スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

スノーホワイトは愛を教わる

 
 クイーンサイズ!
 そういえば前に啓五と泊まったホテルのベッドもこのぐらいの大きさだった? なんてひとり考える。

 しかし正直なところベッドのサイズなんてあまり覚えていない。入った時は酔っていたし、出るときも急いでいたので、今となってはホテルの名前しか覚えていないぐらいだ。

 だから啓五が用意していたこの部屋と前回の部屋は比較のしようもないが、今日の部屋も驚くほど立派だ。窓から見える夜景は絶景で、室内の照明や調度品もため息が出そうなほど豪華で、ベッドも大きくふかふかだ。もうこのままダイブして眠りたいぐらいに。

「陽芽子」

 でも寝てはいけないんだろうな、と思う。まだ眠れないと思う。陽芽子の後でシャワーを使った啓五が、ベッドの隣に腰を下ろして、すぐに身体を抱きしめてくるから。

 啓五の頭を撫でようと手を伸ばして、その髪がまだ濡れていることに気が付く。ドライヤーはちゃんと用意されているのに、乾かす時間すら惜しかったのだろう。

「髪濡れてるよ? ほら、ちゃんと乾かさなきゃ」
「……んー」

 しょうがないなぁ、と首にかかっていたタオルで啓五の髪を拭くと、甘えたような声を出された。

 実際、甘えられているのだと思う。陽芽子の匂いを確かめるように鼻先を首元に押し付けてくる姿は、まるで大型犬のようだ。

 タオルの上から髪を撫でていると、やわらかなパイル生地の隙間からじっと瞳を見つめられていることに気が付く。そのまま見つめ合っているうちに、伸びてきた手に後頭部を支えられ、ゆっくりと唇を重ねられた。

「ちょ……っ、待って……」
「もう十分待った」

 まだちゃんと拭いていないのに、今の啓五にとっては髪の乾燥などどうでもいい事らしい。ベッドの上へ身体をゆっくりと押し倒され、着ていたバスローブの結び目をするりと解かれる。

 陽芽子の反応を探る黒い瞳は、また熱い色を帯びている。相手を威圧する獣のような三白眼に、陽芽子の心は今夜も容易く囚われる。

「啓五くん……あのね」

 その指先が身体に触れる前に、陽芽子は啓五に伝えておきたい言葉があった。今のうちに、確認しておきたいこと……啓五との共通認識として、ちゃんと共有しておきたいことがあった。

「一つだけ、約束してほしいことがあって」
「……なに?」

 今にも噛み付かんばかりの勢いだったが、一応待つ素振りは見せてくれる。その瞳に負けないように、つらい気持ちにならないように、出来るだけ明るい声になるよう努めて言葉を紡ぐ。

「啓五くんが『結婚する』って決まったら、そのときはちゃんと教えてほしいの。できれば、早めに」
「………は?」

 陽芽子の要望を聞いた啓五が、気が抜けたような声を零した。困惑する黒い瞳と見つめ合うと、

「どういう意味?」

 と不機嫌になってしまう。

 けれどこれは啓五と付き合うのなら、ちゃんと確認しておかなければいけないことだ。

 陽芽子はきっと、啓五のことをどんどん好きになってしまう。これから、今以上に、啓五に惹かれていくと思う。それはもう仕方がないと思っている。

 けれどいつか終わりの日が来るのなら、自分を戒めて、自分に言い聞かせておく必要がある。

「啓五くんには、いつかちゃんとした結婚相手が見つかるでしょ?」

 啓五は一ノ宮の御曹司だ。本家の長男の血筋ではないかもしれないが、いずれは一族にとっても会社にとっても有益な、どこかの令嬢と結婚することになるだろう。

 啓五本人は『恋愛も結婚も自由だ』と言っていたが、いくらなんでもその相手が自分じゃないことは理解している。そのぐらいは、弁えている。

「私、啓五くんとお嫁さんになる人の邪魔にはなりたくないの。でも結婚相手が決まるまでの間は、啓五くんの傍にいたい。……だから、それまでは恋人として傍にいても恥ずかしくないように、がんばるから」

 本当はずっと傍にいたいし、傍にいて欲しいと思う。他愛のない話をして、美味しいお酒を一緒に楽しんで、その瞳と見つめ合って、時々甘やかされて。そうやって過ごす日々がずっと続くのならば、これ以上の幸せはないと思う。

 でもそれは叶わない願いだから。
 これは少しの間だけの夢だから。

 あんなに強かった結婚願望を押し退けてでも、今はただ啓五と一緒にいたい。恋人として、傍にいることを選択したい。

 だからもし将来を誓い合う相手が現れたら、そのときはちゃんと教えて欲しい。お別れには心の準備が必要だから、出来れば早めに。

「……結婚のこと真面目に考えなきゃいけないって言うから」
「え……?」
「俺との結婚を、本気で考えてくれてるんだと思ってた」

 違ったのか、とぼそりと呟いた啓五に、一瞬言葉を失う。泣いてしまわないようにと逸らしていた視線を上げると、啓五と再び目が合った。

 顔を覗き込んできた啓五が、ふ、と笑う。少しだけ困ったように。

「でも、そっか。好きだとは言ったけど、その先は言ってなかったもんな」

 苦笑いとともに呟いた啓五の言葉に、陽芽子は静かに息を飲んだ。

 先ほどアクアリウムでされたのと同じ。陽芽子の手を掬い取り、小さなキスを落とされる。けれど今度は指先じゃなく、左手の薬指の付け根に。

「結婚しよう、陽芽子」
「……え?」
「俺は陽芽子と結婚する。他の相手なんていらないし、探すつもりもない」

 すっぱりと言い切る潔さに、思わず呆気に取られてしまう。今、なんて言ったの? と聞き返す前に。

「聞こえなかった? 陽芽子は俺と結婚すんの。俺は……陽芽子だけが欲しい」

 さらに真剣な声と真剣な瞳で愛を重ねられ、ついに言葉が出てこなくなってしまう。

 それは紛れもなく、陽芽子がずっと欲しかった台詞だ。一生をかけて愛してくれる相手からの、自分だけに向けてくれる特別な感情の証。

 陽芽子は何でも出来るから、強いから大丈夫だと言って離れていかない。本当は全く完璧じゃない、強がってばかりで可愛げのない自分を好きになって、大事にしてくれるという確かな誓い。

 けれど甘い睦言は、夜のまやかしだ。

「ベ……ベッドの中での言葉は、信じないもん」

 いつもより少ないとは言え、お酒が入った状態だ。それについさっき恋人同士になったばかりの、まだ新しい関係でもある。だから一時の感情に任せて大事な誓いなどすべきではない。結婚がそこまで簡単なものじゃないことぐらい、啓五だってわかっているはずだ。

 ふるふると首を振ると、啓五の表情がぐっと曇る。

 今の彼の気持ちを疑っているわけではない。でも大事なことを、その場の勢いで決めて欲しくない。後から『やっぱりごめん』と言われることがどれほど残酷であるか、啓五は知らないのだ。

 もちろん本当は嬉しい。啓五は自分本位なところもあるけれど、それ以上に陽芽子のことをちゃんと想ってくれる。そんな人からのプロポーズが、嬉しくないわけがない。

 けれど。でも。

「強情だな」

 想われていることの嬉しさと、いつかやってくる未来の狭間に沈んでいると、啓五が憮然とため息を零した。

「いい、わかった。それなら陽芽子が俺と結婚するって言うまで、啼かせ続けてやる」
「な……そんなこと」

 ふと放たれた宣言には、背筋が凍りつくほどの冷たさと全身が焼け焦げるほどの熱が含まれていた。

「嫌われたくないから、無理矢理はしないけど」

 啓五は陽芽子に強引にキスした日のことを反省しているようだった。確かに陽芽子も驚いたが、決して啓五の想いが迷惑だった訳ではないし、嫌だと思った訳ではない。陽芽子もやり返したし、話をちゃんと聞いてくれるならそれでいいのに。

「陽芽子に相応しいのは俺だって認めるまで、頭にも身体にも教え続ける」
「え、ちょっ……」
「だから今夜は、覚悟して」

 そう言い切って首筋に噛みつく啓五は、やっぱり陽芽子の制止など少しも聞いてはくれなかった。

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