていた。しかし、当事者からそれが語られるということに、つい体が少し前のめりになってしまいそうになる。
「僕は、レシア第一王妃の第二子、ハーマイル王にとっては第三子として生まれた。レシア王妃と同じ橙の瞳と、忌み嫌われる黒の髪を持って生まれたことで、不義の子だと言いがかりを付けられたこともあったらしい」
これは、私も聞き及んでいる。
いくら黒持ちへの差別がだいぶ緩和されたとはいえ、王族から黒持ちが生まれたことへ、当時は廃嫡を望む声もあったらしい。しかし、それを抑え込んだのは。
「だが、男児として僕を王太子に推そうとしていたケーシー公爵家の動きもあり、そういった声は封じ込められたらしい。幼少期は、王家からの基礎的な教育に加えて、ケーシーの方から武術や軍事、魔法を詰め込まれていた」
レシア王妃の実家、ケーシー公爵家。
五大公爵家の一つで、武門の頂点に立つ家。
他国からの脅威を受けて六つの民族が統合した我が国にとって、武力というのは決して無視することのできない、尊敬を集める要素だ。
そんな歴史的背景もあり、五大公爵家の力は横並びだと言われているにも関わらず、実際社会全体への影響力が最も強いのがケーシー家である。
「……僕に全属性への魔法適正がわかると判明した時の周囲の大人の顔は、一生忘れられない」
ラインハルト様が、彼にしては珍しく私から視線を外し、わずかに眉を顰めた。
「恐怖と歓喜、忌避感と歓迎が混ざったあの表情……彼らはきっと、僕を持て余していたのだろう」
淡々とその言葉は告げられたが、私はその口ぶりが、どこか諦めの色を帯びているように思えた。
「いっそ僕が無力であれば、御輿として担ぎ上げることもできただろう。しかし僕は書を読むのが苦痛ではなく、剣も槍も手に馴染んだし、何より魔法の才に優れていた。少しでも舵取りを間違えれば自分達を刺す諸刃の剣だと、彼らはよく理解していた。だから僕に与えられたのは、神童という黒持ちを塗り潰すための称号と、過剰とも思える量の教育と、孤独と、叱責と、そして感情を表に出さない術だった」
「……感情を?」
黙って聞いていようと思っていたのに、思わず口を挟んでしまった。
まさか、と目の前の彼を見る。
驚きに目を丸くする私を前にしても、彼の表情はほとんど動くことはない。声の調子が変わることも、呼吸が変わることも、瞬きの数が変わることも。
「膨大な魔力量を制御するために、そして彼ら以外に心を開かないために、僕は感情を押し殺す訓練を幼い頃から……物心付いた時から受けていた」
「そんな…っ」
ひどい、と掠れた声はあまりの衝撃にほとんど声にならなかった。
あまりにもやりすぎだ。
大人の都合で、この方は無邪気に笑える幼少期を過ごせなかった。そればかりか、今も感情表現に乏しい。
王族や貴族がいくら感情や表情を制御する訓練を受けるとはいえ、あまりにもラインハルト様は人間離れしていると思っていたのだ。まさかその原因が、幼少期にあったなんて。
「……僕の代わりに傷付いてくれて、ありがとう」
言葉を失った私に、ラインハルト様が声をかけてくれた。
橙色の双眸が、静かに私を見据える。
「ただ、僕はあまりこの過去を重くは捉えていないんだ。この訓練がなければ、幼い僕は感情に任せて人を傷付けていたかもしれない。ろくな世渡りができない僕が、社交界で食い物にされていないのも、感情が出にくいお陰だ」
その語り口は本当に淡白なもので、まるで他人事のようだった。
彼が深刻に捉えてなければ良いのではないかと、そう安易な結論に走ってしまうそうな自分を止める。
本来なら得られたはずの喜びや人との繋がりを、一方的な抑圧のせいで得られなかったことを、是正していいはずがない。
「……しかし」
自分の中に渦巻く、怒りとも悲しみとも嘆きともつかないような気持ちを飲み込もうとしていた私は、唐突に耳に入ったラインハルト様の声に驚いて目を見開く。
その低められた声からは、隠し切れないほどの煮えたぎる感情が、漏れ出ていた。
「一度だけ、感情の制御ができず、魔法を暴走させてしまったことがある」
「……」
かすかに震える声からは、強い後悔が滲み出る。
私も一度だけ、経験がある。
前世の記憶を完全に取り戻し、今まで自分の中に眠っていた魔力が目覚めた時。精神面でも魔力面でも己を制御できなかったあの時の恐ろしさは、今でも鮮明に思い出せる。
まるで自分が全能者にでもなったような無敵感と、思いのままに魔力を放出できる爽快感。
私以上に、普段から感情を抑圧していたラインハルト様からすれば、あの誘惑ともいえる感覚は、きっと耐え難いものだったのだろう。
しかし、彼の様子や今まで断片的に得た情報から考えるに、彼はただ魔法を暴走させてしまっただけではない。
「……僕が、十三歳の時だった。……僕は」
言葉に詰まるラインハルト様の肩に、ダラン様が手を乗せる。
静かに首を振る元従者に、それでもラインハルト様は話を続けた。
「当時の僕に、使用人はいなかった。黒持ちで強大な魔力を持つ僕自身を恐れ、僕の背後にいるケーシー家を恐れていたのだろう。……僕には、使用人も護衛もいなかった」
「護衛も…?」
「もちろん、王城全体を巡回する衛兵は、僕の私室の近くにも見回りに来ていた。しかし、専属の護衛騎士も衛兵もいなかった。政治的な要因が色々あったらしいが、今となってはその理由はわからないし、あまり興味もない」
なんとなくその理由は、予測することができる。
ケーシー公爵家の血を引く王子とあれば、その護衛騎士となることは最高の誉れでもあると同時に、出世への大きな一歩だ。一方で、黒持ちで類を見ない魔法の才能の持ち主となれば、その近くに行くことへの懸念もある。
自分が側に行きたくないのと同時に、他の人にも行って欲しくない。
そんな奇妙な利害の一致から、誰も手を挙げなかったのだろう。
「当然侍女もいなかったから、僕の側にいたのはダランだけだった。……王城の私室で、僕が刺客に襲われた時も」
「っ!?」
思わず口元を手で覆う。
あってはならない、王族への襲撃。
さらにそれが王城の中で行われて、しかも護衛もろくにおらず従者一人しかいなかったなんて事態、信じられない。
そんな王子としての背景を抜きにしても、まだ十三歳の少年が、あまり歳の離れていない青年と二人っきりの時に、その命を狙われるなんて。
「刺客は、強力な魔法使いで、剣士だった。あの時……僕を守ろうとしたダランが、倒れて、動かなくなった。その傷口から黒い膿のようなものが蠢いているのを見て……何かが抑え切れなくなったのを、感じたんだ」
絞り出すように、苦しそうに辿々しくそう話すラインハルト様の肩に手を置くダラン様が、ぎりっと歯噛みして下を向く。
「……不思議な感覚だった。まるで、僕はもう一人の僕を……傍観、しているようだった。僕が魔法を振るい、部屋中を破壊しながら、ダランを傷付けた刺客を追い詰めていくのを、僕はただ眺めているしかなかった」
「……っ」
ダラン様が何かを言いかけて、しかし視線を下げたまま唇を噛む。
「気付いた時……僕が生み出した風の刃は、刺客の胸を深く切り裂いていた」
え、と声にならない声が漏れた。
「血が勢いよく噴き出して……目の前が真っ赤に染まった。そして、『化け物』だと、『忌むべき黒持ち』だと、そう言われた。そこでやっと、僕は自分の体を自分で動かせるようになったが……そうして僕は、守ろうとしていたダランも、自分の手で傷つけてしまっていたことに、気が付いた」
どう反応すればいいのか、全くわからなかった。
「呪いが進み、僕の魔法によってさらに傷を負ったダランをどう助ければいいのか、僕はわからなかった。自分が見ている景色が、頭を素通りしていくような感覚だった。……その後のことは、あまりよく覚えていない。ただ、僕はこれ以上誰も傷付けないように一人でいるべきだと思ったことと、あの時奪った命の重さは、今でもずっと……ずっと覚えている」
ラインハルト様の瞳は、変わらず凪いだままだった。
その静寂の裏にあったのは、どこまでも深い闇なのだと、私はそう気付いた。

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