霧の中に悪魔がいる

full moon

シナモンは人を選ぶ(10)

 私達は聞いてはいけない話を耳にしてしまった。

身の毛がよだつ。

私と妻は顔を合わせると、阿吽の呼吸でその場を通り過ぎた。

私達は何も無かったかのように、座った。

「娘さんは居ましたか?」

郷珠が訊ねる。

「はい、郷珠さんの言う通り、厨房に居ました。ありがとうございます」

私は答える。

老夫婦がお手洗いから出てきた。

老父は腰に片手を添えて、腰を曲げて歩く。

足取りは一歩一歩と引きずり、異様な程に体が重そうに見える。

その老父の背に老婦は片手を添えて、支えている。

老父は体重に任せて、どんっと椅子に座った。

老婦も元の席へ戻る。

私は老夫婦を見ている。

私の脳裏に、あの老夫婦の話が再生される。

私の脳が不快な話を肯定化しようとする。

勘違いだった?

悪巧みのように聞こえたけど、実際は違う?

私の脳は様々な理由を作り、穏便に済まそうとする。

しかし、思考の着地には、老父の発言「豚だから」が存在する。

「あら、娘さん、無事で良かったわね」

老婦が妻に言う。

「あ、ありがとうございます」

妻が返す声からも警戒している事が伺える。

「あ、あの、もし出来たら、マスクをもう一枚いただけますか? 子供が汚しちゃって」

妻は恐る恐る言う。

老父は、ぎろっと、老婦の顔を見る。

老婦は、その老父の視線をちらりと見ると表情を曇らせる。

老婦は言葉を詰まらせている。

老父は老婦を顎で使う。

「ごめんなさいね。マスクが残り僅かだから、渡せないのよ」

老婦は渋々言う。

老父は我が物顔で、私の妻を見る。

老父は次の老婦の発言を待っているようだ。

「少しだけお金をいただくようにしようと思っていてね」

老婦の声が語尾に向けて、段々と小さな声になる。

老父は、にやりと笑みを浮かべて、私の妻を見る。

その発言に、田堂の母は目を丸くして驚く。

篠生も老婦を見る。

「えっと、いくらですか?」

妻は疑いの表情を浮かべて訊ねる。

「ああ、一枚三百円頂こうか」

老父はすかさず答える。

「さ、三百円?」

妻は思わず驚いて、むせ込む。

「おいおい、悪魔に感染したんじゃないだろうな。マスクを二重にして付けたほうが良くないか?」

老父は言う。

「あまりの酷い金額に驚いて、むせただけです」

妻は苛立ちの口調で答える。

「まあ、マスクはお金を取る事にしたから、皆よろしく」

老父の言葉に賛成する者は居なかった。

「でも、今回は買います。汚れたマスクをし続けるのは体に良くないから」

妻は渋々、三百円を老父に渡し、マスクを一枚貰った。

妻は娘のマスクを交換する。

娘は俯いて、「ごめんなさい」と小さく呟いた。

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