スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない
彼が知らない世界
「たまちゃんのバカー!」
いつものようにIMPERIALのカウンターで大好きな甘いカクテルを口に運ぶ。けれどその合間に文句を言うことも忘れない。
二か月ほど前、陽芽子はたまたまここで出会った男性に失恋の傷を慰められた。甘い言葉と優しい指遣いで労られたおかげで、大きく沈み込まずに立ち直ることができた。半年も付き合った人に一方的にフラれたのに、思ったよりも傷は浅く済んだ。
しかし問題はその前。
陽芽子はその男性が、次年度から自社の副社長に就任する人物であることを知らなかった。もし知っていたら、お酒と空気に流されてはるか雲の上の上司と一夜を共にすることなどなかったのに。
「だから、ごめんって」
目の前で笑うバーテンダーの環は、お互いが同じ企業に所属する者同士であることを最初から把握していたらしい。知っていたなら、止めて欲しかったのに。
後から聞いた話によると、環は二人が店を出る瞬間は目撃していなかったとのこと。でもファーストコンタクトの時点で教えてくれれば、陽芽子も自分で判断出来たのに! と思わずにはいられない。
頬に空気をためてじっと環を見つめると、悪びれもなく肩を竦められた。やはり面白がられているようだ。
「まぁ、もういいよ。しょうがないから許してあげる。それよりたまちゃん、私の話聞いてくれる?」
陽芽子はもう、あの夜のことは忘れようと決めていた。幸い副社長である啓五には、呼び出しを受けた日を最後に一度も遭遇していない。立場上始業から終業までほとんど部署内に留まっている陽芽子には、社内で偶然会う機会もない。
だから不満を口にし続けていても仕方がない。それよりも、陽芽子にはもっと大事な事がある。
「私、真面目に婚活しようと思うんだ」
バーカウンターの向こう側にいる環に宣言すると、グラスを磨いていた環の動きがぴたりと停止した。
「同僚がパンフレットくれたの」
「何の?」
「結婚相談所」
「けっ……こん、相談所ぉ?」
「うん」
陽芽子の同僚であるコールセンター課ギフトセンター長の澤本は、身内に結婚相談所に勤めている人がいるらしい。以前、雑談をした際に『白木さんに興味があるなら、資料もらってきてあげる』とおすすめされていたのだ。しかもその結婚相談所は規模が大きく全国展開している企業で、会員数も成婚率も業界内トップクラスだと言う。
「パンフレット見る? あ、ここで出したらだめ?」
「いや、いいけど」
邪魔ならしまうから、と付け加える前に環が興味深げに頷いた。
通勤用のバッグからもらってきたばかりのパンフレットを取り出すと、カウンターの向こうの環に手渡す。環は冊子をパラパラとめくると、納得したようにフンフンと頷いた。
「へー、こういうシステムなんだ」
「プランも色々あるみたいだよ?」
環の詳しい恋愛事情は知らないが、陽芽子の持ち込んだ資料を熱心に見ているあたり、彼にも興味があるのかもしれない。
中性的な外見の環ならモテそうなのに。
なんて思っていると、店の入り口から声を突然掛けられた。
「陽芽子!」
名前を呼ばれた陽芽子は、バーチェアの上でびくっと跳ね上がった。何事かと思って振り向くと、そこには驚いたような顔をした啓五が立っていた。
(と、とうとう会ってしまった……!)
思わず凍り付く。あれから二か月間まったく会っていなかったので、完全に油断していた。
「……お疲れさまです」
どう反応していいのかわからず、とりあえず無難な挨拶をしてみる。
副社長室に呼び出された日、陽芽子は啓五と食事に行くことを拒否した。プライベートの時間を共にしたいと言われたが、万が一にもその姿を他人に目撃されたくないと思い、その場で断った。
陽芽子の返事を聞いて不満そうな顔をした啓五に、IMPERIALに足を向けることはあると伝えてやり過ごした。だからそのうち会うかもしれないと思ってはいたが、それが今日だとは思っていなかったわけで。
「……火曜日だったのか」
啓五がほっとしたように息を吐く。陽芽子は『なんの話?』と首を傾けたが、環には笑って誤魔化された。
「たま。俺、ジントニックで」
そう言いながら陽芽子の隣に腰かけてきた啓五に、陽芽子は静かに硬直した。
これは、だめな流れだ。
今までこのバーで会社の人に遭遇したことはないが、いち社員と副社長が隣り合って座っている状況を目撃されて良いことなど何もない。
ちょうど、陽芽子の飲んでいたレッド・サングリアも空になったところだ。
「じゃ、たまちゃん。私、帰るから」
「は?」
バーチェアから降りて薄手のコートを手に取った瞬間、啓五が不機嫌な声を出した。驚いた声に反応して顔を上げると、眉間に皺を寄せた啓五と目が合った。
「なんで帰んの? 俺が来たから?」
「あ、いえ……そういう訳では……」
慌てて視線を逸らす。陽芽子としてはトラブルを回避するために関わりたくないのが本音だが『そうです』と認める訳にも行かない。
明言できず、けれど次の言葉を探し出すことも出来ずにいると、啓五がムッとした声を出した。
「せっかく会ったんだから、少しぐらい付き合ってくれてもいいだろ」
「………わかりました」
持ち上げたばかりのコートとバッグを元の席に下ろし、しぶしぶと座り直す。
ここで断ったからと言っていきなり職を失うことはないと思うが、相手は自社の副社長だ。お酒に付き合ってほしいと言われて、理由もないのに無下にすることはためらわれる。
まして一度食事の誘いを断り、その際にここで会う可能性はあると言ってお茶を濁したのだ。再度逃げたことで、再び副社長室に呼ばれては避けようとした意味がない。
「たまちゃん。私、ベリーニ」
啓五の目の前にジントニックを用意した環に、次のオーダーを告げる。その言葉を聞いた途端、啓五の動きがぴたりと停止した。
「そんなに警戒しなくてもいいだろ」
啓五はそこまで物知らずではないらしい。アルコール度数の低いカクテルを注文すると、隣から不機嫌な声が聞こえた。
桃と柘榴の可愛いらしい色にスパークリングワインを注いだお酒は『あなたの前で酔うつもりはありません』という意思表示。もちろんノンアルコールカクテルをオーダーすることも出来るけれど、お酒に付き合ってと言われてソフトドリンクを注文するほど失礼なことはない。
不服そうな啓五に向かって曖昧な笑顔をつくると、静かにため息をつかれた。
「なにこれ?」
無言のままジントニックを口に含んだ啓五が、ふと疑問の言葉を呟いた。言われて視線を向けると、カウンターの上には環に見せるために出したパンフレットが置いてあった。直前のやり取りをすっかりと忘れていた事に気が付いても、彼の手からその冊子を奪い取るにはもう遅い。
「け……結婚相談所のパンフレット、です」
「は? 結婚相談所!?」
後の祭りを嘆きつつ説明すると、先ほどの環よりもよっぽど驚いたような声が店内に響いた。
「陽芽子、そんなに結婚したいの?」
「う……ええと、……はい」
驚きの表情を見るに、陽芽子の結婚願望の話など忘れていたのだろう。
必死になっていると改めて認識されるのも恥ずかしいが、何かのきっかけに後から知られるのもかなり恥ずかしい。どうせ恥ずかしい思いをするなら……と考えて顎を引くと、啓五の眉間にぐっと皺が寄った。
「副社長はまだお若いですから、ご興味ないかもしれませんが……」
ぽつりと呟くと、ベリーニを喉の奥に流し込む。さわやかな甘酸っぱさがはじけると同時に、胸の奥には小さなざわめきが広がった。
啓五は現在二十九歳。まだ二十代で、しかも副社長に就任したばかりの彼に結婚願望があるとは思えない。
「こんなの入会しなくたって、結婚相手なんてすぐ見つかるだろ?」
あなたはそうでしょうね。
と言いそうになって、急いで口を閉じる。
案の定、啓五には結婚願望などないらしい。仮にあったとしても、無駄に整った外見からも、遊び慣れた様子からも、相手に不自由がない事は容易に想像できる。その気になれば、結婚なんていつでも出来るのだろう。恋愛で失敗してばかりの陽芽子とは違って。
「条件は?」
「え?」
「陽芽子が結婚相手に求める条件」
ため息の直前で、啓五に顔を覗き込まれた。
はっとして視線を合わせると、カウンターの上に肘をついた啓五は、怒ったような顔をしていた。その必死な表情の意味がわからず、つい言葉に詰まって視線を逸らしてしまう。
「地位と財力と若さならそれなりにある。あとは何が足りない?」
「え……っと?」
黒いバーカウンターの木目にベリーニのピンク色が映えている。その鮮やかな色を見つめながら、陽芽子は最適な答えを必死に検索した。
「啓」
困り果てていると、正面から環が声を掛けてきた。二人同時に視線を向けると、環がフッと笑みを浮かべる。
「出禁にするぞ」
「何でだよ!?」
きっぱりと宣言された啓五が、ガタッと音を立ててバーチェアから立ち上がった。そして『まだ誘ってねーだろ』『横暴すぎる』と環に向かって文句を言っている。
その様子を眺めた陽芽子は、ブラウスの上から自分の胸をぎゅっと抑えた。
(びっくり、した)
ベッドに誘われたわけではない。
明確に愛の言葉を囁かれたわけでもない。
けれど鋭い瞳の奥に、あの日と同じ色が宿っていることに気が付いてしまう。陽芽子が本腰を入れて結婚相手を探し始めたことを面白くないとでも言うように。
(いやいや……)
啓五にとって陽芽子は恋愛の対象外のはずだ。それは陽芽子にとっても同じで、啓五は恋愛対象にはならない。
副社長という雲の上の存在で、結婚願望のない、年下の男性。―――啓五にだけは、絶対に恋に落ちない。
だから冗談はやめてほしい。
陽芽子は、自分だけに本気で好きになってくれる人を探しているのだから。
いつものようにIMPERIALのカウンターで大好きな甘いカクテルを口に運ぶ。けれどその合間に文句を言うことも忘れない。
二か月ほど前、陽芽子はたまたまここで出会った男性に失恋の傷を慰められた。甘い言葉と優しい指遣いで労られたおかげで、大きく沈み込まずに立ち直ることができた。半年も付き合った人に一方的にフラれたのに、思ったよりも傷は浅く済んだ。
しかし問題はその前。
陽芽子はその男性が、次年度から自社の副社長に就任する人物であることを知らなかった。もし知っていたら、お酒と空気に流されてはるか雲の上の上司と一夜を共にすることなどなかったのに。
「だから、ごめんって」
目の前で笑うバーテンダーの環は、お互いが同じ企業に所属する者同士であることを最初から把握していたらしい。知っていたなら、止めて欲しかったのに。
後から聞いた話によると、環は二人が店を出る瞬間は目撃していなかったとのこと。でもファーストコンタクトの時点で教えてくれれば、陽芽子も自分で判断出来たのに! と思わずにはいられない。
頬に空気をためてじっと環を見つめると、悪びれもなく肩を竦められた。やはり面白がられているようだ。
「まぁ、もういいよ。しょうがないから許してあげる。それよりたまちゃん、私の話聞いてくれる?」
陽芽子はもう、あの夜のことは忘れようと決めていた。幸い副社長である啓五には、呼び出しを受けた日を最後に一度も遭遇していない。立場上始業から終業までほとんど部署内に留まっている陽芽子には、社内で偶然会う機会もない。
だから不満を口にし続けていても仕方がない。それよりも、陽芽子にはもっと大事な事がある。
「私、真面目に婚活しようと思うんだ」
バーカウンターの向こう側にいる環に宣言すると、グラスを磨いていた環の動きがぴたりと停止した。
「同僚がパンフレットくれたの」
「何の?」
「結婚相談所」
「けっ……こん、相談所ぉ?」
「うん」
陽芽子の同僚であるコールセンター課ギフトセンター長の澤本は、身内に結婚相談所に勤めている人がいるらしい。以前、雑談をした際に『白木さんに興味があるなら、資料もらってきてあげる』とおすすめされていたのだ。しかもその結婚相談所は規模が大きく全国展開している企業で、会員数も成婚率も業界内トップクラスだと言う。
「パンフレット見る? あ、ここで出したらだめ?」
「いや、いいけど」
邪魔ならしまうから、と付け加える前に環が興味深げに頷いた。
通勤用のバッグからもらってきたばかりのパンフレットを取り出すと、カウンターの向こうの環に手渡す。環は冊子をパラパラとめくると、納得したようにフンフンと頷いた。
「へー、こういうシステムなんだ」
「プランも色々あるみたいだよ?」
環の詳しい恋愛事情は知らないが、陽芽子の持ち込んだ資料を熱心に見ているあたり、彼にも興味があるのかもしれない。
中性的な外見の環ならモテそうなのに。
なんて思っていると、店の入り口から声を突然掛けられた。
「陽芽子!」
名前を呼ばれた陽芽子は、バーチェアの上でびくっと跳ね上がった。何事かと思って振り向くと、そこには驚いたような顔をした啓五が立っていた。
(と、とうとう会ってしまった……!)
思わず凍り付く。あれから二か月間まったく会っていなかったので、完全に油断していた。
「……お疲れさまです」
どう反応していいのかわからず、とりあえず無難な挨拶をしてみる。
副社長室に呼び出された日、陽芽子は啓五と食事に行くことを拒否した。プライベートの時間を共にしたいと言われたが、万が一にもその姿を他人に目撃されたくないと思い、その場で断った。
陽芽子の返事を聞いて不満そうな顔をした啓五に、IMPERIALに足を向けることはあると伝えてやり過ごした。だからそのうち会うかもしれないと思ってはいたが、それが今日だとは思っていなかったわけで。
「……火曜日だったのか」
啓五がほっとしたように息を吐く。陽芽子は『なんの話?』と首を傾けたが、環には笑って誤魔化された。
「たま。俺、ジントニックで」
そう言いながら陽芽子の隣に腰かけてきた啓五に、陽芽子は静かに硬直した。
これは、だめな流れだ。
今までこのバーで会社の人に遭遇したことはないが、いち社員と副社長が隣り合って座っている状況を目撃されて良いことなど何もない。
ちょうど、陽芽子の飲んでいたレッド・サングリアも空になったところだ。
「じゃ、たまちゃん。私、帰るから」
「は?」
バーチェアから降りて薄手のコートを手に取った瞬間、啓五が不機嫌な声を出した。驚いた声に反応して顔を上げると、眉間に皺を寄せた啓五と目が合った。
「なんで帰んの? 俺が来たから?」
「あ、いえ……そういう訳では……」
慌てて視線を逸らす。陽芽子としてはトラブルを回避するために関わりたくないのが本音だが『そうです』と認める訳にも行かない。
明言できず、けれど次の言葉を探し出すことも出来ずにいると、啓五がムッとした声を出した。
「せっかく会ったんだから、少しぐらい付き合ってくれてもいいだろ」
「………わかりました」
持ち上げたばかりのコートとバッグを元の席に下ろし、しぶしぶと座り直す。
ここで断ったからと言っていきなり職を失うことはないと思うが、相手は自社の副社長だ。お酒に付き合ってほしいと言われて、理由もないのに無下にすることはためらわれる。
まして一度食事の誘いを断り、その際にここで会う可能性はあると言ってお茶を濁したのだ。再度逃げたことで、再び副社長室に呼ばれては避けようとした意味がない。
「たまちゃん。私、ベリーニ」
啓五の目の前にジントニックを用意した環に、次のオーダーを告げる。その言葉を聞いた途端、啓五の動きがぴたりと停止した。
「そんなに警戒しなくてもいいだろ」
啓五はそこまで物知らずではないらしい。アルコール度数の低いカクテルを注文すると、隣から不機嫌な声が聞こえた。
桃と柘榴の可愛いらしい色にスパークリングワインを注いだお酒は『あなたの前で酔うつもりはありません』という意思表示。もちろんノンアルコールカクテルをオーダーすることも出来るけれど、お酒に付き合ってと言われてソフトドリンクを注文するほど失礼なことはない。
不服そうな啓五に向かって曖昧な笑顔をつくると、静かにため息をつかれた。
「なにこれ?」
無言のままジントニックを口に含んだ啓五が、ふと疑問の言葉を呟いた。言われて視線を向けると、カウンターの上には環に見せるために出したパンフレットが置いてあった。直前のやり取りをすっかりと忘れていた事に気が付いても、彼の手からその冊子を奪い取るにはもう遅い。
「け……結婚相談所のパンフレット、です」
「は? 結婚相談所!?」
後の祭りを嘆きつつ説明すると、先ほどの環よりもよっぽど驚いたような声が店内に響いた。
「陽芽子、そんなに結婚したいの?」
「う……ええと、……はい」
驚きの表情を見るに、陽芽子の結婚願望の話など忘れていたのだろう。
必死になっていると改めて認識されるのも恥ずかしいが、何かのきっかけに後から知られるのもかなり恥ずかしい。どうせ恥ずかしい思いをするなら……と考えて顎を引くと、啓五の眉間にぐっと皺が寄った。
「副社長はまだお若いですから、ご興味ないかもしれませんが……」
ぽつりと呟くと、ベリーニを喉の奥に流し込む。さわやかな甘酸っぱさがはじけると同時に、胸の奥には小さなざわめきが広がった。
啓五は現在二十九歳。まだ二十代で、しかも副社長に就任したばかりの彼に結婚願望があるとは思えない。
「こんなの入会しなくたって、結婚相手なんてすぐ見つかるだろ?」
あなたはそうでしょうね。
と言いそうになって、急いで口を閉じる。
案の定、啓五には結婚願望などないらしい。仮にあったとしても、無駄に整った外見からも、遊び慣れた様子からも、相手に不自由がない事は容易に想像できる。その気になれば、結婚なんていつでも出来るのだろう。恋愛で失敗してばかりの陽芽子とは違って。
「条件は?」
「え?」
「陽芽子が結婚相手に求める条件」
ため息の直前で、啓五に顔を覗き込まれた。
はっとして視線を合わせると、カウンターの上に肘をついた啓五は、怒ったような顔をしていた。その必死な表情の意味がわからず、つい言葉に詰まって視線を逸らしてしまう。
「地位と財力と若さならそれなりにある。あとは何が足りない?」
「え……っと?」
黒いバーカウンターの木目にベリーニのピンク色が映えている。その鮮やかな色を見つめながら、陽芽子は最適な答えを必死に検索した。
「啓」
困り果てていると、正面から環が声を掛けてきた。二人同時に視線を向けると、環がフッと笑みを浮かべる。
「出禁にするぞ」
「何でだよ!?」
きっぱりと宣言された啓五が、ガタッと音を立ててバーチェアから立ち上がった。そして『まだ誘ってねーだろ』『横暴すぎる』と環に向かって文句を言っている。
その様子を眺めた陽芽子は、ブラウスの上から自分の胸をぎゅっと抑えた。
(びっくり、した)
ベッドに誘われたわけではない。
明確に愛の言葉を囁かれたわけでもない。
けれど鋭い瞳の奥に、あの日と同じ色が宿っていることに気が付いてしまう。陽芽子が本腰を入れて結婚相手を探し始めたことを面白くないとでも言うように。
(いやいや……)
啓五にとって陽芽子は恋愛の対象外のはずだ。それは陽芽子にとっても同じで、啓五は恋愛対象にはならない。
副社長という雲の上の存在で、結婚願望のない、年下の男性。―――啓五にだけは、絶対に恋に落ちない。
だから冗談はやめてほしい。
陽芽子は、自分だけに本気で好きになってくれる人を探しているのだから。
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