スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

お客様相談室のお姫様 前編 (啓五視点)

「……この聞くに堪えない暴言は、いつもこうなのか?」
「えぇ、まぁ大体こんな感じですね」

 壁を背にしたまま左隣に問いかけると、同じ姿勢で同じ会話をモニタリングしていた春岡が苦笑して頷く。

 コールセンターというのは、啓五が想像していたよりもずっと過酷な業務なのかもしれない。現に啓五の代理として電話に出た鳴海は、ただ話を聞いているだけなのに五分と経たずに相槌の一つも出てこなくなってしまった。

 涙目になって固まってしまった彼女に代わり、現在は責任者である陽芽子が電話口の相手と会話をしている。その音声を右耳で聞きながら、啓五は重いため息を吐いた。


 鳴海は秘書としての経験はあるが、コールセンターでのオペレーター業務経験はない。だから陽芽子のヘッドセットを借りてモニタリングを開始してすぐに、研修も受けていない部下を苛烈な環境に放り込んだことを後悔した。判断を誤ったとさえ思った。

 啓五の目には、陽芽子や春岡が鳴海を苦しめるために、意図的に彼女を電話に出したように見えた。

 陽芽子は本当にこんなことをさせたかったのか、そして春岡は本当にその提案を許可したのだろうか。

 疑問を感じて止めさせようと思ったところで、啓五と鳴海がどうしてここに呼び出されたのか、なぜ鳴海が電話に出るよう誘導されたのか――その理由と現状のすべてを、春岡が丁寧に説明してくれた。無許可で個人情報を検めたことに対する謝罪を添えた上で。

 現在、陽芽子に向かって暴言を吐いている男性は、鳴海の兄である鳴海優太という人物らしい。そして鳴海の兄は、陽芽子に対して嫌がらせをするために、三か月も前から無言電話やクレーム電話などの迷惑行為を繰り返していたという。

 春岡の説明は、啓五にとってはにわかに信じがたい内容だった。だが応対記録と鳴海の個人情報と会員サイトの登録情報を並べて提示されれば否定は出来ない。信じられない話を、事実として認めざる得ない。

 そして春岡はこの状況の原因が他でもない啓五自分の存在だと言う。そんな馬鹿なと思ったが、咄嗟に反論の言葉は出なかった。

「あれは、そういう意味だったのか……」

 叔父であり社長である怜四との会話を思い出す。

 はぐらかされてタイミングを逃したために正確な内容を聞きそびれていたが、あのとき怜四は『啓五が狙われている』と言った。偽りの噂を『わざとに流したもの』『やることが小賢しい』と評した。

 その言葉の意味に、ここにきてようやく気が付く。鳴海は啓五に近付く他の女性たちと同様『一ノ宮』の家柄を欲しているのだろう。

 しかし普段の鳴海は、仕事は完璧にこなすが、必要以上にプライベートには干渉して来ない。啓五に対して分かりやすい欲望も感じない。

 だから気が付けなかった。

 鳴海が長い時間をかけて啓五を懐柔し、ゆっくりと意識を向けさせることで、着実に目的を達成しようしていたことも。啓五が陽芽子に向ける特別な感情を目聡く察知し、その繋がりを断つために陽芽子を精神的に疲弊させようとしていたことも。そのために身内を使っていやがらせ行為をしていたことも。

 もっと早く気付けなかったのか。原因が自分の存在なら、何かできることがあったのではないか。

 先に立たない後悔が胸の中に渦を巻く。
 我ながら不甲斐ない。想像の範疇を超えていたとは言え、自分の直属の部下でさえまともに管理出来ないとは、なんて情けない話だ。

 鳴海以上に、自分に対して失望する。意図せず零れた盛大なため息を吐き切り、重い頭を持ち上げる。

 その瞬間、また恋に落ちた気がした。

『でさぁ、折角飲もうと思って楽しみにしてたのに、売り切れてたのがショックだったんだよ……』
「左様でございましたか。その節はご不便をおかけいたしまして、大変申し訳ございません」
『いや、いいんだ……仕事を見つけられずにウダウダ酒飲んでる場合じゃないのは、俺もわかってんだよ……』

 先ほどまで暴言のオンパレードだったのに、気が付けば人生相談になっている。中盤をちゃんと聞いていなかったので何が起きたのかと驚いたが、陽芽子の様子を確認しても彼女は最初と何も変わっていない。

 威圧的な暴言に屈さず、理不尽な要求にも負けず、凛とした姿と穏やかな口調で相手に寄り添うように丁寧な返答を続ける。

 啓五が好きな、癒しの声で。電話の向こう側の相手に表情など見えていないはずなのに、優しい笑顔のままで。

 激しい雨の中で咲く花のようだ。
 たおやかで美しく、優しくも強い。

 欲しい、と思う。陽芽子の視線を、声を、関心を。心も身体もすべて自分に向けておきたい。他の誰にも触れてほしくない。

 陽芽子は一ノ宮の名前ではなく、啓五自身のことを認めてくれる。傍で声を聞いているだけで、疲れが消えて癒される。そんな相手にはこの先の人生で二度と出会えないと思うから、どんな手を使っても、どんなに時間が掛かっても手に入れたいと思ってしまう。

 そんな焦りの気持ちが出すぎて、つい強引な方法で迫ってしまった。

 気持ちよく酔っている陽芽子にキスをしたいと思ったときは『嫌われたくない』と思って耐えたのに、他の男と『また明日』と約束していることには耐えられなかった。激しい嫉妬心を衝動的にぶつけて無理矢理口付けてしまうほど、自分の感情を抑えられなかった。

 後から頭を冷やして考え、理性的な判断が出来なかったことを猛烈に後悔した。嫌われてもおかしくないことをしてしまった自分をひたすらに恨んだ。

 けれど陽芽子は、啓五の過ちを受け止めてくれた。ちゃんと怒って、叱ってくれた。啓五の感情を否定せず、しっかり考えたいと言ってくれた。

 それだけで十分――なんて思えない。

 ますます手に入れたいと思ってしまう。どんどん惹かれていってしまう。告白の返事を考えた結果、断られたらどうしよう、と本気で悩むほどに。

「副社長は、白木のことを認めてくれるんですね」

 壁に寄り掛かったまま陽芽子の姿をじっと見つめていると、隣から春岡の声が聞こえてきた。顔を上げると、彼は何故か嬉しそうに笑っている。

 陽芽子と春岡は付き合いが長いらしく、言葉がなくても意思の疎通がとれるほどの信頼関係があるように見える。今の啓五にはそれが最も面白くない事実だが、同時に羨ましくもあった。陽芽子から絶対の信頼を向けられている春岡が、羨ましくて仕方がない。

 きっと同じ仕事をしていて、しかも完璧に仕事が出来る者同士だから、話も合うのだろうと思う。

「それはもちろん。彼女、仕事出来るじゃないですか」
「いいえ、全然?」

 ところが春岡は、啓五の称賛を即答で否定してきた。あまりにも軽く、あっさりと。

 自分の部下だからと謙遜するにしても、もう少し考えるなり思い出すなりあるだろう。なんて拍子抜けするが、春岡は困ったように笑うだけだ。

「白木、最初はびっくりするぐらい仕事が出来なかったんです。顧客に言い返して火に油を注ぐし、相手に怒鳴られたらすぐ泣くし、ミュートせずにくしゃみするし。本当めちゃくちゃな奴で」

 過去の陽芽子の失敗を聞き、驚いてしまう。右耳に聞こえている陽芽子の声は、相変わらず穏やかで優しいのに、貫禄さえ感じる。堂々としたやり取りから春岡の言うような悲惨な姿は少しも想像できない。

 だから陽芽子は、オペレーターとしても責任者としても最初から完璧なのかと思っていた。けれど春岡は肩を竦めて首を横に傾ける。

「人事もなんでこんな使えないやつ送り込んできたんだ、と思いましたよ。指導するこっちが頭抱えるぐらいでしたから」

 春岡の眉間の皺を見るに、陽芽子の指導は本当に大変だったのだと察する。けれどまだ若い頃の、失敗してばかりだった陽芽子の様子を思い出した彼は、昔を懐かしむように再び笑みを零した。

「でもすごい努力家なんです。完璧に覚えるまで何回もマニュアル読んで。個別指導頼んできたり、貸した分厚いビジネス書を一週間で読破したり。後になって、やっぱり人事の目は節穴じゃないな、と思いましたね」

 春岡は彼女がここまで食らいついてきて、ここまで成長したことを誉れ高く感じているようだ。啓五も彼が笑う様子を見て、そっと感心する。

 陽芽子は自分が相応の努力をしてここまでやってきたからこそ、啓五の努力や才能も褒めて励ましてくれるのだろう。それに責任を自覚させるように叱ってくれるし、導いてくれる。

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