忘却不能な恋煩い

白山小梅

尋人の場合(1)

 尋人は専務室と書かれた扉を開ける。机にカバンを置き、椅子に座るとパソコンを起動させる。

 ブルーエングループは主に飲食店をチェーン展開している。ここ数年は海外にも店舗を増やしていた。現社長は父だが、今は海外の支社を任されている兄がいずれは継ぐことになる。その時のサポートが出来るようにと、尋人は日本に戻されたのだった。

 引き出しを開けた時に、金曜日の自分の行動を思い出した。

 書類の確認作業をしている時に突然藤盛ふじもりさんから連絡が来たため、慌てて引き出しに書類をしまいこみ、鍵をかけてオフィスを飛び出したのだった。

 こんなの、俺にしてみたら珍しい。相当慌ててたんだな。笑いが込み上げてくる。引き出しの中は書類が無造作にしまわれていた。

 この三日はいろいろなことがあった。金曜日の美琴との再会に始まり、なんとか三年前の誤解を解くことが出来たし、同居にまで漕ぎ着けた。今は禁止されてしまったが、たった一晩でも体を重ねることが出来た。

 急ぎ過ぎたかもしれないと思いつつ、三年前の二の舞だけは避けたかった。せっかく再び繋がった糸を手放すわけにはいかなかった。

 三年前のあの時はエリアマネージャーとして、任された店を軌道に乗せるために毎日せわしなく働いていた頃で、一息つくためにあの店に立ち寄った。

 昔からの行きつけのこの店で、いつものようにカウンターで何杯か飲んで帰るつもりだった。ところが半個室から聞こえる話し声の内容が面白くて、つい聞き入ってしまったのだ。

 少し高めのかわいい声の子が、話を盛り上げている。時折海外ドラマの話が入ると、あぁそれ知ってると言いたくなった。

 どんな子なのかとちらっと振り返って見てみると、表情がコロコロと変わる、小柄なかわいい女性だった。

 彼女の話は尋人の疲れた心を癒してくれた。もっと聞いていても良いけど、どうせなら話してみたいと思った。

 彼女が席を立った時、同席していた女性二人に声をかけに行った。

「ちょっといいかな」

 二人は怪訝そうな顔で尋人を見た。完全に怪しんでいる。とりあえず身元をしっかりさせておくか。尋人はパンツのポケットから名刺を出すと、テーブルの上に置く。

「さっき席を立ったあの子と二人で話したいんだけど、ちょっと借りてもいいかな?」
「借りるって……ものじゃないんですけど」

 ワンピースにロングヘアの女性が、尋人を睨むように言う。

「でもちゃんと名刺くれたよ。変な人ではないと思うけどなぁ……」

 ゆるっとパーマの女性の言葉を聞いて、黒髪の子が名刺をじっと見つめる。

「……どうせ軽い感じの誘いでしょ? あの子を傷つけるようなものならお断りです」
「でも私たちが決めるのもおかしいけどねぇ」

 その言葉で黒髪の子は黙り込む。

「わかったよ。断られたらそれ以上しつこくしないからさ。なんならその連絡先に確認の電話をくれてもいいし、傷つけたなら訴えてもいいよ」

 二人は顔を合わせる。黒髪の子はため息をつき、ゆるっとパーマの子は微笑んだ。

「とりあえず私たちはオッケーということで。でも大事なのは本人の気持ちですから。ご自分で聞いてみてください」
「ありがとう」

 待ち伏せして声をかけると、美琴はかなり警戒心が強いことがわかった。なかなか笑顔は見せてくれなかったが、話してみると、盗み聞きしていた時と印象は変わらない。

 タイプだったのかと問われれば、もうど真ん中だったというしかない。顔も声も話す内容も、かわいくてしかたなかった。

 今すぐ俺のものにしたいなんて言ったら、あの黒髪の子に殺されるかもしれないな。

 友達が帰ると言った時、美琴は俺を選んでくれた。本当はあの時に理性の糸が切れてしまったんだと思う。

 二人になった途端キスをして、気がついたらホテルにいた。初めてと言われても止められなくなった。

 あんなに夢中になってセックスをしたのは初めてだった。別に俺だってそんなに経験がないわけじゃない。でもあんなに満たされたのは後にも先にも美琴だけだった。

 彼女が疲れ果てて眠ってしまった後、寝顔を見ながら不安になった。朝になって目を覚ましたら、彼女はもうここにいない気がしたのだ。

 もっと君のことが知りたい、一晩だけだなんて思いたくなかった。

 彼女の髪を撫でると、耳元に月が重なり合ったモチーフのピアスが姿を現した。それを見た尋人は、そのピアスをそっと外すと自分のシャツのポケットにしまった。それから自分のピアスを外し、起こさないよう慎重に彼女の耳に着けた。

 俺は何をしているんだろう……。でも彼女に俺の痕跡を残したかった。たとえもう会うことはなかったとしても、彼女の心の片隅にでも存在していたい。

 尋人は美琴の体を抱きしめる。そしてそのまま眠りに落ちた。

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