スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

大人の遊び:B

 環にビリヤードを使いたいと申告すると、思いのほかあっさり許可が下りた。

「えっ、上がっていいの……?」

 上階にはVIPルームがあると聞いている。そんな特別な場所に、陽芽子のような一般人が立ち入ることは許されないだろうと思っていた。黒い螺旋階段を上がろうとする啓五におそるおそる訊ねると、不思議そうな声が返ってくる。

「ん? 別にいいだろ、誰もいないし。ほら」

 啓五は挙動不審になった陽芽子に手を差し出すと、階段にヒールが引っかからないよう丁寧にエスコートしてくれる。だから陽芽子もその手に掴まって、慎重に階段を上がっていった。

「広い……!」

 螺旋階段の先はテーブル席の真上に相当する場所らしく、構造はほぼ一緒だった。

 床と天井が白く壁が黒いフロア。黒塗りの大きなテーブルをぐるりと取り囲むように一人掛けの豪華な椅子が五つ、一番奥には見るからにふかふかな三人掛けのソファがある。

 さらに今は中に誰もいないが、下の階にあるものと全く同じバーカウンターとバーラックが壁際に備えてある。天井にはヨーロッパのどこかの城から持ってきたのではないかと思うほど、豪華なシャンデリア。確かにここは、間違いなく無駄に贅沢な部屋VIPルームだった。

「オフィス街にあるただのバーにしては、豪華だよね?」
「ああ……まぁ。ここは祖父さんの隠れ家みたいなもんだからな」

 啓五が自分の言葉に自分で呆れたように笑う。
 何か事情があるらしいが、ささやかな疑問はすぐに消えていった。―――奥にあったビリヤード台に寄りかかった啓五が、視線で陽芽子を誘うから。

「私、ビリヤードはやったことあるよ」

 その挑発に乗るように、陽芽子も啓五に笑顔を向ける。

 ダーツのときは啓五に遊び方とルールを教えてもらったが、今度はちゃんと理解している。もし簡単に勝てると思っているのならそうはいかないから、なんて勝負心に火が灯る。

「じゃあまた何か賭けるか」
「えー、もう何も思いつかないよ?」

 さきほどのダーツで偶然にも勝利を収めた陽芽子は、IMPERIALで一番高いカクテルをご馳走になる権利を獲得した。けれどもう、勝利にふさわしい褒美を思い浮かばない。

「思い付いたときでいいよ。俺が負けたら、陽芽子のお願いごと何でも一つ聞くから」

 うーん、と悩む様子を見た啓五は、戦利品については後から決めてもいいと言ってくれた。じゃあ別の日に違うカクテルを、なんて呑気なことを考えていると、啓五が再び笑顔を向けてきた。

「俺が勝ったら、今夜は陽芽子に添い寝してもらおうかな」
「なんでハードル上がってるの!?」

 告げられた言葉に驚いて、つい大声を出してしまう。

 確かにキスも困るが、頬に口付けるぐらいなら一瞬で終わる。けれど添い寝となると拘束時間も長いし、密着度も高い。啓五が眠るまでずっと傍にいるなんて、恥ずかしくて出来るわけがない。

 彼の視線から逃れるように目を逸らすと、啓五が『あ、そうか』と何かに気がついたような声を出した。

「やっぱり今夜じゃなくて週末でもいい? 次の日、陽芽子とゆっくり寝てたいし」
「そこじゃない!」

 しかも添い寝と言っても、啓五が寝たらお役御免になる訳ではないらしい。朝まで傍に置きたいと言われて、いよいよ負けられない戦いの様相になってきた。

 仕方がないので壁のホルダーに立ててあったキューを手にすると、そのまま踵を浮かせてヒールを脱ぎ捨てる。

「あれ、脱ぐんだ?」
「だって真剣勝負だもん! 絶対負けない!」

 もちろん陽芽子も、靴を履き替えないこの場所で、しかもVIPルームだと言われているところで靴を脱ぐことがはしたない行動であることは理解している。

 けれど勝負を受けたからには負けられない。負けるつもりはない。

 幸いクリスタルホワイトの床はしっかりと掃除が行き届いていてきれいだし、ストッキングの替えはバッグに入っている。ここには啓五以外に誰もいないので、マナー違反を咎める人もいない。

 本当は賭けの褒美を変えてもらえばいい話だが、負けた時のことを見越してハードルを下げているとは思われたくない。ダーツのように遊び方を知らないならともかく、知っていると言ってしまった以上はもう引っ込められない。

「じゃあ、俺も本気でやらなきゃな」

 クスクスと笑った啓五が、的玉を収めたラックをフットスポットへ滑らせた。そして余った手玉を陽芽子の方へ転がしてくる。

 台の上に手玉と身体を固定した陽芽子は、狙いを定めて白い球を思いきり撞いた。

 カコンッ―――

 と小気味の良い音を響かせて、九つの的玉と白い手玉が方々へ弾け散っていく。ガコン、ゴトン、と球が落ちる音に乗って啓五の楽しそうな声が届いた。

「上手いな」

 ビリヤードという遊戯は、経験がなければそもそも手玉を真っ直ぐに撞くことさえ出来ない。もちろん陽芽子に経験があると知っているから『賭けよう』と言ってきたのだろう。だが啓五の口調から察するに、彼は陽芽子がもっと下手だと高を括っていたようだ。

 そんな陽芽子の一挙手一投足を観察するように、啓五がじっと見つめてくる。

「見られてるとやりにくいよ?」
「まぁまぁ、気にしなくていいから」

 正面に立つ啓五に抗議すると、にこりと笑って誤魔化された。その笑顔に意識を持ってかれたのか、落とそうと思った球は一つしか落ちてくれず、次の手でも落とすことが出来なかった。

 啓五の番になったので、陽芽子は台の反対側にトコトコと回り込み、その場にすっとしゃがみ込んだ。そこは丁度、啓五が手玉を狙うキューの先だ。

 獲物に狙いを定めていた鋭い視線と、ちらりと目が合う。その瞬間、陽芽子はわざとらしい甘え声を出した。

「ねぇねぇ、啓五くぅーん?」
「ちょっと待て。それはずるい」

 一度構えた啓五が台から身体を離して立ち上がる。見れば顔が少し赤くなっているので、心理作戦は成功したようだ。

 もう一度構えた啓五が連続で二つの球を落としたところですぐに陽芽子の番になった。が。

「ひゃあっ!? なんでお尻触るの!?」

 啓五が突然、背後から陽芽子のお尻を撫でてきた。実際にはお尻というより腰に近い位置だったが、陽芽子が驚いて飛び上がるには十分際どい場所だった。

「フォームきれいだったから、つい」
「つい、じゃない! それセクハラだし、反則でしょ!!」

 相手の身体に触るのは反則だ。
 露骨な直接攻撃に緊張したせいで手元が狂ったのか、陽芽子が狙った的玉は啓五に都合のいい場所で止まってしまった。

 これはまずい。
 このままだと負けてしまう。

 ふるふると震える陽芽子をよそに、すでに勝ち誇った顔をした啓五が最後の的玉に狙いを定める。

「わ!!」
「!?」

 陽芽子が大きな声を出すと、キューの先が白い球の端をつるっと掠めた。当然勢いなど一切つかなかったので、転がった球はわずか数センチ進んだ場所ですぐに停止してしまった。

「びっくりした?」
「そりゃするだろ! 反則!」
「やだ、さっきの仕返しだもん」

 啓五には文句を言われてしまったが、陽芽子はぷいっとそっぽを向いて聞かなかったことにした。

 でも『間違って』声が出てしまったことよりも、相手の身体に触れる方がよっぽど大きな反則だと思う。

「やった、私の勝ち!」

 唖然としている啓五の目の前でさっさと最後の的球を落とす。一方的に勝負の終わりを告げて脱いでいたヒールを履き直すと、我に返った啓五が盛大に噴き出した。

「あーあ、陽芽子に添い寝してもらいたかったんだけどなー」
「だめです~」

 本当に残念そうに溜息をつく啓五に、べ、と舌を出す。大人げないやり方だと思ったが、勝ちは勝ちだ。啓五もプロセスはどうあれ決着してしまった勝負に、あれこれ文句を言うつもりはないらしい。

 諦めの台詞を聞いて陽芽子もほっと息をつく。この勝負に負けたら、啓五の抱き枕になるところだったのだ。そんなの、恥ずかしすぎるから。

「木曜と金曜、朝から晩まで会議続きなんだよなぁ。絶対疲れるってわかってるから、週末ぐらい陽芽子に癒されたかったのに」
「いやです~、他あたってくださ~い」

 そんなに陽芽子に執着しなくても、啓五にはもっと可愛くて抱き心地のいい女性がいくらでもいるはずだ。

 そう思うと、ちょっとだけ胸がむずむずする。今までにもこうやって美味しいお酒を飲みながら、ちょっとだけ大人な賭け事をして、可愛い女の子と楽しい時間を過ごしてきたのだろう。たぶん、きっと、これからも。

「何言ってんの?」

 そんな想像をしてひとりでモヤモヤしていると、再び啓五の不機嫌な声が聞こえた。

「他なんて要らない。陽芽子じゃないと意味ないから」

 急激に低下した声色に驚いて、思わず『えっ?』と声が漏れる。

「え……冗談、だよね?」
「……冗談?」

 変に間が空いて気まずくなる前に、どうにか返答の言葉を紡ぐ。そうやって軽い口調で訊ねれば、啓五も『そうだ』と笑って流してくれる。冗談を、ちゃんと冗談にしてくれる。そう期待していたのに。

「本気に聞こえてなかった?」

 逆に真剣な声で聞き返されてしまう。
 低い声音にはふざけた感情が一切含まれていない。

 むしろ不満げな声を出された事に気付いた陽芽子は、その質問には上手く答えることができなかった。

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