緑(りう)の一族

黒澤伊織

第二部 第八章 そして明日(あす)に残るもの

 東の空が白み始め、夜がもうすぐ明けようとしている。
 空に清かに宿っていた細い月は、だんだんにその姿を薄れさせ、もうじきネア・クゼイの地を明るく暖かい太陽が照らし出すだろう。
 北の海は静かだった。
 いや、海、というより、ただ真っ白な氷が沖合まで続いていくその風景の中に音はなく、ときおり裂けた山の向こうから吹く風が、浜辺の黒い燃えかすを遠くへさらって、さらさらと微かな音を立てるのみであった。
 きっと、その浜辺に何があったとしても、消えぬ炎が燃やし尽くし、後には何も残らなかったのだろう。
 ただ倒れた大樹の枝だろうか、巨大な丸太の様な炭が、氷の張った海の上を埋め尽くしていて、もし誰かがこの岸に船を着けようとしたとしても、それらに阻まれて岸へ上がることは不可能であったに違いない。
 この海を覆う、それらの黒い残骸は、あの呪いの大樹がどんなに巨大なものであったか、皆に知らしめるものであった。
 けれど、その大樹も、今はもうない。
 天に伸び、空を覆いかくしていた呪いの大樹のあった場所は、まるで初めから何もなかったかのように、まっさらな、一面の焦土と化していた。
 そこにあったすべてを燃やしつくした炎は、ひと月近く経った今でも、ところどころで煙が上がり、まだくすぶり続けている。
 きっとこの風景を初めて見た者には、ここに大樹があり、そしてその根元には、大樹を慕うように森が広がっていたことなど、想像もつかないであろう。
 また、ここに大樹がそびえていたことを知っている者さえも、焼け跡の中心にある、小高い炭の山を見れば、これがあの大樹かと驚くに違いない。
 かつての日陰の地に、今まさに夜が明け、太陽の光が射し、焼け跡をはっきりと照らしだす。
 そこへ、丘の向こうから、軽やかに馬を駆けさせる、数名の騎馬武者の姿が見えた。
 高貴な者の朝駆けといったところか、先頭の白く、長い飾り毛の美しい馬には、幼いながら凛々しい若武者の雰囲気をまとった少年が跨っているのが見える。
 その少年は真っ直ぐに、まだくすぶり続ける焼け跡に向かい、冬の風の中を颯爽と駆けて来る。
 そして、かつての森の端まで来ると、少年は片手をさっと挙げ、その合図に後ろについた騎馬たちは足並みをそろえて静止した。
 少年が後ろを振り向き、白い息で何事か言うと、少年の後ろについた供の者たちは、馬から降り、それぞれの馬を少し休ませるように引き綱を引いた。
 その様子を見てから、少年は焼け跡の中心にある、かつて大樹があった場所まで一人で迷うことなく、足を進めていった。
 そして、自分の背丈ほどもありそうな炭の小山まで辿り着くと、少年は感慨深げに空を仰ぎ、それから、小さく目を瞑った。
 しんとした焼け跡に、澄んだ空から、森の住処をなくした鳥のさえずりが聞こえてくる。
 それらは新しい住みかを見つけてなお、元の森が恋しいのだろうか。
 少年の上の、遥か高い空で悲しげな声を響かせては、くるくると輪を描くように同じ空を飛び続けているようだ。
 しかし、その周りのどんな音も、少年には聞こえていないようだった。
 きっと、彼は祈っているのだろう。
 目を閉じた少年の表情からは、何の感情も読みとれない。
 けれど、その佇まいはどこか悲しく、寂しく、しかし、はっきりとした意志を持って、その場所にしっかりと立っているようであった。
 しばらくそうしてから、少年は目を開いた。そして、一つ白い息を吐くと、何かを慈しむように、小高い炭の山にそっと手を触れた。
 少年の手に触れた炭の山は、その部分からさらさらと崩れていき、そして、その下に大切に隠されたものを露呈させる。
 それは大きな種のようだった。
 少年は驚いて、一旦手を引っ込めてから、またその種に手をに触れる。
 すると、少年に触れられた種は、するすると花が咲くように開き、中からは薄衣をその身にまとった、紛れもない、人間の少女が現れた。
 そして種が完全に開くと、その中で眠っていたような少女は、ゆっくりとまぶたを開いて少年を見た。
 その少女の眼差しに、少年も目を見開いたまま、息を飲んで少女を見つめ返す。
 初めに声を出したのは、少年だった。
「君は…?」
「私…」
 少女が人とは思えぬ、透き通るような細い声で言った。
「あなたのこと、知っているような気がする」
「うん…」
 少年も少女から目を逸らさずにうなづいた。
「僕も、そんな気がする」
「これを…」
 少女は足をふらつかせながら立ち上がると、手にしっかりと握っていた石のついたペンダントを、少年の首にかけた。
「あなたに渡してくれって、頼まれたの」
「そうか。ありがとう」
 少女はまだぼんやりとした瞳で、辺りを見渡した。その生まれたての赤子のように湿った少女の肌を、冬の風がすぐに乾かしていく。
「気をつけて、まだ炭が残っているから…」
 地面に降り立った少女の裸足の足を気遣うように、少年が少女の小さな手を取った。
 いつのまにか美しい朝焼けが、二人の上の空をゆっくりと染めるように、その色を徐々に変えてゆく。
 向かいあって少女の手を握ったまま、少年は口を開いた。
「僕の名は、アスラン。アナトリア王国の王だ。…君の名は?」
「私の名前? そうね…」
 少女は首をかしげて、悲しそうに微笑んだ。
「…空の、その先に神様はいなかったのよ」
「神様?」
 少女の唐突な言葉に、少年は眉をひそめる。しかし、少女はその意味が分からなくてもいいというように、もう一度その言葉を繰り返した。
「神様はいなかったの。だから…」
「だから?」
 少女は深い眼差しで考えこむようにしてから、一つ一つの言葉の意味を確かめるようにたどたどしく言った。
「…だから、私も誰かに頼るのではなく、自分の足で歩きたいと思ったの。だから、私の名は与えられるものではなく、あなたとともに歩むうちに、考えていきたいと思ったのよ」
「うん」
 アスランと名乗った少年は、うなづいた。
「…わかった、君が決めたのなら、それでいいよ」
「ありがとう」
 二人はしばらく互いの気持ちを確かめあうように見つめ合った。
 それから二人はどちらともなく微笑むと、その小さな手をつないだまま、もと来たほうへ、白い馬の待つ方向へとゆっくり歩いていく。
 一歩一歩、誰に促されることもなく、ほかならぬ自分の意志で、しっかりと前を見つめて歩く二人の姿は、その先の未来を自分の手でつかみ取る覚悟に満ち溢れている。その小さいけれど確かな足取りは、確実に二人を前へ前へと進めてくれるだろう。
 焼け跡から歩き出した二人の先で待つ、美しい飾り毛をなびかせた白い馬が主を待ちわびて小さく鼻を鳴らす。その馬に飾られた、空のような濃い青に金色の三日月の描かれた小さな旗が、始まりを祝福するように風にはためいた。


                                    —— 了 ——

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