霧の中に悪魔がいる

full moon

夜の息づかい(3)

 私は四人席の長椅子に横になると、いつの間にかに寝ていたようだ。

目を覚まして、上体を起こす。

そこには誰一人として居なかった。

ランタンの火も弱く、店内は、どんよりしている。

店内の床には、老父の死体が横たわっている。

私は徐に立ち上がる。

脳の奥のほうで、ずんずんと重苦しい頭痛がする。

ガラスが割れたような視界は無くなっている。

妻と娘を探した。店内には居ない。

厨房へ向かった。

娘を見つけた。

厳重に塞がれていた排水溝の鉄格子が外れている。

娘は排水溝を覗き込んでいた。

「危ないから、こちらに来るんだ」

私は娘に言う。

娘は私に反応せず、排水溝の中に入っていく。

私は慌てて娘へ駆け寄る。

しかし、間に合わなかった。

娘は、するすると排水溝の中へと入っていった。

私は排水溝を覗き込む。

ヘドロがびっしり付いていて、漆黒の闇で先が見えない。

私はランタンを持って、再び排水溝の中を覗く。

排水溝は緩やかな斜面を下っていく構造のようだ。

私は考える余地も無かった。

娘を追って、排水溝へ入った。

大人の背丈では、ほふく前進で進むのがやっとだった。

ランタンで先を照らすと、娘の姿が微かに見えた。

四つん這いになり、はいはいで先に進んでいる。

娘以外に何も変わり映えのない光景が続く。

その視界で娘の小さな臀部が左右に揺れ動く。

左右に揺れ動く臀部を見ていると、ふわふわと体の毛が逆立ち始める。

なんだこの感じは。

お酒に酔ったような高揚感だ。

娘との距離が段々と遠くなっていく。

急いで左右の腕を動かすも、ほふく前進では追いつかない。

ランタンの光が娘を捉えられなくなった。

私は、ほふく前進を止めた。

目的を見失った私はふと我に返る。

呼吸が早く、比例して、鼓動も小刻みに叩いている。

ぱっぱっとランタンの灯火が点滅すると、遂には消えた。

完全に真っ暗闇となり、視界は失った。

ふと気づけば、目を凝らして、視界を捉えようとする。

しかし、当然、何も見える事が無い。

この細い排水管を戻るのは難しい。

ゆっくり一つ一つ前に進もう。

次第に視覚から聴覚を信じるようになる。

どこだろうか。

ぽちょん、ぽちょんと一定の間隔で滴る水の音が聞こえる。

ほふく前進する両腕は動かす度に、ぐちょぐちょとヘドロを巻き込む。

足は、ざっざっと衣類の擦れる音がする。

しばらく進むと、ほふく前進する両腕に何やら当たった。

手を前に伸ばして確認する。

行く先が鉄格子で封鎖されていた。

鉄格子の向こうは仄暗い空間があった。

どこかの施設だろうか。

四方がコンクリートの廊下のようだった。

鉄格子の向こう側を見ていると突然、目の前に足が現れた。

思わずびくっと体を固める。

その足は間違いなく娘の足だ。

私は鉄格子に両手をかけて、開けようとする。

しかし、びくともしない。

娘は、たたたたたと廊下の奥へと駆けていった。

「待って!」

ずっと腹這いになっていた為か、上手く声が出せなかった。

鉄格子から手を離した。

望みが絶たれ、力が抜ける。

ふと、私の足の方向から何かが近づく音が聞こえる。

私は顔を足元に向ける。

ぴちゃ、ぴちゃと段々と近づいてくる。

そして、その音は、私の足元で止まった。

獣のような息づかいを感じる。

目を凝らした。

微かに姿が見えた時、私は驚愕した。

赤い目を光らせた大型犬だった。

腹を空かせているのか、欲望のままに牙を剥き出しにしている。

今にも、私に襲いかかりそうだ。

私は目の前の鉄格子に目線を向ける。

鉄格子を外そうと強く力を入れる。

がたがたと何度も力を入れるも開かない。

冷や汗が、額を流れる。

手に汗が滲み、鉄格子から手を滑らせる。

再び、大型犬に目線を向けた時、大型犬は私の脇腹の隣に居た。

そして、大きく口を開け、私の脇腹に目掛けて、素早く鋭い牙を立てた。

複数の牙が私の脇腹に食い込む。

恐怖心で高揚しているのか、痛みを感じない。

どうしてだろうか。

抵抗しようとも思えない。

どこか、恍惚感さえ感じる。

脇腹から腸が飛び出た。

大型犬は、腸を引きずり出して貪る。

私の腹部の内側は意図としない腸の動きを感じる。

直接内臓に触れられているような感覚だ。

気が付けば、周囲は真っ暗闇になり、何も見えない。

真っ暗闇では、目を開けている事すらわからない。

ただ、内臓をどんどん食べられている感覚だけが全身に伝わってくる。

真っ暗闇では、今、私がどのような格好をしているのかもわからない。

体が形状を保っているのかすら、明確な根拠を見つけられない。

遂には、私の体が貪られる感覚すら無くなった。

もうすでに体は全て無くなっているのかもしれない。

しかし、それを根拠付ける事が出来ない。

何故なら、今ずっと様々な事を考えているからだ。

思考が続いている限り、生きていると存在していると判断してしまう。

不意に思った。

思考が邪魔だって。

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