スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

届けられた毒りんご

「お疲れさま」
「ふあぁ~、室長ぉ……」

 終話までの流れをしっかり聞き届けてから声を掛けると、緊張の糸が切れた芹沢がデスクの上に崩れ落ちた。重ねた腕の上に頬をくっつけて息を吐いた彼女は、本当によく頑張ったと思う。

「途中二回くらいキレそうになりました……」
「うん、よく耐えてくれたわ。ありがとう」

 項垂れる彼女の背中をぽんぽんと叩きながら、陽芽子もため息を吐く。

 今日もまた、いつもの無言電話が続くのだと思っていた。けれど火曜日昨日までは同じ間隔で掛かってきていた毎日の電話が、今日は午前十時になっても鳴らなかった。だから誰もが『ようやく終わった』と安堵した。

 甘かった。
 その予想は見事に外れた。

 受話開始とともに、急に男性に怒鳴られた。挨拶も前置きもなく『おたくの商品、マジで美味しくないんだけどさぁ!』と大声を出された。そのまま味が薄い、値段が高い、店舗に希望する品が入荷されていない、と沸騰したやかんのように延々とクレームを言われた。

 だから受電した芹沢が驚いたのも、泣きそうになったのも無理はない。言い返しそうになった気持ちもわかる。それをせずに耐え忍んでくれたのだから、陽芽子としては褒めてあげたいぐらいだ。

「記録の入力したら、上がっていいからね」
「ありがとうございますうぅ……」

 時刻は既に退社時間を過ぎている。陽芽子の言葉を聞いた芹沢は、最後の気力を振り絞ってのろのろと受電の記録を打ち込み始めた。

「無言電話の人ですかね」
「タイミングを考えれば、そう思うのが自然よねぇ」

 蕪木の疑問に、唸りながら同意する。

 激昂した客からの電話など、お客様相談室に勤務していればさほど珍しいことではない。時には日に複数の入電がある場合もある。

 しかし昨日までの約三か月間、一時間毎に繰り返されていた無言電話がぱたりと姿を消し、それと代わるように激昂クレーム電話が発生したのだ。二つの間に何らかの関連があると考えるのが妥当だろう。もちろんそれを証明する根拠は何もないが。

「無言電話との紐付けが出来ない以上、案件としてはリセットでしょうか?」
「そうだな。判断が難しいところだが……」

 報告を受けた春岡も、腕を組んで低く唸った。これはお客様相談室長の陽芽子としても厄介な案件だが、課長の春岡としても頭の痛い案件だろう。

「相手はなんて?」
「それが、特に要求があるわけではないんです。ただ商品が美味しくなかった、この味で売れると思えない、と」
「あの温度で?」

 電話の向こうの相手は、激しい口調で商品の欠点をわめき散らしていた。あの大激怒は『異物が混入していた』『開けたら中身が違った』などの大きな問題が生じて、相当の損害を被ったときの怒り方だ。

 もちろん製造ラインではミスのないよう管理を徹底しているし、実際にそのような問題が生じた報告もない。

 だから余計に、奇妙に思う。
 確かに発売している商品が顧客の好みに合わないことはある。価格が不釣り合いだと感じさせてしまうこともある。店頭に希望商品が入荷していないこともある。けれど。

「変だな」
「変、ですよね」

 わざわざお客様相談室へ電話をかけてくる人は、不快の代替として何かを要求してくることが多い。

 最も多いのは返金や商品交換の希望。他には商品の詳細説明や安全性の調査依頼といった実現可能なものから、自主回収・責任者の謝罪訪問・ホームページ等への謝罪文の掲載・経営陣の退任など明らかに理不尽な要求をされる場合もある。もちろん後者の要求は、過失があると認められない以上、参考意見を頂戴するという形で終了することが多い。

 けれど今回は、相手からの要求が一切ない。希望があれば可能な限り対応するが、彼はただ不満を言って大声で怒鳴っているだけだ。コールセンターはストレスの捌け口ではないと言うのに。

「また長引きそうだなぁ」
「……はぁ」

 春岡のため息を聞いた陽芽子も、ただ気が抜けたような返事をするしかない。





   *****





 予想はしていたが、やはりクレーム電話が一日で終わることはなかった。

 十一時と十七時に必ず掛かってくる、激昂した男性からの非通知の抗議電話。同じ言葉を一方的に怒鳴り続け、要求らしい要求は一切述べない。まるでストレス解消のためにお客様相談室を利用しているのではないかと思ってしまう。

 問題のある電話が掛かってくると、責任者である陽芽子はそのやりとりをリアルタイムでモニタリングする。実際に顧客と話すオペレーターは毎回異なるが、責任者である陽芽子はすべての会話を聞く必要があるのだ。

 今日は金曜日なので、このサイクルが始まってから三日が経過したところ。さすがに、疲れた。

 今週の火曜日は啓五に連れ出されてしまったので、楽しく酔うことも出来なかった。いつもなら甘いカクテルで流す週明けの憂鬱も全く癒せていない。完全にエネルギー切れだ。

「たまちゃん。火曜日ごめんね」
「いや、別にいいけど……」

 金曜日にIMPERIALに来るのは久々だったが、環は笑顔で陽芽子を迎え入れてくれた。

 環が用意してくれたファジーネーブルは、桃の甘さにオレンジの酸味がほどよく溶け合ったフルーティーなカクテルだ。その優しい味と爽やかな香りが、陽芽子の苦い三日間を潤してくれる。

 桃と柑橘の香りに癒されて気が抜けていると、見ていた環がくすりと笑った。

「陽芽ちゃん、啓になんかされた?」
「なっ……っふ、けほっ……!」

 環の何気ない一言にオレンジの種が喉に詰まったような苦みを感じて、思いきりむせ込んでしまう。

「警察行く?」
「いっ、いい! ちがうの! 別に嫌なことをされたわけじゃないから……!」
「へぇ……ふ~ん?」

 環は何かすごい想像をしているのかもしれない。

 確かに啓五の部屋に連れ込まれて、激しい感情をぶつけられて、たくさんキスをされた。だがひどい事をされたわけではないし、嫌だったわけでもない。やりすぎたところはやり返したし、説教もした。それに告白の返事をちゃんと考える時間ももらった。だから陽芽子は怒っていないし、悲しんでもいない。

 啓五の真剣な告白を思い出して照れていると、環がご機嫌に笑う。まるで妹を揶揄う兄のように。

「あいつ、ほんとベタ惚れだよなぁ」
「え、そ……そんなことないでしょ。だって啓五くん、一ノ宮の御曹司だよ? うちの会社の副社長だよ……?」

 陽芽子の言い訳を耳にした環が、氷を割っていた手を止めて顔を上げた。見つめ合った茶色の瞳に呆れの色が入り混じる。

「だからさ『恋愛は条件でするものじゃない』って、いつも言ってるじゃん」
「そ、そうだけど……」

 確かに環は常日頃から、恋愛には性別も年齢も国籍も関係ないと言っている。収入やお互いの立場さえ、恋に落ちる瞬間には無関係だと言う。それは陽芽子も、身をもって知っている。

「でも私、啓五くんに何もしてあげられないもん……」

 環の勘はやけに鋭い。恐らく、陽芽子が隠した感情にもちゃんと気が付いている。自分の気持ちを受け入れることをためらっていることも。恋に落ちないように必死に歯止めを掛けていることも。

「なんも出来なくても、啓はどんどん陽芽ちゃんにハマっていく気がするけど」

 返答を聞いて氷を割る作業に戻った環が、嬉しそうに呟く。

「啓がこんなに執着してんの初めて見るから。陽芽ちゃんに電話が来たあとの慌てっぷりは、ちょっと面白かったな~」
「そ、そうなんだ……」
「誰かに執着されることは結構多いけど」

 環の何気ない一言に、それはそうだろうと思う。

 整った容姿と鋭い目線から冷たい印象を受けがちだが、啓五は意外と明るくて人懐こい性格だ。それ以前に一ノ宮の御曹司で大企業の副社長である。そんな完璧で有望な男性を世の女性たちが放っておくはずがない。

「この前も、二人が帰ったあとにきた女の子が啓五の名前を出してきて」

 環に聞かされた意外な情報に、思わず驚いて顔を上げる。

 陽芽子を熱心に口説く啓五から、今まで他の女性の存在を感じたことはなかった。

 でも、なんだ。好きとか言いながら他にも思わせぶりなことを言ってる相手がいるんだ……と、複雑な気分を味わうのも束の間。

「なんか秘書がどうのって言ってたけど」
「え……?」

 ここ最近の忙しさですっかり忘れていた人物が脳裏をかすめ、もやもやとした感情が一瞬で吹き飛ぶ。代わりに得体の知れない肌寒さが、背筋をザワリと走り抜けた。

「え……その人、鳴海優香って名乗った?」
「あれ、何で知……え、もしかして本当に秘書なの!?」

 焦ったような声を出す環に、こくんと顎を引く。

 鳴海が啓五の秘書であることはクラルス・ルーナ社に勤める者ならば誰もが知っている。けれど社員ではない環は、関わりのない秘書までは把握していなかったのだろう。陽芽子の反応を見た環は、自分の失敗に気付いてさっと表情を曇らせた。

「あちゃー、それは悪い事したな。本物の秘書さんなら追い返さなかったのに」

 IMPERIALは会員制のバーだ。環は既存会員の紹介のない者の入店を断っただけで、特別変わった対応をした訳ではない。環の対応は何も間違っていない。察するに、啓五の名前を出して彼に近付こうとする人はこれが初めてではないのだろう。

 それにしても彼女は何故、事前に啓五に確認もせずにここへやってきたのだろうか?

 秘書である鳴海が、啓五の予定や居場所を把握していること自体はおかしなことではない。だがもし仕事で緊急の用件があったのなら、ここに足を運ぶ前に啓五に直接連絡をすればいいはずだ。なのに何故――?

「……」

 陽芽子は唐突に、えぐみの強い果実を齧ったような気分を味わった。

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