スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

目覚めのキス(啓五視点)

 啓五の睡眠は深い方でも浅い方でもなく、一度眠れば朝までほぼ起きることがない。しかも目覚まし時計が鳴ればすぐに完全に覚醒できるし、仮にアラームを掛け忘れても毎日だいたい同じ時間に目が覚める。

 自分でも都合がよくて便利な身体だと思っていたが、今日は珍しく、時計が鳴る前に目が覚めた。

 現在時刻を確かめるために身体を動かそうとして、ふと左腕の重さに気が付く。そろりと視線を下げると、啓五の腕の中では愛しい恋人がすうすうと寝息を立てていた。

「……陽芽子」

 長い髪を指先でそっと払って、隠れていた寝顔を確かめる。未だ夢の中にいるらしいお姫様は、啓五の腕の上にこてんと頭を乗せたまま安心しきった顔で眠っている。

 空いている右手を動かしてスマートフォンを掴まえる。画面の時刻を確認すれば現在六時四十八分。寝る前の陽芽子は七時に起きる! と言っていたので、彼女のスマートフォンもあと十二分で活動開始するだろう。

 啓五も同じ時間に起きようと思っていたので、ここから再度眠りはしない。けれど動いて起こしてしまうのも可哀そうなので、あと十分ほどはこの寝顔を堪能させてもらうことにする。

「……可愛いな」

 陽芽子の顔や身体、声に表情、性格や価値観、仕事や仲間に対する考え方は、好ましいものばかりだ。

 その中でも特に、啓五は陽芽子の声に惹かれている。仕事をしているときの凛とした声も、お酒を飲んでいるときの楽しそうな笑い声も、啓五と話すときの嬉しそうな声も、首を傾げて発する不思議そうな声も、セックスの時の甘えたような声も。どれももっと聞いていたくて、ついからかったり無理をさせすぎたりしてしまう。

 陽芽子の可愛らしい唇を、親指の腹でそっと押す。眠っている間に表面は乾いてしまっていたが、押してみるとふわふわしていて柔らかい。

「ん……ぅ」

 指の動きを感じたのか、喉からと言うよりも鼻にかかったような甘ったるい声が零れた。その声は快感に啼く甘え声に似ていて、瞬間的に『まずい』と思ってしまう。主に、
下半身が。

 慌てて手を離すと、陽芽子はまた眠りの世界に戻っていく。今度は寝息も聞こえなくなり、本当に静かになってしまう。その表情は安らかで、彼女がまだ現実世界に戻ってくるつもりがないとわかる。

 不意に悪戯心が芽生える。というより、早く構って欲しい気持ちだろうか。早くその目を開けて、微笑んで欲しい。名前を呼んで欲しい。

 腕は動かさず、顔だけ近付けてそっと口付ける。ほんの少し唇が触れ合うだけの、乾いたキス。

 陽芽子の香りが鼻先を掠める。洗練された瑞々しい花とふんわりと甘いバニラが混ざったような香りは、寝る前に香水をつけたのだろうかと思うほど。陽芽子はいつも、いい匂いがする。

 その香りを知るためにもっと強く抱きしめたいから、やっぱり早く起きて欲しいような。それとももう少しゆっくり眠っていて欲しいような。

「ひーめこ?」

 寝ている彼女には聞こえないぐらいに小さな声で名前を呼ぶ。そして二度目のキスをする。

 けれどやっぱり、陽芽子は起きない。
 まだ眠りの世界に沈んだまま。

 未だ目覚めないお姫様の寝顔を眺めて、その理由を考える。

 もしかして、唇が濡れていないとキスをした感覚がないのかもしれない。唇に触れられていることに気が付けば、陽芽子も起きてくれる? なんて。

 ぺろりと自分の唇を舐めて、三度目のキス。濡れているのは啓五の唇だけだが、これで少しは感覚があるはず。今度はふに、と明確に触れる。それだけで自分の身体の方が反応してしまう。

 勝手に口付けて勝手に反応するなんて、陽芽子に知られたら引かれてしまう気がするから、一刻も早く起きて欲しいのに。

 わずかな刺激で起きるかと思ったが、啓五が身体を起こしても陽芽子はまだ目覚めない。だから四度目のキスは、もう少し長めに。触れ合いのついでに閉じられた唇を少し舐めて、ちょっとだけ噛む。

 このぐらい大胆に口付けているのだから、そろそろ本当に起きてくれてもいいと思う。なのにやっぱり、閉じられた瞳は開いてくれない。

 これでは啓五がいくらキスをしても、陽芽子は永遠に起きないみたいだ。白雪姫は王子様のキスで目を覚ますはずなのに、陽芽子にとっての運命の相手が自分じゃない気がして。それは悔しいから、何としてでも自分のキスで起きて欲しいのに。

 五度目のキス―――よりも一瞬早く、陽芽子のスマートフォンが震えて目覚ましのアラーム音が響いた。

「ん……?」

 音が聞こえて数秒経過すると、啓五の腕の中にいた身体がモゾモゾと動き出した。完全覚醒するまでには時間が掛かるらしく、眠気と戦うように少しずつ活動を開始する。

「おはよ」
「……おはよぉ」

 掛け布団をめくって朝の挨拶をすると、眠そうな声が返ってきた。

 一応、起きたらしい。啓五のキスではなく、スマートフォンのアラームで。

 その事実に気が付くと、無性に悔しくなった。だからまだ目が完全に開いていない陽芽子の顎を持ち上げ、そっと唇を重ねる。嫌がられたら困るので、また触れるだけの小さなキスに逆戻りして。

「……ん、……ふぇ、……なに?」
「別に、何でもない。ただの朝の挨拶」

 突然のキスに混乱している陽芽子に、つい不機嫌な返事をしてしまう。

 陽芽子は自分が起きるまでの間に何があったのか、知らないだろう。自分のキスで目覚めさせたくて奮闘していた啓五の行動も、それが達成できずにいつものアラームであっさり起床してしまった陽芽子に小さな不満を抱いていることも。

 想いを伝え合って、気持ちを確認し合っても、その重さは全く異なるように思う。啓五ばかりが陽芽子のことを必死になって追いかけているという大前提は、きっと最初から何も変わっていない。

「ふふっ」

 勝手に悔しい気分を味わっていると、腕の中で陽芽子が小さな笑い声を零した。啓五の好きな癒しの声は、今日も鈴が転がるような音色だ。

 朝からご機嫌な陽芽子の心を知りたくて顔を覗き込むと、すぐにしあわせいっぱいの笑顔を見せてくれる。

「ううん。目が覚めて一番最初に会うのが好きな人、ってすごく贅沢だなぁって思ったの」

 そして添えられた言葉に、思わず言葉を失ってしまう。

 陽芽子の声と表情はしあわせそのもので、喜びに満ちていて、嬉しそうで。

 自分が傍にいるだけでこんな風に笑ってくれると気付き、静かに衝撃を受ける。それと同時に、自分のささやかな感情がとてもちっぽけに思える。笑顔ひとつで啓五を幸せな気分にしてくれる陽芽子に、自分は絶対に勝てないと思ってしまう。

「あ、もう起きないと」

 そう言って起き上がろうとした陽芽子の身体を、ベッドの中に引きずり戻してそのまま強く抱きしめる。

「ひめこぉ」
「え、えっ……なに!?」

 結局、いつもこうなのだ。

 惹かれるのも、恋をするのも、想いを伝えるのもいつも啓五が先。こんなに深く惚れてしまうのも自分ばかり。陽芽子の気持ちがこちらに向くように一生懸命に誘導して、アプローチして、ようやく少し近付くのに。

 その矢先にまた好きになっている。いつまで経っても、自分だけが恋に落ちている。

 だから王子様啓五お姫様陽芽子にかしずくのは、仕方がないことなのだ。

「まぁ、それでもいいか」

 それでも構わない。陽芽子が他の誰かではなく、啓五を選んでくれるなら。たくさん口付けて、いっぱい撫でて、愛の言葉を囁いた分、傍にいてくれるなら。

 スノーホワイト 陽芽子 が笑いかけてくれるなら、啓五は今日もしあわせでいられるのだから。


 ―――Fin*


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