忘却不能な恋煩い
求めてしまうのは(1)
美琴はネイビーの扉の前で立ち尽くしていた。水色のシャツに合わせた白のスカートが風に揺れる。だが緊張からか、それとも六月という気候のせいか、シャツが汗で肌に張り付くような感覚を覚える。
あの日以来、この店に来ることはなかった。
たった一夜の出来事。でも私にとっては初めての大きな体験。もし彼に会ってしまったらきっと気持ちが揺らいでしまう。それが怖くてつい避けてしまっていた。
あれから三年。それでも今日ここに来たのは、何かしら答えが見つけられるような気がしたからだった。
美琴は意を決して扉を押した。あの日と同じ煉瓦の壁が薄暗い照明の中に映える。
まだ早い時間ということもあり、人の姿はなかった。美琴は店内を見回す。目に止まったのは尋人と二人で座った奥のカウンターだった。あの時のキスの感触を思い出して複雑な気持ちになる。
銀髪のバーテンダーの男性と目が合い、カウンター席へと案内された。
紗世との待ち合わせの時間まではまだ少しある。先に飲んで待っていよう。
「あの……ホワイトレディをください」
あぁ……だから嫌だった。私こんなにもあの夜を引きずってる。
美琴は差し出されたホワイトレディをじっと見つめる。
『純粋そう』
尋人の言葉を思い出し肩を落とした。
その時お店の扉が開く。
「あれっ、美琴ちゃんってばもう来てたの? まだいないかなぁと思ったけど、早く来て正解かな? いっぱい話せるもんね」
紗世は相変わらずワンピースを身にまとい、ロングの黒髪をハーフアップにしていた。
「なんか早く着いちゃって。迷ったけど先にお店に入っちゃった」
紗世は美琴の隣に座ると、すぐさまバーテンダーに声をかける。
「季節のカクテルで! あとオススメのパスタをいただいてもいいですか?」
「あっ、じゃあ私も」
バーテンダーの男性はお辞儀をすると、カウンター奥の扉に消える。たぶんフードメニューは中で作っているのだろう。しばらくして戻ってくると、カクテルを作り始めた。
「それにしても千鶴ちゃんを呼ばないところを見ると、今日は不毛な恋についての相談?」
不倫という言葉を使わないところが紗世らしい。
「うん……この間ちょっとだけ電話で話したけど、一人でいると考えがぐるぐるしちゃって……なんかこのままどん底に落ちちゃいそう」
ある意味、今のこの状況は千鶴が引き金だった。
あれは半年前、久しぶりに三人で会うことになって行ってみると、千鶴は嬉しそうに指輪を見せてくれた。
二人で千鶴のお祝いをしたけど、内心は少し複雑だった。なんで千鶴ばっかり幸せなのかな……なんて、嫌な考えが浮かんだりもした。
一人でいいじゃない。一人で大丈夫。一人は楽。そう言い続けてきたはずなのに、急に寂しくなった。
三年前の尋人と過ごしたあの夜を思い出して、無性に誰かが恋しくなってしまう夜もあった。
そんな時に仕事の取引先の男性と、街中でバッタリと出会い、彼からのアプローチを受けて付き合うことになった。
彼は優しくしてくれたし、楽しい話をいろいろ聞かせてくれた。尋人ほどじゃないけど、久しぶりの人肌は美琴を満足させてくれた。ゆっくりとだが、交際が進んでいるように感じていた。
しかし先月、ベッドの中で彼はこう言った。
『実は結婚してるんだ。でも妻とはうまくいっていなくて、君こそが俺の運命の人だと思ってる』
美琴は愕然とした。知らなかったとはいえ、まさか自分が不倫していただなんて思いもしなかった。
でもそうすると不思議と辻褄が合う。接待で忙しいから土日は会えない。平日は早く休むからメールは朝にしよう。出られないから電話はしないように。
美琴はその言葉をそのまま信じてしまった。よく考えれば気付けたことなのに……。
突然店内が賑やかになり、カップル、女性四人組、スーツの男性が続け様に入店してくる。
カップルと女性四人組は半個室へと案内され、スーツの男性はカウンターの一番奥の席に座った。
すると紗世がニヤニヤしながら美琴の顔を見た。
「あの席って、三年前に美琴ちゃんがハメを外しちゃった場所だね」
「そうだった……」
「で、不毛な恋に何か進展はあったの?」
美琴は首を横に振って下を向く。
「別れなきゃと思っているのに、奥さんが話し合いに応じてくれそうだとか、愛してるとか言われて、そのままホテルに行っちゃたりしてズルズル……」
「美琴ちゃんはその人のこと、好きなの?」
「……わからない。でも時々思うの。不倫じゃなくて普通の恋愛だったら、たぶん別れてると思う」
「それってもう気持ちは冷めてるってことじゃない?」
「……かもしれない。なのにありもしない未来展望に期待したり、自分に向けられる優しさにバカみたいな優越感を感じたり……私、本当に嫌な奴になってる。最悪。汚らしい……」
紗世は美琴の背中を優しく叩く。
「それって男が体の関係を続けるために嘘をついてるって事でしょ? 不倫をするような男だから当然だけど、誠実さのカケラも感じない、女の敵ね」
紗世の言葉は正しいとわかってるのに、何故かはっきりと言えない。
「美琴ちゃん、今幸せ?」
美琴は首を横に振る。
「……本当のことを言うとね、三年前にここで彼と出会って、たった一夜の出来事だけど、今までにないくらい満たされたんだよね。またあんな風に愛されたい……あの時から愛されたい欲求が強くなっちゃったみたい。一人で生きていけるって思っていたのになぁ……。ちょっと優しくされるとその手にすがってしまう」
「……なんかその言い方だと、愛されたい相手はあの時の彼限定って聞こえる。本当は一夜とか言いながら、かなり好きだったんじゃない?」
「……かもしれない」
その時食欲をそそるいい香りとともに、二人の前にパスタが運ばれてくる。
「とりあえずお腹を満たそう! 話はそれからね」
紗世の笑顔に引き込まれ、美琴も自然と笑顔になれた。
あの日以来、この店に来ることはなかった。
たった一夜の出来事。でも私にとっては初めての大きな体験。もし彼に会ってしまったらきっと気持ちが揺らいでしまう。それが怖くてつい避けてしまっていた。
あれから三年。それでも今日ここに来たのは、何かしら答えが見つけられるような気がしたからだった。
美琴は意を決して扉を押した。あの日と同じ煉瓦の壁が薄暗い照明の中に映える。
まだ早い時間ということもあり、人の姿はなかった。美琴は店内を見回す。目に止まったのは尋人と二人で座った奥のカウンターだった。あの時のキスの感触を思い出して複雑な気持ちになる。
銀髪のバーテンダーの男性と目が合い、カウンター席へと案内された。
紗世との待ち合わせの時間まではまだ少しある。先に飲んで待っていよう。
「あの……ホワイトレディをください」
あぁ……だから嫌だった。私こんなにもあの夜を引きずってる。
美琴は差し出されたホワイトレディをじっと見つめる。
『純粋そう』
尋人の言葉を思い出し肩を落とした。
その時お店の扉が開く。
「あれっ、美琴ちゃんってばもう来てたの? まだいないかなぁと思ったけど、早く来て正解かな? いっぱい話せるもんね」
紗世は相変わらずワンピースを身にまとい、ロングの黒髪をハーフアップにしていた。
「なんか早く着いちゃって。迷ったけど先にお店に入っちゃった」
紗世は美琴の隣に座ると、すぐさまバーテンダーに声をかける。
「季節のカクテルで! あとオススメのパスタをいただいてもいいですか?」
「あっ、じゃあ私も」
バーテンダーの男性はお辞儀をすると、カウンター奥の扉に消える。たぶんフードメニューは中で作っているのだろう。しばらくして戻ってくると、カクテルを作り始めた。
「それにしても千鶴ちゃんを呼ばないところを見ると、今日は不毛な恋についての相談?」
不倫という言葉を使わないところが紗世らしい。
「うん……この間ちょっとだけ電話で話したけど、一人でいると考えがぐるぐるしちゃって……なんかこのままどん底に落ちちゃいそう」
ある意味、今のこの状況は千鶴が引き金だった。
あれは半年前、久しぶりに三人で会うことになって行ってみると、千鶴は嬉しそうに指輪を見せてくれた。
二人で千鶴のお祝いをしたけど、内心は少し複雑だった。なんで千鶴ばっかり幸せなのかな……なんて、嫌な考えが浮かんだりもした。
一人でいいじゃない。一人で大丈夫。一人は楽。そう言い続けてきたはずなのに、急に寂しくなった。
三年前の尋人と過ごしたあの夜を思い出して、無性に誰かが恋しくなってしまう夜もあった。
そんな時に仕事の取引先の男性と、街中でバッタリと出会い、彼からのアプローチを受けて付き合うことになった。
彼は優しくしてくれたし、楽しい話をいろいろ聞かせてくれた。尋人ほどじゃないけど、久しぶりの人肌は美琴を満足させてくれた。ゆっくりとだが、交際が進んでいるように感じていた。
しかし先月、ベッドの中で彼はこう言った。
『実は結婚してるんだ。でも妻とはうまくいっていなくて、君こそが俺の運命の人だと思ってる』
美琴は愕然とした。知らなかったとはいえ、まさか自分が不倫していただなんて思いもしなかった。
でもそうすると不思議と辻褄が合う。接待で忙しいから土日は会えない。平日は早く休むからメールは朝にしよう。出られないから電話はしないように。
美琴はその言葉をそのまま信じてしまった。よく考えれば気付けたことなのに……。
突然店内が賑やかになり、カップル、女性四人組、スーツの男性が続け様に入店してくる。
カップルと女性四人組は半個室へと案内され、スーツの男性はカウンターの一番奥の席に座った。
すると紗世がニヤニヤしながら美琴の顔を見た。
「あの席って、三年前に美琴ちゃんがハメを外しちゃった場所だね」
「そうだった……」
「で、不毛な恋に何か進展はあったの?」
美琴は首を横に振って下を向く。
「別れなきゃと思っているのに、奥さんが話し合いに応じてくれそうだとか、愛してるとか言われて、そのままホテルに行っちゃたりしてズルズル……」
「美琴ちゃんはその人のこと、好きなの?」
「……わからない。でも時々思うの。不倫じゃなくて普通の恋愛だったら、たぶん別れてると思う」
「それってもう気持ちは冷めてるってことじゃない?」
「……かもしれない。なのにありもしない未来展望に期待したり、自分に向けられる優しさにバカみたいな優越感を感じたり……私、本当に嫌な奴になってる。最悪。汚らしい……」
紗世は美琴の背中を優しく叩く。
「それって男が体の関係を続けるために嘘をついてるって事でしょ? 不倫をするような男だから当然だけど、誠実さのカケラも感じない、女の敵ね」
紗世の言葉は正しいとわかってるのに、何故かはっきりと言えない。
「美琴ちゃん、今幸せ?」
美琴は首を横に振る。
「……本当のことを言うとね、三年前にここで彼と出会って、たった一夜の出来事だけど、今までにないくらい満たされたんだよね。またあんな風に愛されたい……あの時から愛されたい欲求が強くなっちゃったみたい。一人で生きていけるって思っていたのになぁ……。ちょっと優しくされるとその手にすがってしまう」
「……なんかその言い方だと、愛されたい相手はあの時の彼限定って聞こえる。本当は一夜とか言いながら、かなり好きだったんじゃない?」
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