オーストラリア!自由気ままにぐるっとバイク旅

ノベルバユーザー526355

第58話:心の転機

12月7日 くもり 723キロ
→caiguna→madura→eucla→nullabor(c.p.)
砂漠の昼間イコール灼熱地獄。全く大きな誤解だった。なんと、このナラボー砂漠では寒さとの戦いだ。ひたすら寒さを耐え忍ぶ。痛感したが、熱さは肉体的に疲労させるの対し、寒さは精神的に意気消沈させ、寒さは暑さよりも予想以上に堪える。ナラボー砂漠の横断道はオーストラリア全土地図を見ても、ほとんど曲がることないストレートな道で、まして実際となれば、砂漠のど真ん中に分かれ道など全くなく、アップダウンもない光当てたような地平線彼方の空に突き刺す道だった。今までもまっすぐに伸びる道はいくつもあったが、ここは別格だった。有り得ない話だが、仮に日本に同じストレートの道を作ろうとしても、本州自体が曲がっているので、不可能かもしれない。文字通り、スケールが違いすぎる。その大地を左右に2分する一本道にあるのは、ただひとつ、四六時中吹きずさむヒョウヒョウたる風だけだった。風のひとり舞台、唯一抵抗となる邪魔な存在は僕のみ。意図的な企みか、僕の体に染み入る風が、じんわりと体温を奪ってゆく。殺風景、よくできた言葉だ。こうなると、お決まりの思考パターンが始まる。『僕はこんなとこで何やってんだろう』、繰り返される自問自答。
ナラボー砂漠の丁度中間地点で州境を迎える。長かった西オーストラリアともこれでおさらば。思い起こすと、やはり西にはこれと言ったレジャー施設もなければ、馬鹿デカい州にもかかわらずさほど他人が聞いておもしろそうな出来事など起こらなかった。それが実感。でも、この州なくして自分のオーストラリアの旅は成り立たないとも言い切れる。鏡に映った自分の顔姿をあまり見なかったし、見ようとも思わなかった。それは、幾ヵ所の町を除けば、ほぼ他人を気にすることもなければ、気にされることもなかったからだ。人が鏡で自分を見るのは、他人の目に自分がどう映っているかが気になるからで、本当は自分自身を覗く行為とは全く別ものだ。この西オーストラリアは、僕のとって僕自身を映し出す鏡となった。西オーストラリアで楽しかった一番の思い出は、何より自分の心を覗けたこと。自分自身との対話を通し、自分を素直に感じることができたな。
宿無し旅ももう手馴れてものだ。旅は、凧揚げ(タコあげ)と感覚と似ていた。旅の最初の頃は、まるで凧の糸を恐る恐る空に延ばし、凧が落ちそうになれば、走ってみたり、手を右に左に操って誤魔化しながら、なんとか落さずに耐え忍ぶような感じ。少し慣れてきる頃には、大空にスルスル糸を繰り出し、高く高く舞い上げてご満悦。すると突然、強風に煽られ、糸が切れ、凧は全く糸無く空をヒラヒラ舞うだけ。それまでの旅は、凧を見上げる揚げ手であったが、意図を無くした瞬間から、意識は凧の方に移り、どうするすべもないままに風に任せて地上を空から見下ろすしかない。その内に風が読めるようになってくると、自ら糸がなくとも凧を操れるようになる。そうなれば、旅は見せる旅でなく、自分を楽しむ自分のものとなる。
州境を越えることは、自分の心の転機となったような気がする。何が変わったというわけではない。ただ、今までの人生でデタラメに積み上げてきた積み木を、一度バラバラにしてしまった感じだ。人生双六の振り出しに戻ったような、それは出遅れてしまったというよりは、やっとスタート地点に立てたようなイメージ。これから、もっと高く積めるように数を増やしながら土台を積みなおしていけばよい。そんな転機のような気がした。

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