スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

毒を食らわば芯まで 後編

「ちょっと」
「えっ……な、なに……!?」

 陽芽子の腕を掴んでいた啓五が、急に力を込める。突然の行動に驚いている間もなく身体を引っ張られ、部屋の隅にある資料棚の前まで連れ出された。

 そのまま周囲の視線を避けるようにブース側へ背を向けた啓五は、陽芽子が予想もしていなかった提案を持ち掛けてきた。

「陽芽子が俺とデートしてくれるなら、許可してもいい」
「は、はぁ……!?」

 突拍子もない発言に、思わず丁寧な言葉遣いが吹き飛んで声も裏返る。びっくりしてその顔を眺めると、にやりと笑った啓五がもっともらしい言葉を並べ始めた。

「俺が言うことを聞くと約束したのは一つだけ。陽芽子に指定された時間にここに来る約束は、ちゃんと果たした」
「それは……えっと、ありがとうございます……」
「だから別のお願い事をするなら、陽芽子にも俺の希望を聞いてもらう」

 啓五の言い分は正しいと言えば正しかった。ビリヤードの勝負に勝った褒美として啓五にお願いしたのは『鳴海秘書を連れて指定する時間にお客様相談室を訪れる』というもの。その願いは確かに叶えられた。

 しかし陽芽子は、それ以上の要求を啓五に持ち掛けた。職域の範囲を超えて、許容以上の要求をしているのは陽芽子の方だ。

「よくわかんねーけど、陽芽子は鳴海を電話に出したいんだろ? それを許可するかしないかは俺が決められる」
「……」
「交換条件。俺の提案を飲むなら、陽芽子の追加のお願いも聞いてやる」

 陽芽子の行動や考えの仔細がわからずとも、彼なりに状況を理解しようとしているらしい。

 もちろんお客様相談室で起きている現状はこれから説明するつもりで、今はまだ理解していないのだから、あまり深刻に考えていないのは当然だ。けれどそこに、陽芽子との次の約束を絡ませてくるとは一切思っていなかった。

「あの、仕事とプライベートを混同しすぎでは……」
「それが?」

 陽芽子も一応は抵抗を試みるが、啓五には逆に訊ね返されてしまった。

 おまけに仕事中だと言うのに、その目はまた本気の色をしている。

「せっかく陽芽子を誘うチャンスが転がってきたんだ。黙って見過ごすほどの余裕なんて、俺にはないからな」

 更に陽芽子を誘うとあっさり言い放つものだから、流石に慌ててしまう。よもや聞かれてしまったのではないかと思って背後を振り返ると、コールセンター内にいる応対中の者以外の全員が、こちらの様子をじっと窺っていた。

 たぶん会話内容は聞こえていなかったと思う。だが陽芽子の喉からは『ひえっ』と変な声が出た。

「この状況とこの立場を利用できるなら、使わない手はないだろ」

 焦る陽芽子をよそに、啓五が小さく鼻を鳴らす。

「それにプライベートを仕事に持ち込んだのは、陽芽子の方が先だと思うけど?」
「…………。…………。……わかりました」
「よし、交渉成立だな」

 たっぷり二十秒ほどの時間を要して考えたが、やはり背に腹は代えられない。

 この状況を上層部へ報告せず、出来るだけ穏便に処理するには今日この場で決着をつける必要がある。陽芽子の心情を看破し、足元を見た上で個人的なデートを条件に提示するのもどうかと思う。しかし彼が陽芽子と同じぐらいに必死な事は痛いほどに伝わってくる。

 と思っていたのに、さっさと話を切り上げて元の場所へ戻っていく啓五の足取りは嘘みたいに軽やかだった。

「鳴海、電話に出て先方の言い分を聞いてやってくれ」
「えっ……し、しかし……」
「出来ないか? 普段、取引先とやり取りしてるのと何も変わらないだろ?」
「………」

 啓五にそう言われては、鳴海も拒否は出来ないだろう。副社長秘書である彼女の立場と本来の役割を考えれば、さほどの無理難題ではない。むしろ上司の代わりに秘書が電話に出るなど茶飯事だ。

「……承知いたしました」

 数分前まで要求を飲まない方向性で話していたのに、急に意見を翻してきた啓五に鳴海の表情は不満げだった。

 しぶしぶと承諾した鳴海の様子を確認すると、陽芽子も応対中の夏田のブースの脇に立つ。デスクの角を指先でトントンと叩くと、夏田が話をしたままの状態で顔を上げた。お互いに視線を合わせ、無言で頷き合う。

「お客様。ご不便をおかけいたしまして、大変申し訳ございません。それでは、上の者の代理とお電話を交代させて頂きますね」

 会話の流れとして不自然ではないところまで話を聞き届けた夏田が、タイミングを見計らって応対者の交代を提案する。激昂していた鳴海の兄も上席が出るという提案に満足したのか、暴言を吐きつつもすぐに了承してくれた。

 予備のブースに鳴海を座らせると、付属のヘッドセットを手渡す。そのまま周辺設備の簡単な説明をするが、そこまで難しいことはない。お客様相談室と言えど、受話器ではなくマイク付きヘッドセッドであること以外、普通の固定電話とモノは同じだ。

「……お電話代わりました」

 準備を終えて緊張の面持ちで保留を解除した鳴海の一言目は、たったそれだけだった。

 隣にいた鈴本と向かいにいた芹沢が失笑した声が聞こえたが、陽芽子はこっそりと頭を抱えた。

『あのさぁ、出るのおせーから! なんで上司に代わるだけで何日もかかるンだよ!?』
「っ……!」

 案の定、一言目からひどく激昂されてしまう。その瞬間、彼女の可憐な表情はメイクが崩れんばかりに歪んでしまった。

 でも今のは鳴海が悪い。彼女は自分の兄が余計なことを言うことを恐れたのか、自らの役職と名前を告げないという選択をした。後から考えれば、この時枕詞を挟んだ上でちゃんと名乗っておけば、相手が態度を緩めた可能性もあった。

 だが『お待たせいたしまして大変申し訳ございません』の言葉もなく、自らの名を告げない相手に他人が心を開くわけがない。無意識の自己防衛という初歩的なミスが火に油を注ぐ原因になったことに、鳴海は終ぞ気付かなかった。

『頭悪いのか!? 仕事出来ねぇのか!?』
「は、ぁ!? ……!!」

 一方的に暴言を浴びせられ、彼女も不機嫌な声を出した。啓五が見ていることや、陽芽子と春岡がヘッドセット越しに会話内容を聞いていること、そしてこの会話が録音されていることを思い出したらしく、鳴海は口から出しかけた言葉を一生懸命に飲み込んだ。

 けれど今の一瞬のやりとりで、陽芽子は大体の状況を理解した。

 恐らく鳴海家におけるヒエラルキーでは、彼女は兄よりも上に位置するのだろう。平日の日中に実家の番号から電話を掛けてくるという状況から、鳴海の兄が定職に就いていない可能性は考えていた。

 もちろん在宅勤務者という場合も想定できる。だが兄の暴言に対して不機嫌な声を出す姿を見ると、鳴海は陽芽子を蔑むように、実の兄のことも見下して利用しているのかもしれない。

『ていうか、何度も言ってるけどさぁ! あの新しく発売したチョコレートはクソ不味いし、その前に言ったビールもさぁ……!』

 またいつもように、商品が美味しくない、価格が見合わない、店頭に在庫がないといった、要望のない独り言を大きな声で延々と吐き出される。まるで妹から粗雑な扱いを受けて蓄積した、日頃の鬱憤を晴らすかのように。

 スイッチが入るとこちら側は落ち着くまで黙って聞き続けるしかないのだが、耐性のない人間にいきなり『これ』は辛いだろう。さらに普段なら反論できる相手なのに、反論すれば自分と相手の関係性が露呈してしまうため言い返すことすらできない。その板挟みな状況が、彼女の焦燥感をさらに煽った。

 もちろんひた隠しにしたところで、お客様相談室のメンバーはすでに二人の関係を知っているのだが。

 ふう、とため息をひとつ。

 これが陽芽子と春岡の考えた、現状を打破するための計略だった。相手の素性がわからない……ということになっている以上、こちらからは大きなモーションを掛けられない。ならば、鳴海とその兄に自ら攻撃を止めてもらうしかない。第三者の目がある状態で、お互いをぶつけ合うことによって。

 灸を据えるには少しばかり劇薬だったかもしれないが、元はと言えば自業自得だ。彼女には是非、ここにいる全員が毎日この苦痛を味わっていることを身をもって味わって欲しい。

 とはいえこのまま放置し続けるわけにもいかないので、適度なところで切り上げる必要がある。

「課長、私は準備に入りますね。申し訳ありませんが、副社長への説明をお願いしてもいいですか?」
「あぁ、わかった」
「もし定時を過ぎたら、皆は先に帰して下さい」
「白木がそこまで手こずることなんてあるか?」
「あるかもしれませんよ?」

 あるかもしれない。
 今回はちょっと特殊な事情だから。

 不可解な顔をしている啓五に、にこりと微笑む。そして自分の右耳に装着していたヘッドセットを外して啓五に手渡す。これを使えば、啓五にも何が起こっているのか理解できるだろう。

 大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

 お客様相談室の責任者として陽芽子に出来ることは限られている。けれどいつだって、自分に出来ることは最大限にするつもりだから―――

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