霧の中に悪魔がいる

full moon

ミコトバの乳(9)

 「距離を空ける?」

老父が訊ねる。

「そうだ。段々と咳が出るようになる。その咳でも感染する」

老婆は答える。

「だってよ、皆」

老父は客の皆に言う。

「いや、私はしない」

私は異論を唱えた。

常に妻と娘に触れられる距離で居たい。

妻と娘に何か起きた時に何も出来ないからだ。

いや、違うのかもしれない。

私が家族と近くに居たい。

家族と居れば、私は強い姿を保てるように思えた。

「あなただけが、距離を取らなかった為に誰かへ感染させたら、どう責任取るつもりなのかしら」

田堂の母が言う。

私はそれに反論する事は出来なかった。

「さあ、皆よ。距離を空けなさい」

老婆の言われるがまま、客の皆は動き出す。

私の妻と娘は、私の席の左右隣の席に居る。

娘の席の隣席には、白杖を持った郷珠が居る。

妻の席の隣席には、ギターを持った篠生が居る。

他の皆も噴水を中心に、各四人席に一人ずつ座った。

「咳で感染するなら、マスクを皆に渡したほうがいいかね」

老婦が淑やかな口調で言うと、カバンから何やら箱を取り出した。

片手で持てる位の紙の素材の箱。

その蓋を開けると、マスクが沢山入っていた。

「おお! 神はこの者を遣わしてくださった。皆よ、神の恩恵に感謝し、マスクを受け取りなさい」

老婆は一瞬、笑みを見せて言う。

「良かったな、お前、褒められるなんて今まであったか?」

老父は薄笑いの表情を浮かべながら老婦に言う。

それを見た老婦は不服そうに目を細める。

その目線は、老父と反対の方向に動かす。

そして、老婦は無言で立ち上がる。

老婦は各席に居る客の皆に、マスクを一枚ずつ配っていく。

客の皆に配り終え、老婆にもマスクを渡そうと近づく。

「近寄るな!」

老婆は開いていた分厚い本を勢い良く閉じて、剣幕で一喝する。

老婦は突然の剣幕にびくっと立ち止まる。

「マスクはそこに置け」

老婆は誰も居ない席を指差して言う。

老婦は従うまま、その席にマスクを一枚置き、元の席へ戻った。

老婆はそのマスクを受け取り、元の席に座る。

客の皆は徐にマスクを付けて、口元を隠した。

「嫌だ、嫌だ」

田堂の息子がマスクを体全身を激しく動かして拒否する。

「付けなくちゃ、駄目なのよ? 皆に迷惑がかかっちゃうんだから」

田堂の母は、何とかマスクを息子に付けようとするも上手くいかない。

マスクを無理強いすると、田堂の息子の体動の激しさを増す。

「おいおい、早いとこ、何とかしてくれないか」

老父が呆気に取られるように言う。

田堂の母は息子の両肩を両手で撫でて、なだめる。

しかし、一向に、息子の体動は収まらない。

老父は立ち上がる。

「えーっと、篠生だっけか? こちらに来てくれ」

老父はそう言いながら手招きする。

「え、あ、あ、は、はい」

篠生は言われるがままに老父の席に向かう。

その足取りは小走りだった。

篠生は老父の居る席に着いた。

「いやあ、さっきの曲、良い曲だったよ。お前さん凄いな。オリジナルの曲かい?」

老父は言う。

「あ、は、はい」

篠生は答える。

「わしはファンになったよ、お前さんの。もっと聞きたいんだけど、こんなに騒がしいとお前さんの良い曲がちゃんと聞けないから、あいつを静かにしてくれないか?」

老父は座ったまま、たたずむ篠生に言う。

「え?」

篠生の声が緊張のあまり、裏返る。

「簡単だろ? これをあいつにかければ、すぐに静かになる。ここにいる皆も望んでいる事だ。お前さんもそうだろう? 皆と同じ意見だよな?」

老父は煽り立てる。

「は、はい」

篠生は小さく何度も、うなづいて、答える。

「ならできるよな。これをすれば皆から褒められるぞ」

老父は水の入ったコップを差し出す。

「ほーら、早く」

老父は更に前へ差し出す。

篠生は恐怖に怯えていた。

目を丸くして、眉は下がり、両肩を上げて、首を縮こませている。

篠生の震える手は、そのコップを持った。

「ほーら、早く」

老父は篠生の顔を見上げて煽る。

私は目の前で起きる異常な光景に理解が追いつかない。

篠生は、関節をがちがちにこわばらせて、田堂の息子へ足を進める。

まるで、壊れかけのマリオネットのようだった。

老婆は横目で見ている。

篠生は田堂の息子の前に立った。

「ちょっと、何するつもり?」

田堂の母は鋭い表情で睨み付ける。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

篠生は田堂の息子に向かってコップを傾ける。

「駄目だ! してはいけない」

私は無意識のうちに声が出ていた。

篠生は、私の声に動作を止める。

しかし、その拍子に、水がコップから流れ、田堂の息子の顔にかかった。

田堂の息子は、驚いた表情で体動を止める。

怒りの頂点に達した田堂の母は、篠生の頬を平手打ちした。

「何て事をするの」

田堂の瞳に涙が溜まる。

篠生の瞳も平手打ちの衝撃で涙が込み上がる。

田堂の息子は、両腕を胸元に縮こませる。

何度も繰り返し、両腕を胸元に縮こませる。

その両手は握り拳で硬く、怯えた表情で田堂の母を見つめていた。

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