水晶を覗くばあさん

文戸玲

戻りたい女⑥ イタリアン

 繁華街から少し外れた路地にあるイタリアンレストランの前に着き,一つ息をつく。
 こと葉と別れてから,卓也さんと約束していた場所に着いた。
 お店の前に置かれている仰々しい観葉植物を見ていると,不意に扉が開いた。


「いらっしゃいませ。ご予約のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


 塚原で予約が入っていると思います,と告げると,整髪剤で髪を小綺麗に整えた男は「少々お待ちください」と言ってタブレットで予約の確認を始めた。


「確かに承っております。先に中でお待ちになりますか?」


 お願いします,と答えると,爽やかに席まで案内してくれた。
 気持ちの良い接客に「ありがとうございます」と笑顔で答えたものの,気分は全く晴れなかった。

 そや,あの日の私もこんな気分だったんよな。今と同じで。
 今日もなんやな,と思うのが正直な気持ちだった。というのも,出会ったばかりの頃は何よりも私のことを優先させて考えてくれていたのに,今は仕事が忙しいのもあるのだろうけど,今日も遅刻するのだろうし,実際したのだ。


「ごめん,待たせたね」


 案内してくれたスタッフが,少なくなった私のグラスに水をちょうど注いでくれているところに,卓也さんは現れた。
 「全然,私も遅刻して焦ってたところやってん。やし,ほんま絶妙なタイミングやで」


 「いらっしゃいませ。メニューをお持ちしますので少々お待ちください」


 スタッフは私に柔らかい笑顔を向けて,颯爽と去って行った。優しさを感じるとともに,自分が惨めに思えてきた。


「こうやってゆっくりご飯を食べるのも久しぶりだね」


 卓也さんが選んだコース料理を,シャンパンで乾杯して白ワインで味わった。
 私のメニュー表には値段が書いてないから分からないけど,結構な値段がするに違いない。
 あの日の私は有頂天になって食事を楽しみ,ワインをお代わりしたけれど,今日の私は違うんだ。飲みすぎないようにして,ちゃんと卓也さんと向き合わないと。
 そして,あの日は知らなかった事実も打ち明けて,話をしないと。

 そう強く誓い,器用にナイフを使う卓也さんを上目遣いで見ながらナプキンで口元を拭った。

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