忘却不能な恋煩い

白山小梅

待ち伏せ(2)

 仕事に集中している間は、他のことを考えずに済む。美琴も同じような時を過ごしたことがあるから、その気持ちは手にとるようにわかった。

 夏実はミスもなく黙々と仕事をこなしていく。

 失恋? 浮気? まさかギャンブル? いろいろなことを想像し過ぎて、美琴の方がミスしてしまいそうだった。

 終業後も夏実はさっさと席を立ち、皆に挨拶をすると、真っ直ぐに更衣室に向かった。

 美琴はその背中を追うことしか出来ない。

 今は放っておいて欲しいと言われた手前、美琴は何もせずいつも通りに接するしかなかった。

 しかし更衣室に戻った後も、夏実は終始無言で着替えを済ませる。

「美琴、なんかごめんね……。今日はもうこのまま帰るわ、お疲れ様」

 そう言い残すと、夏実は更衣室を出て行ってしまった。

 先週の金曜日の浮き足立った様子との違いに、美琴はただ戸惑うだけだった。

 あんな夏実は今まで見たことがない。相当辛い出来事があったに違いない。

 そういえば、私も死にそうな顔してたって夏実がこの間言ってたっけ。何も聞かないでオーラを出していたとも言ってた。

 もしかしたら今日の夏実のような状態だったのだろうか。だとしたら、今の私はどう映っていたのだろうか。

 美琴はカバンからスマホを取り出すと、尋人にメールを打つ。

『お疲れ様です。今終わりました』

 するとすぐに返事が来る。

『了解です。十分くらいで着きます。』

 本当は私だって、こんな風に浮かれていていい人間ではないと思う。まだきちんと山脇さんのことを終わらせていないのに、尋人を選んでしまっている。

 美琴は荷物をまとめ、更衣室を出る。

 渡り廊下を歩きながら大通りに目をやるが、尋人の車はまだ到着していなかった。

 十分くらいって言ってたし、少し待とう。

 自動ドアを抜け、外に出た時だった。

「美琴?」

 聞き覚えのある声が、美琴の名前を呼び止める。

 美琴はゾッとした。出来れば聞きたくないと思っていた声だったから。

 振り返るとそこには、グレーのスーツを着た30代後輩の男が、薄ら笑いを浮かべて美琴をじっと見つめていた。

「山脇さん……」

 あの頃はあんなにときめいた山脇さんの人当たりの良さそうな雰囲気が、今は少し胡散臭く感じた。

「最近電話しても出てくれないからさ、何かあったんじゃないかって心配になったんだよ」

 彼が一歩近付くたびに、美琴は一歩退いた。

 山脇の顔が、いつかの美琴を牽制するときのような表情をしていたため、直視するのが怖くなった。

 でも今がチャンスじゃない……ほら、別れるって言わないと。

「美琴? どうしたの? 具合でも悪い? ちょっとホテルで休憩する?」

 美琴は山脇に腕を掴まれる。想像以上に強い力で握られ、痛くて涙が出そうになる。

 何この人……この状況でホテルって、意味がわからない。

「痛いです! 離してください!」
「……だって離したら逃げるだろ? 俺は今もずっと美琴を愛してるって言いたいだけなんだ。電話もメールも繋がらないし、君がいないと僕は寂しくてどうにかなりそうだよ……」

 まただ。こうやって愛してると簡単に言う。今までのわたしだったらここで流されてしまっただろう。

 でももうその言葉が嘘だと知っているし、本心の愛してるの響きもわかってる。だから流されたりしない。

 だが一向に弱まらない手の力に負けそうになる。

「山脇さん……!」

 叫んだ瞬間、大きなクラクションが響き渡る。その音に驚き、山脇の手の力が緩んだ隙をついて、美琴は通りに停まっていた尋人の車の助手席に乗り込む。

「出して! 早く!」

 手が震えてシートベルトが上手くつけられない。どうしよう……早く……気持ちばかりが焦る。

「美琴、落ち着いて」
「ダメ……無理……んっ!」

 尋人は美琴の唇を塞ぐと、彼女の頭越しに男を睨みつける。

 こいつが山脇か……写真で見た通りの男だった。

 すると山脇も、先ほどまで美琴に見せていた顔からは想像もつかないような険しい表情で、尋人をギロっと睨みつける。

 尋人は唇を離すと、美琴の頭を抱き寄せた。まだ震えが治まってはいなかった。

「大丈夫、ちゃんと俺がついてるから」
「うん……」

 尋人はアクセルを踏むと、車を走らせ病院から遠ざかった。

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