忘却不能な恋煩い

白山小梅

本心(1)

 車でのキスは美琴の中のわだかまりを少しだけ溶かした。車を降りると、先程とは違って普通に手を握ってくる。

「ここまで来て逃げませんよ……」

 美琴は言ったが、尋人は黙ったままだった。

 エレベーターに乗り込み、尋人は慣れた手付きでカードキーをかざす。するとエレベーターが動き出し、十八階で止まった。フロアに降りると、通路の両側に扉が一つずつしか見当たらない。尋人は向かって左側に向かい、ドアを開けた。

 ワンフロアにニ軒しかないっていうこと? 美琴は尋人の新しい名刺を見ていないので、彼が何をしている人なのかわからなかった。

「入って」

 美琴は眩暈がした。玄関と廊下の広さだけで、美琴の借りているワンルームとほぼ同じくらいだったのだ。

 この人、何者なんだろう……。明らかに生活の次元が違いすぎる。

 尋人の後をついていくと、とてつもなく広いリビングが現れた。一面ガラス張りの窓からは夜景が一望出来る。

 先程までの悲しみや不安を吹き飛ばすほどの驚きしかなかった。

 ただ……美琴は部屋を見渡し、生活感のなさを感じる。本当にここに住んでいるのかと疑うくらい何もないのだ。

「何もないだろ? 仕事でずっと海外にいたんだ。帰ってきたのは先月でさ、会社が用意したここにとりあえず住んでるけど、どうせ寝るだけだから。何か飲む?」

 尋人はカウンターの上にカバンとジャケットを置くと、冷蔵庫を開ける。美琴はどうしていいか分からず、カウンターの椅子に座った。

 「じゃあ……お水をください」
「……水?」
「えっ……じゃあお茶?」
「……お前まさかここを実家か何かと勘違いしてないか?」
「してません! もうなんでもいいです!」

 すると尋人は笑いながら冷蔵庫を開けると、カウンター越しに水のペットボトルを渡す。

「あ、ありがとうございます……っていうか、あるんじゃないですか」
「お前のことだから酒かなぁと思ったんだよ。そしたらまさかの水だし」
「お酒はさっき飲んだので。私には構わずどうぞ飲んでください。さっきのお店で飲めなかったんでしょ?」

 美琴の言葉を聞いて尋人は口元に笑みを浮かべた。

「今日は酔いたくないんだよ。美琴ときちんと話をしたいから」

 それに反して、美琴は下を向いてペットボトルを握りしめる。ほんの一時忘れていた不安が再び押し寄せる。

 その空気を尋人も感じ取る。

「そんなにガチガチになるなよ。とりあえずあっちのソファにいかない? このカウンターの椅子、座りにくいんだよなぁ」

 美琴はただ頷くと、立ち上がった。三人掛けの黒の革のソファは座面が広く、高い背もたれが落ち込んだ美琴の体を優しく受け止めてくれる。

 一体どんな話をするつもりなんだろう……不倫のことには触れてほしくなかったが、それは無理だとわかっていた。

 一人分のスペースを空けて、尋人がドサっと座り込む。手には四角い大きな箱を持っていた。

「さっきは悪かったよ……。だからこれはお詫びの品! 好きなだけ食え!」

 さっきとはお店でのことだろうか。悪いと思ってくれたんだ……。少し心が軽くなった。それにしてもお詫びの品が高級チョコレートって……美琴は吹き出した。

「この時間に食べてどうなるかは知らんけどな」
「なんですか、それ。1日くらい大丈夫ですよ。ストレスの方が体に悪いし」

 一粒口に入れると、ちょっとだけ幸せな気持ちになる。自然と笑みが溢れた。

「ホワイトレディ飲んだ時みたいな顔してる」
「……美味しそうってこと?」
「まぁそんなとこ」

 尋人は持っていたジンジャーエールのペットボトルを開けると、少しだけ口に含んだ。このやりとり、三年前を思い出すな……やっぱり変わってない。あの日を思い返して目を閉じる。

「……三年前のあの日さ、仕事が立て込んでた頃で、ちょっと息抜きしに行ったんだ。飯食って、ちょっと酒飲んで帰るつもりだった」

 尋人は背もたれに倒れ込み、天井を見つめる。

「だけど奥の席から笑い声が聞こえてきて、何が面白いのかって聞き耳立ててたらさ、あまりのくだらなさにこっちが吹き出した」
「くだらないって……失礼すぎ」

 尋人は改めて思い出して笑い出す。

「会話の中心にいたのがお前でさ、ちょいちょい海外ドラマネタを入れてたよな。俺も全部がわかったわけじゃないけど、知らない人でも楽しめるっていうかさ……」

 美琴ははっとする。いつの間にか尋人が美琴の方を向いて手を握ってきたのだ。

「お前と話してみたいと思ったんだ」

 真っ直ぐ見つめられ、いたたまれなくなって目を逸らす。すると握られた手のひらがゆっくりと動き、今度は指が絡まる。美琴は急に恥ずかしくなって離そうと試みるが、より強く握られただけだった。

「まぁお前がかわいすきて話どころじゃなくなったけどな」

 確かに少ない会話だった。でも私はあなたとの会話、たぶん全部覚えてる。

「……これってなんの会話? ただの昔話なら聞きたくない」
「……なんで聞きたくないの?」
「それは……!」

 美琴は口をぎゅっと閉じる。尋人の顔を見ると、三年前に戻ったような気持ちになる。今でもこの人にときめいてしまう。

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