オーストラリア!自由気ままにぐるっとバイク旅

ノベルバユーザー526355

第16話:自分発見の旅

11月13日 晴 670km
→Camooweal→no petrol 260km→Barkly H.S. roadhouse→Threeways→Tennent Creek(YH)
大陸は、こんなに大きいものなのか。島国でない大陸を実感するこの頃。ひとつの変わらぬ風景、ひたすら続く赤い大地、当初抱いていた見知らぬものへのロマン、どれもこれも過酷な旅の現実がふっ飛ばしてしまう。あるのは、怒り、諦め、不安、喜び、哀しみ、感心、惰性、…。自分でも呆れてしまうほど、後ろ向きな感情が湧き出てくる。ロマンとは、果たしてこういうことなのか。とにかく実際の自然というものは、ブラウン管を通して見るそれとは全く違っていた。それほど辛くても、やめようとは思わないし、やめられない。ロマンとはそんなものなのか。
『参った。認めよう。だから勘弁してくれ』といいたくなるくらい、オーストラリアの大地は広いよ。平野を突っ切るまっすぐな道。曲がり角どころか、道自体、曲がっているのがどうかわからない。視界を遮るものは全くないし、だから信号なんて必要ない。どれほどだだっ広いか。朝出発、バイクで道路に入るとき、日本でクセなのか、誰が見ているでもないのにウィンカー(方向指示器)を付ける。そのまま消し忘れてしまうと、次に止まるガソリンステーションまで点滅しっぱなしとなる。時速100キロとは、ここではスピードを示す単位ではない。時速100キロまでスピードをいったん上げるとそのまま、きちんと1時間後には100キロ先に行けますよということになる。走っていても、周りに比較対象するものがなにもないためか、実際は時速120キロであっても、体感速度はその半分の時速60キロぐらいでぜんぜんスピードに対する恐怖心も沸かない。右手はアクセルを握り、方向も変えないので左手は必要無しなので片手運転、空いた左手で膝にアゴを支えた。怠惰極まりない。そうしていると知らぬ間にスピードも上がり、向かい風もさすがに強く感じ、メーターは時速150キロを示していた。それでもなお事故るかもという恐怖心はない。それよりもこのスピードになると、前傾姿勢の胸元から腹へ吹き込む風が体を持ち上げようとして、まるで風にまたがり飛んでいるかのような錯覚が起こり、決してありえない快感を実感できた。
また途中、260キロの無給油区間もあった。もちろん、その間人家もなければ、ひとっこ一人いない。約3時間、ひたすら走りつづける。それしかないから。日本では長くとも数十キロ走れば、必ずガソリンスタンドがあり、故障してもなんの問題もない。でも、ここオーストラリア、アウトバック1丁目では、わけが違っていた。ぶっ飛ばす胸いっぱいの爽快感と、ヒョイと脳裏を過ぎる故障・ガス欠の恐怖(不安でなく恐怖だった)が隣り合わせにある。実に、「生」を感じさせてくれる瞬間であった。こう思うと、退屈な大地も、見方を代えれば、男に磨きをかける絶好の場なのかもしれない。
今この赤い大海原での話し相手は、専ら自分自身であった。日本での生活では味わうことのなかった『自分だけしかいない時間』が、突如氾濫した。自分との対話と通して、自分の意地・見栄・取るに足りないほどのプライドの先に、曲がりなりにも自分なりの哲学があることも知った。大地は考えることを沈黙をもって教えてくれる。今までの日本での生活、それは本当に自分のモノだったであろうか。これまで気づかなかったが、いかに周りに振り回されていたことだろうか。『自分発見の旅』。この旅の目的が、輪郭を帯び始めていた。
時速100キロ以上の世界の中で、またもや理屈をこねくりまわしていると、いつやらか赤茶けた大地の彼方に野生のエミュー(小型カンガルー)が突立っているのを見つける。彼の視線、強いオーラを感じたのだ。動きもしない。それでも強靭な生命エネルギーを感じずにはいられなかった。自分が実感してやまない過酷な自然環境を乗りきる力を、そいつは身に付けていた。その勇士は、今の自分が最も望むたくましさのシンボルとして大地に仁王立ち、僕のピーピー御託を並べるヒヨコのような肝っ玉を圧倒した。

「オーストラリア!自由気ままにぐるっとバイク旅」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「エッセイ」の人気作品

コメント

コメントを書く