イリーガル・ガールズ

下之森茂

06-02:落ちた先に

自分の声の大きさに驚き、手で口を抑えた。

「ちょっと、唐突過ぎて。」

マオの誘いにイサムも戸惑わないわけがない。

「興味があるなら、中に入って。
 なければ、なかったことにしていいわよ。」

イサムの理解が追いつかないまま、
マオの部屋に招かれた。

部屋に誘う前に、「試す。」と言った。
その意味も分からなかった。

彼女はメリットがなければ断り、
好奇心がそれに勝れば行動するような、
時には御令嬢とは思えない突飛な言動をする。

イサムには彼女の部屋に入る理由がなかった。

マオにそんなメリットもなければ、
彼女なりの冗談だと思った。

上の階の住人によるストーカーの件もある。
イサムはまだ恐怖があった。

学校でもクラスメイトの女子の目線を恐れ、
時折り近づけなくなり、ひとり立ち尽くす。

女子たちが求める『ユージ』を演じられなくなる。
吐き気を催し、隠れて嘔吐するときもあった。

日常の中で、自分が襲われたときのことを、
どうしても思い出してしまう。

だがいまは足が前へと体を運ぶ。
イサムの足が、自然とマオの方へ向かった。

イサムは一度でもマオに対して、
『ユージ』を演じたことはなかった。

まず彼女は『ユージ』に興味がないからだ。

自分に矛盾を抱えている。

「自らをりっして自由を得るか。
 自らをあざむき、幸福を享受きょうじゅするか。」

反芻はんすうしたザクロの言葉は矛盾している。

自由なら、自分を律する必要はない。
幸福だったら、自分をあざむきはしない。

恐怖心の中にまぎれた、好奇心があった。

彼女はなにかを試している。
イサムはそれを確かめたかった。

答えのない自問自答を繰り返して、
部屋の入り口の前に立った。

真っ暗だった。

廊下の照明の光さえも吸い込まれるほどに、
暗闇が部屋の玄関から先の全てを支配している。

イサムはマオの顔を見たが、
彼女は切れ長の目をさらに細めただけで
なにも答えなかった。

からかうでも、あきれるでもない表情。

いますぐきびすを返すこともできた。
だがイサムは意を決して、
暗闇に一歩足を踏み入れた。

「だから、八種くんは変なのよ。」

瞬間、転落した。

マオの言葉と同時に、
舞台から落ちたと錯覚したように、
あるはずの床からさらに下へと落ちた。

なにか掴めるものはないか手を伸ばすが、
暗闇は自らの手さえも視認させない。

それどころか、落ちたにも関わらず、
不思議なことに風も重力も感じない。

なにも身体に触れていない。

空気も、温度も、匂いや
手足の感覚さえすべて失った。

声を上げようにも声が出ない。

目を閉じているのか、開いているのかさえ
イサムにはわからなかった。

――――――――――――――――――――

イサムは寝ていた。

『YNG』のセンターとして
芸能活動に励む傍らで学生の身分であり、
多忙な日々の中でもつくろうように
中学校に通っていた。

成長途中の小さな身体のイサムは、
溜まった疲労によって授業中に倒れてしまい、
医務室で寝ていた。

そして事件が起きた。

寝ていると、息苦しさに目を覚ます。

しかし顔面を厚い布で塞がれて、
なにも見えない。

助けを呼ぼうにも口に布がねじ込まれ、
呼吸さえもろくにできない。

溺れる気分でもがくも、身体の自由が効かず、
なんとかして鼻で浅く短い呼吸を続けた。

イサムの身体は大の字にされた状態で、
手足首を複数人に押さえつけられ縛られた。

身体をよじって脱しようとも、
腹部もベッドに押し付けられて抜け出せない。

喉でもがくイサムの耳に、
女子生徒たちのささやきと荒い息遣いが聞こえる。

イサムはクラスメイトらによって、
衣服を無理やりに脱がされ強姦ごうかんを受けた。

恐怖と下腹部の違和感に、
頭が理解を超えて狂気する。

胃液が逆流して何度も吐き出そうとしたが、
口は塞がれ鼻の穴から吹き出せば
胃酸が激痛を与えて涙腺を刺激した。

呼吸も覚束なくなっていく。

過剰なストレスの連続によって筋肉を硬直させ、
高音の耳鳴りが続き、異常な発汗で身体が冷える。

長く続いた行為が止んだ頃には、
イサムの意識を失っていた。

その後、幼なじみの少女の通報によって
イサムは救出される。

彼女の名前は磐永ばんえいチルという。

〈キュベレー〉によって救出されたイサムは、
肉体と精神が衰弱して会話もできない状態だった。

また精神的なストレスで一時的に視力を失い、
長い治療期間を必要とした。

視力がしばらく戻らず、わずかな声にも怯え、
誰ともまともに会話ができなくなった。

家族以外とは面会もできない精神状態で、
当然、芸能活動もできない。

予定していた公演は全て中止となり、
事務所はいくらかの負債を抱える大事となった。
それから両親はこの事件をきっかけに離婚した。

両親は壊れてしまった子供に、
容赦ようしゃなく見切りをつけた。

元より父親の子供ではなく、
母親の不貞ふていによって産まれた子、と
突きつけられた現実。

家族を演じる必要がなくなったと同時に、
イサムは居場所を失った。

そんなイサムに手を差し伸べたのは、
血の繋がっていない姉のハルカだった。

粗野ながらも彼女の献身的な介助のおかげで
視力は回復したが、人間不信は深刻で、
長い間ハルカとも会話ができなかった。

外出もままならない状態で、
学校にも通えない状況が続く。

イサムの将来を危惧きぐしたハルカは、
彼に勉強を教えて高校に通わせることを決意する。

イサムにとって勉強は得意ではなかったが、
苦手意識もなかった。

勉強よりも付きっきりになる、
無機質な教育用〈キュベレー〉が苦手だった。

勉強は何日も繰り返し、
試験を合格して高校に入学した。

イサムは晴れて高校生となり、
軽度な症状の再発や、生活費など
多少の問題はあったものの社会復帰を果たした。

通学路に立つ海神宮わたつみのみや真央まおを見た。
彼女の柔らかそうな唇が動く。

それから思い浮かんだふたつの言葉。

――――――――――――――――――――

額をなにかに小突かれ、イサムは目を開けた。
目の前に鼻を近づけるマオの顔が迫った。

「わっ! って。」

寝ていたイサムはマオの顔に驚いて、
横に飛び跳ねて床に落ちた。

腰ほどの高さのベッド。
見上げた天井には夜空の星々の中に浮かぶ
プラネタリウムに見える。

プラネタリウムの中心には穴のような黒い円。

円は輪郭がうっすらと浮かぶ球体だった。
その奥には白い紐か、帯が見えた。

変な天井だった。

目を覚ましたイサムは身体を起こして、
壁さえも真っ白な部屋を見回す。

部屋の隅に立っていたのは、
マオの連れていた〈キュベレー〉だった。

黒髪のウィッグに真っ白な顔と黒色の目、
額には第3の目サーディが存在する。

椅子に腰掛けたマオと目が合う。

「どうしたの? 記憶はちゃんとある?」

「…わからない。」

なぜここに寝ていたのかさえわからない。

イサムは発した声に違和感を覚えて、
自分の喉に手をあてる。

「はい。これ。」

マオは水の入った透明なボトルを投げ渡した。

ボトルは自然落下とは異なり、
ボールのように重力を感じさせない。

さらに回転するボトルと
内部の不安定な水で重心が変わり、
上へ下へと不規則な動きで飛んでくる。

それでもイサムは軌道を読んで見事に掴んだ。
イサムを見てマオは確信したようにうなずいた。

燃えるような真っ赤な髪に、
身体のラインが出た白色の服を着ているマオ。

マンションで見たオレンジ色の
スポーツウェアではなかった。

〈キュベレー〉もマオと似た服で、
普段のメイド服は着ていない。

ふたりの姿を見てから、
イサムは自分の状態を確認する。

イサムは青緑色をした
見慣れないゆったりとした服を着ていた。

記憶を辿たどればマオの部屋に入る直前までは、
砂埃にまみれたジャージ姿だった。

意識を失っている間にまた脱がされたのかと、
動物園での出来事を思い返す。苦い思い出。

「僕は…なにが、どうしたんですか?」

天井がプラネタリウムになっていて、
床も壁もやわらかな光に包まれているこの部屋は、
同じマンションの同じ階の隣室であっても
明らかに異なる奇妙な空間だった。

「アレ、なにか見える?」

マオは右腕を上に伸ばして天井に指をさす。

その先にあるものは天井で、
プラネタリウムの光のはずだった。

黒色の球体の表面には、
小さな針のような構造物がいくつも建っている。

大きな黒色の針がびっしりと刺さった地表。

その針の隙間を、いくつもの〈キュベレー〉が
抜き取った針を担いで移動している。

天井を超えた先の宇宙空間が、
イサムにははっきりと見えた。

「なんで?」

すぐにマオの顔を見て、
もう一度天井を、その球体を見上げた。

天井の球体は高精細な映像でも、
それが勝手に拡大されたわけでもなかった。

この部屋から球体の表面までの距離は、
ゆうに数百kmキロメートルはある。

それがいま、イサムの眼でも
はっきりと見える。

「なんで見えるんですか?
 あんなに遠くの…。」

「目がよくなったでしょ?」

「そんな程度の話じゃ…。
 ここ、なんなんですか?」

「少なくともここはマンションじゃないわね。
 〈光条スターリング〉と呼ばれる場所よ。
 あそこにある天体が、
 あなた達の住む名府、名桜めいおう市。」

「まるで…状況が飲み込めないんですが。」

「つまり、あれが〈NYS〉。
 〈人類崩壊〉後の、いまのヒトの姿。」

「え…と…。」

マオの顔を見るに冗談を言っている様子はない。

「ヒトの記憶・意識を〈カルマン〉って呼ばれる
 機械人形に移したのが〈ALM〉という企業。
 過酷な環境に適応できなかった人類を、
 〈NYS〉として製造したのがこの〈光条リング〉。
 〈NYS〉は絶滅したヒトの複製レプリカなの。」

「それも冗談…。」

発した言葉がさえぎられたような、
考えに妙な違和感が生じて眉間にシワを寄せた。

「冗談を言うメリットがないわ。
 八種くんもその目で見たでしょ。」

見た。

球体に植えられた黒色の針を、
イサムはこの目ではっきりと見た。

「あの針の中身が〈NYS 〉。
 いまのヒトを構成する〈受容体レセプター〉。
 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、それから触覚。
 あの天体、名府に接続された〈受容体〉は、
 仮想の街で、光、音、匂い、味、手触りを得る。
 器官や細胞を情報として接続し感覚を与える。
 それから〈受容体〉で培養されたヒト同士が、
 生殖細胞を与えて新たなヒトを作る。」

「人って…!」

イサムは再度、天井を見上げる。

マオの呼んでいた「ヒト」は、
イサムの知る「人」ではなかった。

口が開いて見上げていると
身体がひっくり返りそうになり、
ベッドに力なく腰を落とす。

目の前には夜空に浮かぶ球体と、
そこに植わった無数の針のみ。

淡々と喋るマオの声が部屋に響いた。

「あれがいまの人類。」

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