スノーホワイトは年下御曹司と恋に落ちない

紺乃 藍

失恋カクテル

 ふわふわ、ゆらゆら、くるくる
 おぼれるように酔っていたい

 人生はつらくて苦しいことばかりなんだから、カクテルグラスの中ぐらい甘い方がいい。

 嫌なことも忘れるぐらいに。明日のことさえ考えなくてもいいように。とろとろに甘く、くずれて、ほどけてしまいたい。


「陽芽ちゃん、具合悪いならもう止めとけば?」

 夢と現実を行き来するような心地でグラスの中を見つめていると、バーカウンターの向こう側から声を掛けられた。

 甘いカクテルが煌めくグラスから顔を上げると、バーテンダーのたまきが心配そうな困り顔を向けてくる。

「ううん、まだ大丈夫」

 陽芽子ひめこが不安を拭うように笑顔を浮かべると、環も小さく頷いた。

 まだ酔ってない。酔えない。
 ―――この程度じゃ。

「飲まなきゃ、やってられないもの」
「ほどほどにな」

 呆れた声を出しつつも、チェイサーを用意してくれる。これで三杯目になる甘ったるいカクテルの連続に、胸やけしてしまわないように。


 ここ『IMPERIAL』は、オフィス街の外れに佇む会員制のバーだ。会員になるために財力や社会的地位が必要という訳ではないが、既存会員の紹介がなければ新規の会員にはなれないシステムらしい。

 陽芽子は二年前、その制度を知らずにたまたま目についたIMPERIALへ、ふらりと足を踏み入れた。

 最初は当り前のように門前払いされた。けれど失恋直後で憔悴していた陽芽子は、傍から見ても精神状態が芳しくないと思われたらしい。客の入りが少ない火曜日だったことからマスターの許可が降り、陽芽子は美味しいお酒を口にすることが出来た。そしてアルコールと一緒に、失恋の悲しみを飲み込むことが出来た。

 このバーが会員制であることは、次の来店時にバーテンダーの環に聞いてはじめて認識した。申し訳なさを感じて踵を返したが、すぐに環が呼び止めてくれた。

 一見遊び慣れた印象を受ける茶髪の下で茶色い目をゆるませた彼は、穏やかな声音で『いいから飲んで行きなよ』と陽芽子に再び美味しいカクテルを出してくれた。


 それ以来、陽芽子はこのバーを行きつけにしている。もちろん会員の知り合いがいた訳ではない。陽芽子に既存会員の紹介がないことはマスターも承知の上だったが、対外的には環の知り合いという事になっているらしく、結局はこうして常連になっている。

 そして陽芽子は今日もIMPERIALに足を運ぶ。初めて来店した時と同じ状況と心情で、また環の前でため息を吐いて。

 失恋。今回は半年付き合った二つ年上の男性に『他に好きな人が出来たから別れて欲しい』とフラれてしまった。しかもその恋の相手は、陽芽子より五つも年下だという。

「若さには勝てない……」

 なにか悪いところがあったのなら、言ってくれればよかったのに。若さを理由にされたらどう足掻いても勝てない。でも浮気をされたわけじゃないぶん、いくらかマシだと思いたい。そう思わなきゃ、やっていられないから。

 もう一度ため息。グラスの中のカクテル『ル・ロワイヤル』が濁っている原因は、自分がため息を吐きすぎたせいなんじゃないかと思うほど。

「陽芽ちゃんは、もう少し視野広げてみたらいいと思うよ?」

 陽芽子の愚痴と嘆きを聞いた環が、いつものようにニコリと笑う。

「恋愛なんて、条件でするものじゃないじゃん。恋には性別も年齢も、国籍も宗教も関係ないだろ?」
「それはそうだけど……」

 環の言う通りだ。彼が常々口にしているように、恋愛に重要なのは条件じゃない。それはわかっている。

 けれど陽芽子は、早く結婚したい。今すぐでもいい。

 三十二歳になった今、陽芽子が本気で結婚したいと思うのなら、悠長に条件や好みから外れた恋愛を楽しんでいる余裕はない。『女の花は短命』とはまさにその通りで、周囲の友達のほとんどが花盛りのうちに結婚してしまった。会社でも、同期どころか後輩さえ次々に結婚していく。

 その現実を思い知っていたから、気の合う結婚適齢期の男性と付き合ったのに。結局は年齢の罠にハマって結婚から遠ざかってしまった。

 ため息が再び零れる前に、カクテルグラスをもう一度傾ける。

 ル・ロワイヤルは、チョコレートリキュールと生クリームを合わせた甘いバナナ味のカクテルだ。忘れてしまいたい現実は、贅沢な甘さと一緒に喉の奥へ流し込むに限る。

 大好きなお酒を味わっていると、ふいに背後から、コン、コン、コン、と高い音が聞こえてきた。

 カクテルグラスから唇を離して顔を上げると、目の前にいる環の視線が陽芽子の頭上を通過してその後ろへ向けられていることがわかった。環が見つめる先を目で追い、陽芽子もバーチェアを回して後方へ振り返る。

 店内の中央でひときわ存在感を放つ、光沢と造形が美しい黒の螺旋階段。上階へと続くその細い通路から、革靴の踵を響かせながら一人の男性が降りてきた。

「はー……だる……。祖父じいさん、話長いんだっての」

 なんて。陽芽子と同じく、愚痴とため息を吐きながら。

 会員制バー『IMPERIAL』は入り口から入ってすぐのカウンター席の他に、奥にはテーブル席がある。そして環に話を聞いただけで立ち入ったことはないが、テーブル席とは別にVIP専用の広い個室が存在するらしい。

 だから階段の上にはきっとそのVIP専用個室があるのだろう。そんな認識はしていたが、実際にその階段を行き来している人を見るのは初めてだ。

 ここが会員制のバーであったことを急に思い出して、ついつい身体が硬直してしまう。危ない自由業の人が出てきたらどうしようと身構えつつ、至近距離までやってきた人物からそっと視線を外した。

けい
「たま。なんかスッキリしたいもん飲みたい」

 声を掛けられた男性は、環と顔見知り以上の面識があるらしい。雑な注文にも関わらず、環は文句も言わずにコリンズグラスを手に取った。

 陽芽子も近くに立つ男性の姿をちらりと見上げる。その横顔を確認した瞬間、少しだけ驚いた。

(若い……)

 隣に立った男性は、危ない自由業の人には見えなかった。むしろモデルかアイドルではないかと思うほどの美男子だ。

 薄暗い照明の中でも良くわかる、細い輪郭の中に配置された薄い唇と整った鼻筋。目尻が上がったきれいな眼。ソフトテイラリングの仕立ての良いスーツ。無地ソリッドのボルドーのネクタイと、ゴールドのネクタイピン。

 一見するとその辺にいるビジネスマン風。けれどよく観察すれば、身に着けているものの品質の良さに気が付く。

 ジャケットもシャツもスラックスも彼の身体のラインにキレイに合っていて、肩や脇腹にはゆるみも皺もない。ダークネイビーのスーツも、鋭利な印象の顔立ちをさらに引き立たせている。

 完璧に似合うように細部まで計算されていると感じるのは、それが彼の身体に合わせて仕立てられたオーダーメイドだからだろう。既製品ではこうもぴったりと身体に合う品を見つけることは難しい。

 しかもスーツを着崩している訳ではないのに、立ち姿には余裕と風格と色気がある。初対面の相手に対してそう感じてしまうのは、照明のほど良い暗さのせいだろうか。

「ここ座っていい?」
「陽芽ちゃんがいいなら」
「ヒメちゃん? 隣いい?」
「えっ、あ……はい」

 陽芽ちゃん、と呼ばれ、スッと意識が戻って来る。普段こんなにも整った顔をお目にかかる機会がないので、ついじっと見つめてしまっていたようだ。人の顔をじろじろ見るものではないと反省し、自分のグラスへ視線を戻す。

「さんきゅ、たま」

 隣から小さな礼の声が聞こえた。横目でちらりと男性の手元を見ると、コリンズグラスには透明の泡が弾け、底にはレモンとライム、細かい氷の上にはミントの葉が乗せられている。彼のオーダー通りの『スッキリした』カクテル、モヒート。

「ヒメちゃん、って名前?」

 コリンズグラスの中身を眺めていたところに突然愛称を呼ばれ、身体ごと心臓が跳ねる。弾かれたように顔を上げると男性の黒い瞳と目が合った。

「あ、はい。太陽の『陽』に、新芽の『芽』に、子どもの『子』で、陽芽子と言います」

 バーカウンターのなだらかな木目の上に、指先で漢字を記しながら説明する。もっとも紙とインクを使用しているわけではないから、そこに軌跡は残らない。けれど陽芽子の指先をじっと見つめていた男性は、すぐに柔らかい笑顔を見せてくれた。

 そして陽芽子の目をじっと見つめたあとで、自分の名前も教えてくれる。陽芽子の真似をして、バーカウンターの木目の上に指先を滑らせながら。

「俺は啓五けいご。啓示の『啓』に、数字の『五』」

 後になって思えば。

 そうやって漢字で名前を確認し合った時点で気付くべきだった。もしくはこの時に彼の名字をちゃんと聞いておくべきだった。そうすればあんな後悔はしなかったのに。

 けれどお酒に酔っていた所為か、陽芽子は彼の正体には気付くことが出来なかった。

 この時は、まだ。

コメント

  • ひらり

    こちらにもおじゃましまーすっっ(o´艸`)

    1
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