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緑(りう)の一族

黒澤伊織

第二部 第四章 誰(た)がための地

「…騎馬隊、止まれ」
 馬上のラケルが、指先まで揃えた手をさっと挙げると、後続の騎馬大隊はぴたりとその動きを止めて次の命令を待った。
「…………」
 尾根を吹き抜けて行く風が心地よい。
 山道を登り切った、ネア・クゼイを眼下に一望できる山頂で、ラケルはじっと目の前の風景を見下ろした。
 野菜が終わったあとの畑には、もう秋に播いた麦の芽がちんまりと伸びていて、その青い色は冬間近の寂しげな風景に、ささやかながら彩りを与えている。
 これだけ麦が出来るのなら、食糧には困らぬだろう。あの巨大な大樹の陰にあっても、作物が豊かだというのはまことのようだな。
 戦の喧騒から遠く離れた、静かな田舎の日常の風景を、ラケルはしばし、張りつめた気持ちを癒すように眺めた。
 アユディスの宮殿からこのネア・クゼイの関所まで、ラケルとその騎馬大隊は昼も夜もなく、最低限の休憩のみで過酷な砂漠を駆け抜けてきた。
 そのおかげでもう老将と呼ばれるわが身はもちろん、兵も馬も、もうくたくただ。せめてアスラン王子の無事を確認したならば、皆をゆっくりと休ませてやりたい。
 しかし、それも一時の休みでしかないが…。
 ラケルは後ろの小隊一つについてくるよう合図をすると、関所の近くに馬を進めた。
 強大であるはずのアナトリアは、東の小国ハルハとの戦いにてこずり、両者の戦は混乱を極めていた。
 予期せず、大国のアナトリアのほうが押されている、その理由の一つを、ラケルは苦々しくもどうしようもないこととして心に受けとめていた。
 それはきっと今までのどんな強大な支配者にさえ訪れた、この世に栄える者の定めのような理由だった。
 つまり、アナトリア王国は広大になりすぎたのだ。
 獅子が兎を喰らうように、強い国は弱い国を平らげ、財産を得、人材を得、さらに強い国となる。
 国土はどんどんと広がり、兵は増え、人々は豊かになっていく。広くなった国土を、すべてに目が届かなくなった王は国土を分割し、その土地を領主に治めさせることになる。
 そして国土がもっと広がり、分割した土地の領主が増えれば増えるほど、国は国としてのまとまりが欠けてしまうのだ。
 そして、今回のように領主が王から離反するようなことになれば、国はまとまるどころの話ではない。
 ハルハに寝返った領主たちが、アスラン大王を悪し様に言うのを聞いたラケルは、憤怒に駆られていた。
 その裏切り者の領主たちがついた、ハルハという国は、歴史の長い国ではない。
 王国の東、クルト山脈を越えてさらに東の土地は、たくさんの勢力が乱立し、長らく国と呼べるようなまとまりは無きに等しい土地であった。
 しかし、その長い膠着状態を脱し、次々に他の勢力を平らげた男がいた。
 それが、ハルハの龍王だ。
 まるで天の龍が味方についたように、瞬く間に戦乱を平定したハルハは、国を作り上げた勢いをそのままに、アナトリアの東に攻め込んできた。
 しかし、ハルハの恐ろしさはその兵ではないだろう。
 そうラケルは睨んでいた。
 いくら強い王に強い兵がついたとしても、あのハルハを平定するほどの力は持たなかっただろう。ハルハの龍王という男、あの男は何か奇天烈な策、軍略に優れた者を擁しているに違いない。
 しかし、その軍略に長けた龍王に対して、アスラン大王はどちらかというと細かい策を好まず、力で押す武力の王だった。
 この二人の王が戦うと、どうなるか。
 戦場での長年の経験から、ラケルはアスラン大王と龍王の相性の悪さうっすらと感じ取っていた。
 何かおかしなことが起こらねばいいが…。
 アユディスに留まっていたラケルの騎馬大隊に、遠征先のアスラン大王よりネア・クゼイへ行けとの命令を聞いた時から、ラケルは何か嫌な予感がするのが抑えられなかった。
「この関を通れば、あとは山道を下るだけですね」
 ラケルの横に馬を並べた副長がほっとしたように言う。
「町も静かですし…」
「ラケル隊長!」
 突然後ろから呼び止められて、ラケルは素早く馬を返した。
 しかし、警戒するに及ばず、たった今山道を駆けあがってきたばかりのラケルを追うように、アナトリアの旗を靡かせた伝令兵が馬でこちらに駆けて来る。
 戦中において、いかなるときも戦況を逐一報告する役目の伝令兵は、とても重要なものだった。
「何だ?」
 いつも報告を受ける時の気軽さで、ラケルは馬上から伝令兵を見下ろした。
「はっ」
 伝令兵は馬から飛び降りるようにして、地面に片膝をつく。
「申し上げます!」
 目深にかぶった帽子を取り、初めて伝令兵は顔を上げる。
 その顔に浮かんだ悲痛な表情に、ラケルを含め、その周りの者たちは皆、瞬時に事態を悟り、天に祈るように目を閉じた。
「ハルハとの戦いにおいて…」
 伝令兵の口が動き、そこにいる誰しもが決して聞きたくなかった言葉を伝える。
 その言葉に、周囲のすべての音は吸い込まれたように聞えなくなり、ラケルの心臓はまるで短剣に刺されたかのような痛みを覚えた。
「…ご苦労だった」
 伝令兵の報告が終わり、その顔が伏せられると、ラケルはやっと一言、そう言った。
「隊長、我々は…」
 他の皆と同じに、悲憤に顔をこわばらせた副長の顔が、かすれた声を出す。
「我々は、この先、どうすれば…」
「どうすればも何もあるか」
 ラケルはかっと目を見開いて副長を一喝すると、今一度確かめるように辺りを見渡した。
 四方は高い山に囲まれ、ネア・クゼイに入る道と言えば、この馬車道一本きり。
 西の海は断崖絶壁、そして唯一港ができるような北の海は、最近でこそ真夏には氷も溶けると聞くが、今は晩秋、厚い氷が海一面に張っていることだろう。
 百歩譲って、もしもそこへ船をつけることができたとする。
 しかし、船を着けたとしても、今度は北の山々でも切り崩さぬ限り、この馬車道まで回ってくるしかないだろう。
 守りにはうってつけの、攻めにくい土地だ。しかし…。
 ラケルは気持ちを落ち着かせるように脱帽して、銀髪をかきあげた。
 我々は騎馬でしか戦をしたことが無い。
 ラケル自身も長く騎馬隊長として戦場を駆けまわってきたし、アナトリアのよく訓練された騎馬で行われる、疾風怒濤の攻撃に耐えられる者などいない。
 しかし、その騎馬の最大の特性である速さは、広い草原が戦場であってこそのもので、果たしてこの地が戦場になった場合、一体どれだけの力が発揮できるものか、ラケルには予測できなかった。
 しかし、例え騎馬が使えなくとも、この地に王子がいるのだ。王子の身の安全だけは、何としても守られなくてはならない。
 今の我々にとって、それだけがアナトリアの希望であり、進む道となってしまったのだ。
「我々は、大王様のお考えに従うまでだ」
「はっ」
 こらえ切れぬように顔を俯かせる副長から目を逸らすと、ラケルは帽子をかぶり直し、関へと馬を進めた。
「アスラン様はご無事だろうか」
「大王様のお考えは、やはり正しかったのだ…」
「関が見えるぞ、気を抜くな」
「はっ」
 短くうなづいて後ろへ下がる副長の顔にも、先ほどの伝令兵の言葉に、隠していた疲労が一気に浮かんできたのが傍目からも分かる。
 ほかでもないラケルも、鉛を飲んだように胸が重く、全身の疲れが増していくのを止めることができなかった。
 それでも皆を動かしているのは、この地で無事にいるはずの、アスラン王子の存在だった。
 この関を越え、アスラン王子をこの目で見るまでは、何も考えてはならぬ。
 ラケルは、疲れた体に鞭打つようにして、胸を張り、堂々と関へ進んだ。
「そこの者!」
 ラケルの隊列を見つけた見張りの兵が、関の上方から顔をのぞかせ大声で叫んだ。
「ここからはネア・クゼイの領主、ギョクハン様の領地となる。ゆえに、ギョクハン様の許可がないと、ここは通れない。しかし、ギョクハン様はこの地を留守にしていらっしゃる。お帰りになるまで、この関を通って、ネア・クゼイへ立ち入りはできない」
「何だと?」
 悪いことが重なり、気が立っているこちらの状況も知らず、あまりに無遠慮に言い放たれた関の兵の言葉に、ラケルはギロリと大きな目を剥いて、こちらを見下ろす格好の兵士を睨みつけた。
「関を通るななどと、ギョクハンは王にでもなったつもりか?」
「いえ、そういうわけでは…」
 鬼のような形相のラケルにたじたじとしながらも、兵士は頑として首を振る。
「私はアナトリア騎馬隊総隊長のラケルだ。それでも通さぬと、そう言うのだな?」
「いかなる者でも通すなとの、ギョクハン様のご命令です。それがアスラン大王様でも…」
 そう言って兵士は手を上げると、関の上方にずらっと弓を構えた兵士たちが顔を出した。
「アスラン大王様でも、この関を通れぬと、そう言うか」
 ラケルは憤怒のあまり震える手で、剣の柄に手をかけた。
「それはアナトリアからの謀反と判断するが、それも承知だな?」
 すらりと大剣を引き抜くラケルに、関の兵はぐっと声をつまらせながらも大声で叫んだ。
「ギョクハン様のご命令だ」
「分をわきまえぬ者共め!」
 ラケルの言葉に、後ろの副長も、兵たちも、怒りをたぎらせた目でそれぞれの得物を手に構える。
 それを見た関の兵は、怖気づきながらも強い声で言った。
「ここでやり合うと言うのか? 不利なのはどう見てもそちらだろう。いかに騎馬といえど、後戻りのできぬ細道で、上から射られては終いだ。ここは引いてはもらえぬか」
「命を惜しんで、ここで引くような男ならば、今、お前たちの目の前にはいない」
 ラケルは血走った目で、叫んだ。
「それにこの老いぼれの力を必要としているお方が、まだいらっしゃる。残り少ない、この一生を捧げる主がな。お前たちの仕える主は一体誰だ? そして、それが命をささげる相手かどうか、考えてみたことはあるか」
「そちらがその気ならば、こちらも容赦はしない」
 ラケルの恫喝のようなその問いに答えはなく、ぎりぎりと力いっぱいに引かれた弓は、その矢じりを震わせながら、馬上で燃えるような目をしたラケルの騎馬たちに狙いを定めた。

  *

「ねえ、イリヤ、月の輝石って知ってる?」
 難しい顔をして古書とにらめっこしながら言うアスランに、イリヤは読みかけの本を一旦枕元に閉じた。
 同じ年頃の友達が出来たことに、ついはしゃぎすぎて崩してしまったイリヤの体調も、もうベッドの上に身体を起こしていても差し障りがないくらいに回復している。
「ああ、アルバン水晶のことだよ。月光を蓄積して光ることから、月の輝石って、そう呼ばれている。昔は道に迷わないように、水晶の光を道しるべにして夜歩きしたらしいよ。それから、黄金がアルバン水晶の光を増幅させるって話も聞いたことあるけど」
「へえ、そうなんだ。イリヤはやっぱり物知りだな」
 自分を尊敬のまなざしで見つめるアスランに、イリヤは苦笑して小さく首を振った。
「そういうんじゃないよ。ほら、これが月の輝石だよ。父さんがいつだったか土産に買ってきてくれた。そんなに珍しいものでもない」
 イリヤは首から石のついた細い鎖を外すと、アスランに渡した。
「これ? …何だか、ただの小石みたい」
 鎖についた親指の先ほどの小さな石は、宝石のようにきらきらしているわけではなく、一見、そこらへんの石ころのように価値が無いもののように見える。
 少しがっかりしたように石を眺めるアスランに、イリヤは笑った。
「そうだよな。月の光に当てたら光るって言われても、俺もこいつを月の光に当ててみたことなんかないし」
「そうか。ここは月も見えないものね…。でも、それならどうしてギョクハン#義叔父{おじ}さんはこんなもの買ってきたの?」
「まあ、それは子を思うあまりってやつだな」
 アスランから受け取ったペンダントを首にかけると、イリヤは肩をすくめて笑って見せた。
「何でも、月の輝石の力が、俺の心臓にいいんだって話をどっかから聞きつけたらしいよ」
「へえ、そうなの?」
「こんな石っころにそんな力があるわけないだろ」
 俺の寿命は、俺が一番よく知ってる、と言おうとしてから、イリヤは肩をすくめて口を閉じた。
 それぞれの人間が持つ、命の期限。
 それは、もし、神という存在がいるのなら、きっとその存在が決めているのだろう。
 そして、一方的に神に決められたイリヤの命は、とても短いものだった。イリヤは生まれながらにして心臓が悪かったのだ。
 けれど、当然のことながらイリヤも、イリヤの父ギョクハンもその神の決めた期限に逆らおうと、いろいろなことを試してきた。
 自分の住む屋敷の雨漏りを直す金も惜しんで、ギョクハンはイリヤの薬を、その治療法を探した。
 どこからか工面した金で、ギョクハンが足繁くギュネイに通うのも、ただイリヤの命を少しでも延ばしたいと思うあまりだった。
 その甲斐あって、ギョクハンはイリヤの薬を手に入れ、その薬のおかげでイリヤは確かに命を永らえていた。
 しかし、自分の命を延ばすことに一生懸命な父、ギョクハンの思いとは裏腹に、イリヤはいつしか自分の寿命について、諦めのような気持ちを持つようになっていた。
 もちろん、イリヤは死にたいと願っているわけではない。
 けれど、長い闘病生活の中で、イリヤは薬や努力ではどうすることもできない、何か神の意志のようなものを感じていた。
 いくら薬を使っても、自分の寿命は他の人の四分の一ほどだろう。
 ベッドの上で苦しみながら、ふとそう思った時、イリヤは命のはかなさを感じたのだ。
 いずれ人は死ぬ。それが国の王であっても、乞食であっても、永遠に生き続けることなどできはしない。そして、自分に与えられた時間は短いが、そこへ訪れる死は同じものだ。
 それならば、とイリヤは思った。
 それならば、限りある時間を、俺は生きたいと願うことだけに使いたくない。
 そう考えると、イリヤは力が抜け、自分が楽になるのを感じた。できないことばかり、死んでしまうことばかり考えることなく、今生きていることだけで十分だと思えるようになったのだ。
 それからイリヤは自分にできることをした。
 外を駆けまわる子供を羨むのではなく、ベッドの中で好きな本を読んだり、おいしく食事をしたり、それだけでもイリヤは以前よりもずっと幸せになれることに気付いた。そしてそれは、今までの生活とは違う、生きているという感覚だった。
 けれど、父、ギョクハンは諦めなかった。
 ギョクハンは今までと変わらずに、ギュネイに通い、高価な品物をイリヤに買って帰った。
 その旅のおかげで、ギョクハンは屋敷にいることはあまりなく、イリヤはそれが少しさみしくかった。けれど、自分に精いっぱいのことをしてやりたいと願う、その親心はイリヤには痛いほどわかるのも事実だった。
 だから、ギョクハンがイリヤに持って帰るすべてを——胸に下がるこれがただの小石だとしても、イリヤは身につけ、そして言われるままに薬を服した。
 それで何が変わることが無くとも、そうすることが自分のできる最大の親孝行だと、そうイリヤは思っていたからだ。
「そうかな。#義叔父{おじ}さんが言うんだから、きっと効果があるよ。それか、月の光に当ててみたらもっと違うのかも」
 アスランは、生き生きした大きな瞳でこちらをを見つめる。その眩しい瞳から目を逸らして、イリヤは自嘲するように言った。
「そうだな。俺がいらなくなったらアスランにやるよ。そうしたら、月の光に当ててみればいい」
「でも僕も当分ネア・クゼイを出られないしなあ…」
「それでも一生ここで本を読むしかない俺が持ってるよりましだろ。…それで、アルバン水晶がどうかしたのか?」
 イリヤに話題を強引に戻されて、アスランは一瞬きょとんとした後、思い出したように言った。
「ああ、えっと、この本に書いてあるんだ。…その月の輝石で予言をした人が、アナトリアの始祖だって」
「へえ、それは聞いたことがないな」
 イリヤは細い腕で、アスランから大きな本を受け取った。
「王国の歴史書のたぐいは、ほとんど読んだと思うんだけど…」
「ほら、でもここに書いてあるでしょ?」
「ほんとだ」
 お世辞にもきれいではない文字に顔をしかめながら、イリヤは声に出してそこに書かれた文章を読んだ。
「『…一族は、月の輝石を見つけた。初めはその不思議な石を売って生活をしていた。しかし、月の輝石を使って占いを始める者が現れた。その男は後にアナトリアの始祖となるトゥグリルであった。トゥグリルは月の輝石に敬意を表すため、アナトリアの旗には月を描き、都にも月の名を冠した』」
「ね、そう書いてあるでしょ?」
「ふうん…」
 イリヤはため息のように深く息を吐き出して、まじまじとその古い本を眺めた。
「これはいつ書かれた本なんだろう…」
「この本を売ってくれた男の人が、自分で書いたみたいだけど」
「そんなの嘘だよ。だって羊皮紙なんて今は手に入るかどうか…」
 イリヤはますます顔をしかめて本とにらめっこした。
「じゃあ、あの人が嘘をついたってこと? そういえば、その人、僕と同じ名前だったんだよ」
「へえ、それは珍しいな。だけど、だからって嘘をついてないってことにはならないと思うけど…」
 イリヤは首をかしげながら、手の中の本を眺めた。
 例え、古い時代の羊皮紙が使われていることを除いたとしても、この本は奇妙なものだった。
 アスランの言った通り、その本売りの男が綴ったにはしては内容も装丁も古すぎるものだし、かといってただ綴じられただけの表紙には、著者の名すらなく、中の文章も誰かに読まれることを意識しない、何か日記や覚書の類のもののようにも見える。
 それにその文字も文章も、とても教養のある人が書いたとは思えないくらい稚拙で、読み解くのに一苦労するほどであった。
 しかし、そこには長年アナトリアの宮殿の蔵書を読んだイリヤでも知らないような、当時の情勢や、庶民の生活まで、事細かに記されていた。
「アスラン、その本売りの人ってどんな人だった?」
「別に、どんなってこともないよ…。若い男の人で、いろんなところを旅をして、本を書いてるみたいだったけど」
「旅、ねえ…」
 イリヤは本を放り出すと、白い羽枕に頭を預けた。
 アスランが、都の図書館みたい、と評したイリヤの部屋は、ベッドが置いてあるスペース以外はすべて本棚で埋め尽くされていた。
 そのたくさんの本はいずれも、その内容について王国の検閲を経た原本を、都の写本屋が写し取って売り出したものだ。
 つまり、世に出回っているたくさんの本の内容の真偽は、王国が保証するものだった。
 しかし、アスランが市場で買ってきたというこの本は、どう見ても写本屋で写されたものではないようなものだった。
 だから、その本売り本人がが書いた本だということは嘘だとも言いきれない。しかし、やはりそう考えるとイリヤの心に引っかかるのは、本の古さということであった。
 だからといって、本の内容が嘘だと決めつけることもイリヤにはためらわれた。なぜなら、文字が書けるほどの教養がある者が、暇にまかせて嘘八百を本に書き記したところで、何の意味もないと思うからだ。
「そういえばイリヤ、そっちの本は何が書いてあったの?」
 アスランの声に、イリヤは堂々巡りの考えをやめて、枕元の本をもう一度広げた。
「ああ、こっちの本は物語みたいだけど…」
 比べて見てみると、アスランの読んでいた古書と、この本は同じ人間が書いたもののようにも思える。
 イリヤは、頁をぱらぱらとめくりながら、アスランに答えた。
「こっちの本は、どこか古代の都を舞台にした物語みたいだ。何でも、旅の商人が草木を操る力を持った女に恋するとか…」
「草木を操る力?」
 イリヤの言葉にアスランは目を真ん丸にして、驚いたように声を上げた。
「それって、魔法みたいだね」
「まあ、現実にあったらね」
 無邪気に目を見開くアスランに、イリヤは苦笑いした。
「物語の中だったら、何だって有りだ」
「そうだけど…」
 アスランは何を思ったか、イリヤの枕元まで近づいてくると、にこにこしながらイリヤに聞いた。
「イリヤはそんな力が使えたら、何をする?」
「草木を操る力? そうだな…」
 イリヤは昼過ぎにもかかわらず、いつものように薄暗い窓の外を眺めた。
「あの呪いの大樹を枯らすかな」
「そんなこと、できるの?」
 アスランの驚いた顔に、イリヤはまた苦笑いした。
「仮定の話だろ? そういう力があったらって。それだったら俺はあの大樹を枯らして、一回くらい日の光を浴びてから死にたいって言ったんだよ」
「死ぬだなんて、そんなこと言わないでよ」
 アスランはぷっと頬をふくらませて、冗談のように言うイリヤを睨むようにして言った。
「そうじゃなくて、草木を操る力って言ったら、僕なら草を生えさせるとか、花を咲かせるとか…。枯らすことなんて思いつかなかったから…」
「ああ、たしかにそうかも」
 イリヤはアスランの言葉にはっとして、ますます苦く笑った。
 生まれながらにして死の床についた者は、死にゆくことしか考えられなくなってるのかもしれないな。
 だから、きっと草木を操る力と聞いても、その命溢れる芽生えより、枯れてゆくことの想像のほうが初めに来てしまうのだ。
 アスランの何気ない一つ一つの挙動が力強い生を感じさせるように、自分の身体は、思考は溢れ出る死の匂いに染まってしまっているのだろうか。
 細く、透き通るような白い肌をした手を、アスランの目に映さぬように、イリヤは毛布の中へ両手を隠すようにして言った。
「…じゃあ、例えば東の砂漠を、森や草原にして、人が暮らせるようにする、とかかな」
「そっか、それはいいね」
 アスランはイリヤの言葉に、頬を上気させて手を叩いた。
「だって、砂漠って生き物が何にも住めないもの。そっか、砂漠を草原に変えられたら、国は豊かになるよね」
「そうだろうな。…さすが王子様」
「そんなんじゃないよ…」
 からかうように言うイリヤに、アスランはどうしてかしゅんとしてベッドのシーツをなぞった。
「からかっただけだよ、ごめん、気に障った?」
「ううん、違うんだ」
 慌てて謝るイリヤに、アスランは血色のいい唇を噛んで、言葉を慎重に選ぶようにして、ためらいがちに言った。
「あのね、イリヤ…」
「何だよ」
「…僕はどうして王になるの?」
「そんな、何言ってんだよ」
 呆れたように笑うイリヤに、むっとした顔をしてアスランは食ってかかった。
「僕は本気で聞いてるんだ」
 確かに本気だろう。アスランの眼差しはひたむきで、とても冗談を言っているような顔ではない。
 イリヤは顔から笑いを引っ込めると、目にかかるほど長くなった前髪をかきあげた。
「じゃあ、真面目に答えるけど。それは君がアナトリアの王子様だからだろ」
「そうじゃなくって…」
 アスランはもどかしげにため息をついた。
「何て言うのかな、どうして僕なの? っていうか…」
「君は王になるのが嫌なのか?」
「嫌じゃない、そういうことじゃなくって…」
 イリヤに伝わる言葉を求めて、アスランは頭をかきむしった。
「王になる資格って何だと思う?」
「王の資格? 何だよそれ、誰かに何か言われたのか?」
「ううん…」
 口ごもるアスランを問い詰めるように、イリヤは語気を強めた。
「だってこの間まではそんなこと一言も言ってなかったじゃないか。誰に何言われたんだ?」
「内緒にしててくれる?」
 イリヤのベッドの端を掴んで、上目遣いにこちらを見るアスランに、イリヤは少し意地悪く言った。
「そんなことをアスランに言ったやつがうちの使用人だったら、すぐクビにするけど」
「違うんだ」
 アスランは慌てて首を振る。
「僕、この間内緒で森へ出かけて…」
「ああ、あの屋敷中大騒ぎになった日な」
「大騒ぎ?」
 小さくなるアスランを横目に、イリヤはくつくつと可笑しそうに思い出し笑いをした。
「ハチの巣を突いたような騒ぎって、まさにあんな感じだろうって思ったよ。特にあの年配の太った…あのおばさん、アスランはいないかって俺の布団の中までめくって見たんだぜ」
「ミネが? ごめんね、僕のせいで…」
 驚いてさらに縮こまるアスランに、イリヤは一つ、咳払いをして話の続きを促した。
「いや、面白かったからそれはいいんだ。それで、森はどうだった?」
「ああ、えっと…僕、あの呪いの大樹の根元まで行って…」
「うん」
「笑わないでね?」
「笑わないよ」
「本当に?」
「うん」
「本当の本当に?」
「もう、本当に決まってるだろ」
 こちらを伺って、何度も念を押すように言うアスランに、イリヤはきっぱりと言ってみせる。
 そのイリヤの表情に、やっと安心したように、アスランは秘密を打ち明けるように声を潜めて言った。
「僕、その、大樹と話したんだ」
「呪いの大樹と、話した?」
 黙ってこちらを見て真剣にうなづくアスランに、イリヤは口を開けたまま、何と言っていいか分からずに沈黙した。
 知り合って間もないけれど、アスランは嘘をつくようなやつじゃない。
 イリヤはこちらをしっかりと見つめるアスランを見返した。
 そうは思っていても、呪いの大樹と話しただなんて、にわかに信じられる話ではない。けれど…。
 眉根を寄せて考えこむイリヤに、アスランは一つため息をついた。
「そうだよね、急にそんなこと言われても、信じられないよね…」
「いや、信じないわけじゃないけど…」
 イリヤは首をかしげた。
「まず、話すって、どうやって大樹が話すんだ?」
「どうやってって…それはわかんない。でも…」
「うん」
「人が普通に話すみたいに、女の人の声で、僕に話しかけて来たんだ」
「女の人の声ねえ…」
 呪いの大樹は女性なのか。
 妙な感慨を覚えながら、イリヤはアスランの話の続きを待った。
「それでね…」
 アスランはイリヤに何とかうまく説明しようと、つっかえながら話した。
「大樹のお姉さんは、どうして僕が王様になるのかって。どうして僕が根イモをつくらなくても、豪華な生活できるのかって」
「根イモ?」
「ああ、ううん。根イモの話はいいんだ。…とにかく、どうして王という人間がいるのか、僕のどこに王となる資質があるのかって、そう聞いてきたんだ」
「大樹のくせにおかしなことを考えるんだな」
 イリヤは首をかしげてつぶやいた。
「アスランに王の資質を問うなんて」
 しかし、そのおかしな大樹の質問に、アスランは心底考えこんでしまっているようだった。
「ねえイリヤ、僕、大樹のお姉さんの質問に全然答えられなかったんだ。金…そう、お姉さんは金貨のことも嫌いみたいだった。そうだ、これ…」
 アスランはポケットを探ると何か光る物を取り出した。
「これ、お姉さんがくれたんだ。持っていっていいって」
「これは、髪飾り? でもこれはアナトリア王家のものじゃないのか?」
 アスランが取り出したのは、綺麗な金の髪飾りだった。
 重さからしても、たぶん純金が使われたもので、その金に白く光る石で、今はアナトリア王家にしか存在しないのはずのマクヒア馬が描かれている。
「でも、お姉さんのものみたいだったよ。だけど、お姉さんは金なんていらないって」
「そりゃ、大樹に髪飾りなんか必要ないだろ」
「うん…でも、この髪飾りだけじゃなくて、金なんか役に立たないって」
「何言ってんだ。金は役に立つに決まってるだろ」
 イリヤは枕元の小さな棚から、青い小瓶を取り出して、アスランの目の前でカラカラと音をさせた。
「これは俺の命を永らえさせてくれる、薬だ。父さんがわざわざギュネイまで旅に出て、買ってきてくれる」
「ギョクハン#義叔父{おじ}さんが? 優しいね」
「俺にはね」
 イリヤは少し笑うと、あと残り一粒となったその中身を眺めた。
「こんな少しで、すごく高価なんだぜ。一瓶でディル金貨五枚もする…って言っても、王子様には分からんか」
 ディル金貨一枚あれば、貧しい家族が一年食いつなげる。そんなに高価な薬を、ギョクハンが買えるのは不思議だったが、イリヤの命綱であることには変わりなかった。
「これ一瓶で五十粒は入ってたかな…それなら残りのこの一粒だけでも、家族がひと月は食いつなげるか」
「そっか…うん、イリヤには金は必要なんだね…」
「金が必要ないなんて、大樹のお姉さんは楽だな」
 ため息をついて考えこむアスランを横目に、イリヤは小瓶を棚に戻し、髪飾りを眺めながら話しができるという大樹のことを思った。
 もし、アスランの聞いた声が本当に呪いの大樹のものであるならば、イリヤはぜひとも大樹と話してみたかった。
 古代からネア・クゼイを見てきた大樹。いや、イリヤが本の中でしか知らない、生きとし生けるものの歴史を空から見つめてきたに違いない大樹。
 その大樹なら、イリヤが今はまだ決して知ることのできない問いに対する答えを知っているかもしれない。そう思ったのだ。
「一度、俺も会ってみたいな。その、大樹のお姉さんに」
「うん…そうだね」
 アスランがイリヤを気遣うようにおずおずと言う。
「でも、イリヤは…」
「森の、どこへ行ったら、その大樹と話せるんだ?」
「森っていうか、僕、大樹の近くの穴に落ちちゃって…」
「落ちた?」
 思わず鋭い口調で聞き返すイリヤに、アスランは慌てて訂正した。
「ケガとかなかったし、大丈夫だよ。…それで、実は森の近くの丘に、大樹の根元に通じる地下通路があるんだ。最後にくぐる穴は小さくて、子供じゃないと通れないけど、イリヤなら大丈夫だと思うよ」
「あんまり危ない真似はやめてくれよ、アスラン。お前が怪我とかしたら、どうなるかわかってるんだろうな」
「わかってるよ…」
 アスランはふくれて言った。
「でも、その大樹の根元にはラーレの花が一面に咲いてて、すごく綺麗なんだ。…イリヤがよくなったら、一緒に行きたいな」
「そうだな、その時は頼むよ」
 ラーレの花とはどんなものだろうか。草原に咲いている野の花よりも、美しい花だろうか。
「ラーレの花はね…」
 いつの間にか悲しげな顔をしたアスランがつぶやくように言った。
「さっきの話、ほら、草木を操る力があったらどうするって、言ったでしょ。僕は…」
 アスランの目は目の前にいるイリヤではなく、遠くアユディスの景色を見ているようだった。
「もし、僕に草木を操る力があったら、草原をラーレの花でいっぱいにしたいんだ。戦がなくなって、平和になったらそうしてあげるって、母様と約束したから…」
「そうか」
 イリヤは寂しげなアスランに、ゆっくりとうなづいた。
 大樹のお姉さんとやらが言う通り、皆が平和に暮らせたら、それが一番いいんだろうけどな。
「きっと、綺麗なんだろうな。その…」
 イリヤがその言葉を言い終わらないうちに、突然、外から騒がしい声が聞こえ、イリヤは何事かと扉の方を振り向いた。
「どうしたんだろう?」
 アスランが身構える暇もなく、廊下からたくさんの足音がイリヤの部屋に迫る。そして、二人の見つめる先の扉が勢いよく開かれた。
「小アスラン様! ご無事ですか!」
 扉を開け放った銀髪の老将が、ものすごい形相をしてアスランの名を叫ぶ。
「おやめください、イリヤ様はお身体が…」
 イリヤの侍女が逆らうように駆けこんで来るが、老将についてきた兵に、瞬時に羽交い絞めにされた。
 老将のその姿を見て、アスランの目は真ん丸に見開かれた。
「ラケル! どうして…」
「アスラン、この人は…」
 イリヤが小声で訊く暇もなく、ラケルと呼ばれた老将はイリヤをぎょろっとした目で睨むようにして見た。
「小アスラン様を安全な場所へお連れしろ! それからこやつを…」
「ギョクハンの長子、イリヤと申します。父の留守は私が預かっております。この騒ぎは一体何でしょうか」
 あまりに騒々しい兵たちの登場に、イリヤはベッドから半身を起こすとできるだけ丁重に訊ねた。
「イリヤ、ごめん、ラケルは何か勘違いを…」
「勘違い?」
 ラケルは今度はその眼をアスランに向けると、腹の底から出すような声で吠えた。
「ゆめ勘違いなどではない」
「ラケル、何怒ってるんだよ。イリヤは僕の友達で…」
「ネア・クゼイの領主、ギョクハンは、アナトリア王国、ひいてはアスラン大王様を裏切り、グラン帝国についた」
「何だって…」
 ラケルの役者顔負けの大音声に、イリヤとアスランは瞬時に顔色を失って息を飲んだ。
「ゆえに、その息子も同罪だろう」
「父が…?」
 父が、西のグラン帝国に? アスランを、大事な王子を預かる身で、大王を裏切った? 俺の……
 そこまで考えたとき、イリヤは胸に差し込むような痛みを覚え、ベッドに倒れ込んだ。
「イリヤ様! イリヤ様にお薬を…」
 戸口でラケルの部下に引きとめられた侍女が、悲鳴のような声を上げる。
「薬、えっとさっきの…」
アスランが先ほどイリヤが棚に仕舞った青い小瓶を、急いでイリヤに差し出しす。その青い小瓶から、イリヤは最後の一粒を震える指先でつまんで口に入れると、そのまま飲み下す。
「ラケル、イリヤは心臓が悪いんだ。だからあんまり興奮させないで」
「病人だろうがなんだろうが、彼は我々の監視下に置きます」
 ラケルはにべもなく言い放った。
「そんな…だってギョクハンが裏切っただけで、イリヤは関係ない…」
「アスラン、いいんだ」
 イリヤは胸を抑えながらアスランに言った。
 父は、ギョクハンはアスランを人質に取っている気だったのだろう。このラケルという老将が兵を引き連れて来なければ、明日戻ってくるはずのギョクハンはグラン帝国にアスランを渡して…。
 そこまで考えて、イリヤは空になった青い小瓶を手から取り落とした。その小さな空瓶は、音も立てずに、絨毯の敷かれた床をころころと転がっていく。
 俺のせいか。俺のせいで、金が必要だった父は、アスラン大王を裏切り、グラン帝国につくなどという愚を犯したのか。
 一体どこから金を工面しているのかなどという呑気な考えで、真剣に金の問題を考えたことが無かったイリヤは呆然として、今にもイリヤを切り殺しそうな目で睨みつけるラケルを見た。
 すべては俺のせいなのだ。俺がいなければ、父は…。
 薬のおかげで収まっていく胸の鼓動を、イリヤは心の底から憎んだ。
 この心臓さえ悪くなければ、こんなことは起きなかったはずなのに。
「彼の方がよくわかっているようだ」
 ラケルは怒り冷めやらぬ目でそう言うと、アスランに向きなおった。
「それから、これはあなたへ伝えなけらばならないことです、小アスラン様。いえ、アスラン様」
 ラケルの言葉は毅然としながらも、どこか苦しげだった。
「なに…?」
 周りの大人たちのただならぬ緊張した様子に、アスランはイリヤに身体を寄せるようにして震える。
 きっとラケルの口からは、アスランの聞きたくない言葉が出るに違いなかった。けれど、アスランに耳を塞がせるひまも与えずに、ラケルは口を開いた。
「アスラン大王様は、ハルハとの戦いで亡くなられました」
「うそ…」
 その言葉を耳にした、誰もがしんとして言葉を失ったように沈黙した。
 ラケルが嘘をつくはずもなく、その言葉は真実だろうことは、そこにいる全員が頭で理解していることではあった。
 しかし、王の崩御というのは、誰もがすぐには受け入れられぬ、国の一大事であった。
「父様が…」
 アスランが再び小さくつぶやくような言葉が沈黙を破るまで、部屋の空気は止まってしまったかのようだった。
 そして、そのアスランのつぶやきで再び時が動き出したことを知らせるように、どこか遠くから地鳴りのような音が響き渡った。

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