忘却不能な恋煩い

白山小梅

傷に触れる(1)

 仕事が早く終わったため、美琴は早めに家に帰宅した。

 今のところ尋人からの連絡はないが、家で食べると言っていたし、とりあえず作って待つことにする。

 キッチンに立った時、美琴のスマホが鳴る。恐る恐る確認すると、紗世からのメッセージだった。

 尋人とこういう関係なってしまったこともあり、もしあの人から連絡が来た時にどうすればいいのかわからなくなっていたのだ。

 尋人には何か連絡が来ても出るなと言われているけど、それでいいのかわからなかった。

 でももし山脇さんに真実を伝えたとして、どんな反応をされるのか考えると怖かった。

 元々忙しい人だし、頻繁に連絡がないのはありがたかった。

 とりあえず気を取り直して紗世のメッセージを読む。

『お疲れ様! なかなか連絡が来ないからしてみました。金曜日の夜って空いてる? もし良かったらまたあのバーでおしゃべりしない? お返事待ってま〜す』

 美琴は血の気が引く。連絡すると言ったのに、そのまま放置していたことを思い出した。明るい文面なのに、裏に怒っている紗世が垣間見える。

 金曜日は確か会食があると尋人が言っていたのを思い出す。美琴は慌てて返事を打つ。

『お疲れ様! 連絡が遅くなってごめんね! 金曜日大丈夫です。楽しみにしてるね』

 金曜日……あれから一週間になるんだ。いろいろなことがありすぎて、体感としてはもっと長く感じる。

 紗世に話したらきっとびっくりするだろうな。でも紗世のおかげで尋人との誤解が解けて、今こうしていられる。

 再びスマホが鳴る。こう続け様だと心臓に悪い。確認すると、今度は尋人からだった。

『これから帰ります。もう家?』

 たった一文だけど、一緒に暮らしているんだと実感する文面だった。

『お疲れ様です。家にいます。気をつけて帰ってきてね』

 なんか夫婦みたいなやり取り。すごく照れくさくて嬉しいのに、現実じゃないような気がして不安になる時もある。

 自分しかいない静かなこの部屋が急に怖くなり、美琴は慌ててテレビのスイッチを入れた。

 私って中途半端。はっきりしないのは自分自身なのに、どっちつかずな状況への苛立ちと不安で苦しくなる。

 食事の準備が終わった頃、ドアが開く音がして尋人が帰宅すると、美琴の心に安堵が広がる。

「ただいま。おっ、いい匂い」
「あっ……おかえりなさい」

 尋人は書斎にカバンと上着を置いてすぐに戻ってくる。

「先にお風呂にする?」
「いや、後でいいよ。どうせなら出来たて食べたいじゃん」
 
 さっきまであんなに不安だったのにな……。彼の笑顔を見ただけでその想いが払拭される。

* * * *

 それは突然だった。

 尋人と二人で食器の片付けをしていたとき、美琴のスマホの着信音が響き渡る。

 洗い物をしていた美琴はタオルで手を拭いてから、カウンターに置いたままになっていたスマホの画面を見た瞬間、美琴が凍りついた。

「美琴?」

 その様子に気付き、尋人は慌てて美琴に駆け寄り、画面に表示された名前を確認する。

『山脇さん』

 美琴は口を押さえたまま動けなくなっていた。あぁ、とうとうこの時が来たんだ……。

「この男?」

 尋人は着信画面を見ながら問いかける。美琴は力なく頷く。

「出ないと……」

 尋人はスマホを美琴の手が届かないよう、カウンターの奥の方へ滑らせる。

「出なくていい」
「で、でも……ちゃんと話さないと……」
「今じゃなくていい。とりあえず今は無視しろ」

 その間に音が鳴り止む。

 これで良かったの? 美琴は不安しかなかった。せっかく中途半端な自分を終わらせるチャンスだったのに……。

 尋人は美琴をソファに座らせると、そのままカウンターへ美琴のスマホを取りに行った。留守電の設定にはしていないようだな。美琴の目に入らないよう着信履歴を消す。念のため、その番号を自分のスマホに控えた。

 今も項垂うなだれたまま座っている美琴の手にスマホを載せると、尋人は美琴の前に座り込む。

「美琴、その男とちゃんと終わらせるつもりあるんだよな?」
「当たり前じゃない! ずっとそう言ってる……だから今だってそのことを伝えるつもりだったのに……」
「着信見ただけで凍りついたような美琴じゃきっと無理。あのまま出て、ちゃんと話せたと思う?」

 美琴は袖で顔を覆いながら泣き出した。美琴自身もそれは自覚していた。私はたぶんまた丸め込まれて、有耶無耶うやむやにされてしまうんだ。

「美琴は優しいんだよ。だから言えない。とりあえず着信拒否しとけ。上手く行けば自然消滅だ」
「でもそれじゃあ……!」
「ちゃんと別れた事にならない? でも自然消滅だって、別れであることにかわりないよ」
「でも……」
「言っただろ。それは上手くいけばの話。まぁいかない確率の方が高いと思う。今はその時に向けて考える時期なんだよ」

 尋人の言葉が一理あるのはよくわかるが、どうしてもモヤモヤしてしまう。

「あと知らない番号にも出るなよ」
「……わかってる。子どものお説教みたいなこと言わないでよ」
「それだけお前を心配してるってことだよ。俺がいる時以外は、絶対にその男からの電話もメールも出るな。約束してくれ」
「うん……わかった……」

 尋人は美琴の手を握っていたが、返事をした以外、ピクリとも動かない。

 仕方ないので、美琴の手からスマホを取ると、尋人が操作して着信拒否設定にする。

 山脇か……。彼女から聞いた名前と同じ。尋人は昼間の会話を思い出していた。この男はいつまで美琴を苦しめるつもりなんだ?

「美琴、俺がついてるよ。なんてったって彼氏だし」
「……笑えない」
「まぁ……そうだよな」

 尋人も苦笑いをしている。もっと俺に甘えればいいのに……。

「でも……ちょっと元気出たかも。頼りになる彼氏がいて良かったな……」

 その一言で気持ちが抑えきれなくなり、美琴の体を抱き上げると、浴室に入ってシャワーを出す。あっという間に二人はずぶ濡れになった。

「えっ……なんでいきなりシャワー⁈」

 美琴は訳がわからずあたふたしている。その様子を尋人は楽しそうに眺める。

「気分転換」
「気分転換って….びしょ濡れだよ」
「まぁ濡れちゃったし、このまままた二人でお風呂に入ろうか」

 美琴が反論する間もなく、尋人の手がブラウスのボタンを一つずつ外していく。

「昨日も入ったじゃない……!」
「それなら一緒に入るっていうのを習慣にするか」

 美琴は黙っていたが、そっと尋人のシャツに触れ、ゆっくりとボタンを外し始めた。

 尋人はニヤッと笑い、されるがままになっている。そうそう。そうやって美琴がしたいようにすればいい。俺は美琴の全てを受け入れたいんだから。もっとわがまま言っていいんだ。

「これって暗黙の了解?」
「……バカ」

 尋人が美琴の気持ちを変えさせようとしてくれていることはすぐにわかった。

 明るい言葉で、美琴が笑えるような雰囲気を作ってくれている。

 尋人が与えてくれる優しさに甘えている自分に気付き、その新しい感覚に驚く。だけど不思議。嫌じゃないの。むしろ尋人になら見せてもいいって思い始めていた。
 

 

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