廃棄場で踊る

ヒコバエ

第1話「暗い世界と黒い私」

 暗い。光の乏しさによるそれではない。暗順応がいつまでも起こらないところを考えると、この世界には光がないのだろうか。眼前の漆黒は揺るぎを知らないままだ。自分の身体すら認知できない。あまりに何も見えないものだから、自分は実体を持たない所謂魂のようなものなのではないか、という錯覚すら起こしかけた。だが私の肉体は確かに存在する。腕も足もある。脳から信号を送ると、腕の関節は曲がるし、膝も伸びる。身体の感覚から察するに、足は私の胴体より前にあるようで、踵が何か(見えないだけで地面と推定されるが)に当たっているので、座った体勢を取っていることは確かだ。
 何やら遠くで、微かにピアノの鍵盤を一つ叩いたような音が聞こえた気がする。慌てて聴覚に集中を注ぐ。だがその音の続きはなかった。だが時折何かが落ちたような音が幻聴かと錯覚するほどささやかに鳴った。また一瞬のことではあったが、自分の前方の遥か彼方に一瞬光が生まれたように見えた。それはあまりに遠方であるためか、夜空に浮かぶ唯一の一等星のように見えた。あれも幻覚でないと胸を張る根拠はあまりない。
 しかしこれほどまでに何もなく、自分の姿すら目視できない常闇に、一瞬といえども突如として白い点が現れれば、それを光であると妄信するしかないだろう。その一瞬の光がもう一度現れることはなかった。この世界がどんなものなのかまだ私にはさっぱり分からない。
 だがこの世界には何かがある。その何かが私にとってプラスであるかは分からない。案外このまま何も見えない現状に閉じこもっている方が幸せかもしれない。謎の音や光の再来を望むことは、今のこの平常を悪化させ、困難に巻き込まれることになるかもしれない。
 しかし私は、そうなっても構わないから、どうにか現状を何かが打破してほしいと願っている。それは好奇心などという勇敢で前向きな感情によるものではなく、この何も見えず、何にも頼れない現在への恐怖であり逃避欲求であった。変化とは本来恐れ躊躇うもののようイメージで、私も特段変化することは好きではないのだが、今はその変化を何よりも望んでいる。今この瞬間この空間全体がスポットライトで照らされ、何者かが私にドッキリのネタばらしにでも来ないものかと無駄な期待を寄せてしまう。
 いつまで経っても何も見えないので、ひとまず体を動かして、自分が何たるかを探ってみる。まずは右手で左腕を撫でてみる。肌ざわりはマイクロファイバーのモップのような感触で、気持ちよさを覚え何度も繰り返し撫でた。やがて我に返り、次は左手の甲を撫で、その感触が左腕と同様であることを確認した。また同じような動きを右腕全体にも試したが、その結果にも変化はなく、私の両腕が毛むくじゃらであることがわかった。
 初めは掌が毛で覆われているが為に、どこに触れても同じ感触なのかとも思ったが、試しに恐らく地面と思われる位置に掌を下ろしてみると、そこに伝わる感覚は先ほどまでの気持ちよさとは違い、冷たく味気なかった。これで確かに私の両腕に大ぶりの体毛があることがわかると同時に、私の掌にはその体毛がないことも予想できた。
 次いで私は両掌を頭頂部辺りに当ててみた。感触はまたも左腕と同様であった。そこから横や後ろに手を動かしても、感触は変化しなかった。自分の前方へ手をスライドさせた際には、反射的に瞼らしきものが閉じる感覚が身体に伝わっては来たが、手触りは相変わらずだ。なおも手のスライドを続けると、僅かに毛がなく乾いたような感触に触れた。おそらく口だろう。周りの体毛のあまりの存在感を考えると、色味にもよるだろうが、口を動かさなければきっと、私を初めて見た人は私に口があるとは気が付かないであろう。それほどに主張のない口がついていた。

 上半身の凡その状態把握が終わり、次は下半身に取り掛かろうかという時、私の視界の斜め右に光が灯った。それはこの世界には不自然なほどに煌々と輝いている。
 その光の存在に気が付いた私は、下半身の調査のことなどすっかり忘れて、藁にもすがるような思いでそこへ駆け込んだ。先ほどまで座り込んでいたこともあり、身体が思うように動かず、前方に倒れこみながらその光の下へ行き着いた。
 両手を地面につき、視界はその両手と地面に向けられている。そして初めて自分の身体の一部を見た。私は恐ろしい気分になった。私の両手は真っ黒な毛におおわれていた。体毛の隙間から見える素肌も黒かった。その黒は青色の混じった藍色などとは違い、純度百パーセントの黒であった。常闇から逃げてきたというのに、そもそも自分が闇を纏っていたのかと素直に驚いた。ここに行き着くまで自分の姿を目視できなかったのも頷ける。
 見えない光源に照らされたその場所には何もなかった。何のオブジェクトもない。地面には模様一つもない。なんとも無機質だ。救いを求めて駆け込んだが、別に何かが変わったわけではなかった。
 ところが、光というのは偉大なものだ。光は私の心にゆとりを与えた。先刻までの取り乱していた心はすっかり落ち着きを取り戻し、現状を整理し始めた。最初は自分の身体についてだ。
 まずは両腕を交互に目の前に掲げ、少し捻ったりしながら、改めて自分の色味や体毛の様子を確認する。体毛の感じは暗闇で触って推測した通りの感じであった。
 そして次に、結局何の確認もしていなかった下半身に目をやり、下半身も上半身と同様の有様であることを知った。体中を触っていて感じたのは、私にはどうやら頭と胴体の境目がないらしいということだ。自分の姿を別視点で見ることができないので確信的ではないが、大体私の目と両腕の肩関節が同じ高さに横一列で並んでいる。両目の間から少し下った辺りに、鼻の穴らしいものが二つ付いている。またその少し下には乾燥気味の唇らしきものがあり、そこから下は胴体と下半身になっている。
 加えて、さっきは気が付いていなかったが、私の頭部には耳らしき出っ張りが二つ付いていた。丸みを持っており、高さは低い。その耳自体は素肌でごわごわした体毛が生えているわけではないが、耳の高さは周囲の体毛よりも低いためおそらく外見的に耳を見つけることは困難であろう。
 自分の背丈については、指標となるものが何もないため、地面との高さからのあまりに雑な推定しか出せないが、せいぜい一三〇センチメートル位の高さしかないだろう。
 ともあれ私自身がいかなる見た目であるかはなんとなく理解できた。自分の身体を初めて見たときは少し狼狽し否定的に見てしまったが、こうして落ち着いてみると、自分の身体の黒色が格好良く見えてきた。
 改めて右腕を前方に掲げ眺める。少し自分が誇らしく思え、心が明るくなった気がする。自分でも調子のいい奴だなと少々呆れる気持ちになり、苦笑が浮かぶ。結局捉え方次第だし、その捉え方というのも自分が決める勝手でいい加減なものだ。

 少々の自己陶酔に陥っていたその時、私の目の前に立体の文字が飛び出てきた。見た目は純白で、立体の角のつなぎ目が見当たらない。素材は私の知識の乏しさのせいか一見だけで断定はできないが、アルミかなにかだろうか。
 文字は一文字ずつが離れており、それぞれが空中に浮いたままピタリと止まっている。文字を吊るしているワイヤーの様なものは目につかない。またそれを浮かすための装置が作動しているようにも見えない。原理が不明だ。この文字たちのところだけ重力法則が乱れているのだろうか。だがそうだとしてもそれらがくぎを打ち付けられ固定されているかの如く微動だにしないことの説明にはならない。
 またその文字には一切の影がない。まるでディスプレイに表示されたテキストメッセージを立体で眺めているような気分だ。よく自分の周りを見渡すと、私の影も存在していなかった。
 この光はどこから照射されているのだろうか。何か特殊な技術でも使われているのか分からないがこの世界には影が生まれないらしい。じゃあ周りの暗闇はなんなのだろうか。
これ以上考えると難しい話になりそうだ。あまり深く考えない方がいいのかもしれない。この世界は分からないことが多すぎるのだから、今更自分の影が現れない位で足踏みするわけにはいかない。前に進むためにも、ひとまずここは突如出現したこの文字を読むことにしよう。眼前には次の言葉次の通りだった。
 「手すりのない橋を渡る。生まれる飛び降りるとどうなるのかという疑問。結局何もしない。これは理性か臆病か。」
 果たしてこれは何を意味するのだろうか。この世界の神なる存在からのお告げか何かだろうか。いや、流石にそんなことはないだろう。神が私にこの内容を伝える意味がない。
 これは告示というよりはポエムや作詞に近い気がする。尤も質は随分と低いが。誰でも思いつきそうな発想とワードセンスのせいもあり、特別食指は動かなかった。
 結局この文章は誰が考えたのだろうか。そもそも改めてだが、この文字たちはだれがどのようにして出現させたのだろうか。
 何の気なしに私は右手で眼前に浮かぶ文字の一つに触れた。するとその時、パンッという音とともに、私の頭上の少し前あたり、私が文字へ向けている目線の上方部に赤い光のようなものが現れた。何事かと思い目線をそちらに向けると、真っ赤で僅かに発光したようなデザインで、「データの取り込みが完了しました」という無味乾燥な淡々としたテキストメッセージが表示されていた。
 この世界にはこれまでなかった不似合いな色味のメッセージに、一瞬たじろいだ。そこに浮かぶ言葉は、先のポエムとは違い、私に向けられたものに思える。いや正確に述べるなら、このメッセージは私というよりはこの世界に向けられたものに見える。
 このメッセージは私が目の前の立体文字オブジェに触れるのに連動したかのように表示された。であればこのオブジェか或いはこの世界には、特別なシステムが構築されており、あのシステムログが表示されるようプログラムが組まれているのだろうか。
 この世界への疑問は増える一方だ。このメッセージは何を伝えているのだろうか。データ?この目の前のポエムのことを指しているのか。取り込みが完了したとはなんだ。仮にこのポエムがデータであるにしても、取り込み?この世界に出現した時点で取り込まれてはいるのではないか。今すぐにこれら全てに答えを出すのは難しそうだ。
 目線を改めてポエムの方に向け直した。テキストメッセージの謎は一先ず諦め、まずはこの世界が何たるかについて考えることにしよう。そのために意識をその思考に集中させる。ポエムへ目線こそ向けてはいるが、意識はそこにはない。はたから見ると、世にいう心ここにあらずというやつであろうか。口はきっと半開きだっただろう。
 しばらくの間思案していると、この世界について一つのそれっぽい答えが浮かんできた。
 その時今度は目線の斜め左の辺りに光が灯った。

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