水晶を覗くばあさん

文戸玲

戻りたい男⑥ 水晶の中

 ばあさんに言われるがままにテーブルの前に腰掛けた。シャンデリアが飾られた天井を見上げるようにして胸をそらし,大きく息を吐いた。ささくれだった木製の椅子がギシギシときしむ。腰を据えるために座り直そうとした時,人差し指がちくりと痛んだ。裂けた木の破片が刺さり,血がにじむ。これから一体何をしようというのか。さっさと終わらせて帰ろう。

「で,どうすればいいの?」

 ちょんちょん,とばあさんはテーブルに乗った水晶を指差した。まさか,今どき詐欺師でもこんなものは使わないだろう。それっぽさを演出するためだけに置いているものだと思っていたが,本当に使うというのか。

「あんた,疑ってるね?」
「いや,水晶でしょ? しかも濁っているし。ドラマでもこんなことしないでしょ」
「水晶じゃなくたっていいんだよ。とにかく思い込むことが大事だ。あの日に戻りたい。戻ってやり残したことをやり遂げたい。そう強く思い込むんだ。心の力ってのはすごい。脳は必ず反応する」
「根性論と脳科学の融合だな。ってか,水晶関係ないの?」
「関係ない」

 それを商売道具にしている占い師が言っていいのかよ,と口には出さずに毒づいた。ただ,その言葉とは対照的にばあさんは目の前にある水晶を熱心に見つめている。まるで中の気泡を一つ一つ数えるように。

「水晶はただのお飾りね。じゃあ何に念じればいいんだ?」
「しつこい男だね。お仏壇でもあった方がいいのかい? 祈るってのは心のあり方だ。ただ念じる。目をつぶってもいいし,そうでないなら水晶を見てな。焦点が何かに合っているというのは,脳にとってはいいことなんだから」

 難しいことを考えるのはよそう。目の前の水晶をじっと見つめる。よく見るとかけている箇所があり,お世辞にも綺麗とは言えない。だいたい,しっかりしたものなら中にこんなに空気の泡があるはずがない。プールに飛び込んだ時にできる水をそのまま閉じ込めたようなガラスは,歪んだ顔をモザイクをかけたように映し出していた。

「戻りたい,そう強く願え」

 ふうっと息を吐き,目を凝らした。傷を負った人差し指は,まだかゆい。
 卒業を意識し始めた大学四年生の夏。就職活動はうまくいった。一番勤めたかったところではなかったにせよ,名前の通った大手企業に就職したいという願いは叶った。上手くいかなかったのは,いや,舞台にすら立てていない夏海とのこと。おれは,逃げてしまったあの日に戻ってやり直したい。
 固く目を閉じ,強く祈った。目の奥がじんと熱くなる。

「いっておいで。そして,かつての自分とケリをつけておいで」

 優しいばあさんの声が頭の遠くで心地よくこだました。

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