水晶を覗くばあさん

文戸玲

戻りたい男17 雨上がり

 玄関のドアが閉まった音が聞こえた途端に全力疾走した。疲れを忘れて走り続けた。
 ジョギングには不釣り合いな格好で涙を流しながら走る男を,すれ違う人たちは好奇の目で見ているだろう。走っていないとこみ上げる感情に押しつぶされそうだった。でも,不快な感情にではない。おれは言った。大切なことを伝えた。体の芯から溢れてくる満足感と,心に入り込んできて隙間なく襲いかかる喪失感を同時に感じていた。今日ぐらい泣いたっていいだろう? 走りながら歯の隙間から嗚咽が漏れでた。涙は風に流れて耳を濡らした。

 どれくらい走っただろうか。見慣れない景色を見たくていつも通らない道を走る続けると,入り組んだ住宅地の一角に公園があった。吹き出る汗を拭い,息を整えながら水滴が残っているベンチに腰掛けた。

 パンツにまで水が染み込んでいるの感じながら目をこする。

何やってんだおれ。
でも,かっこ悪いかもしれないけど,悪くない生き方だろ? 

 自分に問いかけた。昔はカッコつけてばかりだった。社会人になってからは何をやっても諦めと冷めた感情が支配していた。今は心のしこりが取れた気分だ。もうきっと,くよくよしない。仕事に打ち込んで,充実感に満ちた生活を送ろう。夏海の幸せを願って終わりじゃダメだ。おれも幸せにならなきゃな。

 固く握った手のひらを開いた。水晶のストラップ。空にかざして見ると,気泡が浮いているのが見えた。お土産屋さんで見たときには気づかなかった気泡が,太陽の光を浴びて美しく反射していた。

 瞼を閉じて,強く祈った。愛する人と,自分の幸せを。

「ケリはついたかい?」

 遠いところで,聞き覚えのある声がした。

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