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緑(りう)の一族

黒澤伊織

第二部 第三章 帝国の企み

 南都ギュネイの日差しは、呪いの大樹の日陰で暮らしている者にとってはあまりに強く、厳しいものだった。
 太陽に熱された石畳は靴底が溶けるようだし、全く動く気配のない潮の混じった海際の空気は、ねっとりと肌に絡みつくように重い。
 ネア・クゼイから南都ギュネイまでは、およそ半月ほどの旅路だった。
 それゆえ、アユディスからほとんど身一つで逃れて来たアスラン王子を匿ってから、すぐにネア・クゼイを発つことになってしまったギョクハンの胸中は穏やかでなかった。
 しかし、こればかりは時の運としか言いようがないだろう。アスラン大王の運が尽きるのが先か、それともこちらの運が尽きるのが先か…。
 やっと部屋に通されたギョクハンは、額の汗を拭ってため息をついた。
「しばらく、お待ちください」
 いつもの通訳の商人が、真ん丸な顔に満面の笑みを浮かべてそう言うと、仰々しく礼をしてから退室する。
「お茶を、どうぞ」
 これも顔見知りの、猫のような目をした女が、氷の入ったグラスを涼しげな音をさせて、ギョクハンの目の前に置いた。
「……」
 また、今までのものとは違うようだな。
 ギョクハンは、覚悟を決めて黒光りする小机からその飲みものを取ると、一息つき、グラスの中の液体をおそるおそる口に運んだ。
 しかし、どうやらそこまでこの茶の味を恐れる必要はなかったようだ。
 黒い液体からは想像がつかないほどの、優しい甘さがギョクハンの舌を冷たく潤す。ギョクハンはひとまずほっとして、女に微笑んで見せた。
「…ふむ、これはまた」
 しかし、甘口である、と言おうとした瞬間、遅れてギョクハンの舌全体をしびれるような苦みが襲い、ギョクハンは打って変わって目を白黒させながらその液体を飲み下した。
「アフェリアの南で採れる豆の茶でございます」
 こちらの反応を笑う様子もなく、女が流暢なアナトリアの言葉で言うのを、ギョクハンは顔を少しひきつらせながらうなづいた。
「そうか。趣の異なった茶ですな」
「ありがとうございます」
 女は笑顔で一歩後ろに下がり、今度は床にひざまずくと、大きな鳥の羽を合わせたもので、ギョクハンを扇ぎ始めた。
 扇がれるのは心地よいものだが、どうにも喉が渇いた。こんな妙な茶ではなく、ただの水でも出してくれぬものか。
 そう思いながらも、女の手前、ギョクハンはもう一度グラスに口をつけ、ゆったりと、さもうまそうに飲むふりをすると、せめても椅子に深くもたれて、大きなため息をついた。
 ここ、南都ギュネイには各地から様々な珍しい品物が集まってくる。それがこの商業都市の魅力であり、ほかでもないギョクハンが高い入地料を払ってこの地を訪れたきっかけも、初めは病気に苦しむ我が子、イリヤの貴重な薬を求めてのことではあった。
 しかし、ふとしたきっかけで、この商館である人と会うようになって以来、毎度毎度出される奇妙な飲み物の数々に、ギョクハンは本当に辟易していた。
 しかし、こう言っては何だが、今回の豆の茶などまだ飲み下せるだけましなほうだ。前回の薄茶色の茶は、#馬糞{まぐそ}を濾したのではないかとないかと思うほどの異臭がしたからな。
 ギョクハンは苦々しい思い出に顔をしかめると、再びため息をついて、遠くを眺めるように目を細めた。
 密会にふさわしいとは思えない大きな窓の向こうには、白い帆を畳んだ商船がひしめき合い、肌の黒い船員たちが大きな荷を港へ降ろしている姿が小さく見える。
 一体中には何が入っているのだろうか。しかし、どの品物にしても、わざわざ船で運んでくる価値のある、大変高価なものには違いない。
 その貴重な荷のすべては、ここギュネイで捌かれ、あるものはオアシスを辿る陸路でアナトリア王国や、その先のクルト山脈を越えた東のハルハへ、そしてあるものはまた別の船に乗せられ、海路で西のグラン帝国や、南のアフェリアへと運ばれていく。
 そのさまざまな国のさまざまな品物の取引は、すべてギュネイの商人たちが取り仕切り、そこで生まれる莫大な利益を使って、ギュネイは周辺国と深い関係を築いていた。
 その甲斐あって、ギュネイは一つの国のような都市として、独自の規律を持つことを認められ、例え国王や皇帝でもギュネイに手を出すことはできなかった。
 そのため、ギュネイには各国の商館が建ち並び、その商館は身分の高い者たちがこぞって貴重な品を入手するための場となった。
 しかし、商人のためにあると言っても過言ではないこの都市への入地料は、少し貧しい土地の領主などはそう何度も訪れることができぬほどに高く、かといって金を払わずに入ろうとする者には、商人たちが揃えた精鋭兵たちにつまみだされるか、それとも運が悪ければ殺されてしまうことすらあった。
 そこで、ギュネイに魅了された人々の中には、この地の永住権を高額で買い取り、手を伸ばせば何もかもが揃う、素晴らしい生活を手に入れる者さえ存在した。
 しかし、ネア・クゼイの貧しい領主であるギョクハンには、永住権どころか、入地料すら、そう何度も払うことなど困難である。
 そんな空っ風が吹き抜けるような懐事情にも関わらず、ギョクハンが何度もギュネイを訪れ、イリヤの貴重で高価な薬を手に入れることができるのは、ここで出会った異国の者のおかげであった。
 ギョクハンは鳥の羽で風を送る女に、もっと扇ぐように目顔で合図した。
 今日はどうにも、我慢がならないくらい暑い。
 一張羅の、黒に金の刺繍をした服の襟を、ギョクハンは無意識にはだけようとして、ぐっとこらえた。
 この滴り落ちる汗は、暑さだけのせいではない。きっとこれから起こることへの緊張なのだろう。
 ギョクハンは、窓から目を離すと、木で編まれた椅子の網目を神経質になぞった。
 今日、ここで起こることが、自分、いや、アナトリアの歴史を変えるのだ。
 あまりに不相応な予感に、ギョクハンが身震いした時、部屋の扉が開き、先ほどの丸顔の商人が顔を出した。
「ギョクハン様、お待たせしました」
「いや、それほどでも…」
 ギョクハンが言い切らぬうちに、媚びたような笑顔を浮かべる商人の後ろから、耳まで垂れた縮れ毛の男が無愛想にぬっと顔を出す。
「バケーロ将軍様は、到着が遅れ、申し訳ありません、とおっしゃっています」
 管楽器が音を鳴らすような異国の言葉を、商人がすかさずアナトリアの言葉に直して、ギョクハンに伝える。
 このグラン帝国の将軍だというバケーロは、簡単なアナトリアの言葉ならともかく、複雑な話をすることはできないらしく、この場にはいつも、毎回同じ通訳の商人が同席するのが常だった。
 バケーロの後ろからは、これも常にこの場に居合わせる、将軍副官と紹介されたイアゴが入ってくる。
「いえ、私もくつろいでおりましたゆえ…」
 ギョクハンは心にもないことを言うと、つくり笑顔で手を合わせた。
「ここから見える景色を、堪能していたところです」
「そうですか、それはよかった、と」
 バケーロがにこりともせずに答えた言葉を、二人の間に入った商人が笑顔を崩すことなく通訳をする。
 まったく、本当にそんなことを言っているのだろうか?
 いつものことではあるが、バケーロと、その言葉を通訳する商人との表情のあまりの違いに、ギョクハンは不安を感じながらも、目の前の椅子にどっかと腰を下ろすバケーロにならって、自分も腰を下ろした。
「まこと、眺めはよいのですが、こんなところを誰かに見られてはあまり…」
 言いかけたギョクハンの言葉を遮るように、小さく手を挙げてバケーロが言った。
「今日が最後なのですから、構うことはありません。それよりも、息子さんの具合はいかがですか?」
「はい?」
「息子さん、イリヤどのの…」
「ああ、ありがとうございます。あの薬のおかげで、最近では外に散歩に出かけることくらいはできるように…」
 ギョクハンは慌ててバケーロに何度もうなづいて見せた。
 イリヤのことを本当に心配してくれているのか、それともこちらへ脅しじみた牽制をかけようとしているのか、バケーロの真偽は計りかねるが、そのどちらにせよ、自分はこうして頭を下げるしかないことを、ギョクハンは知っていた。
「それならよかった。我々の情報とお金が役に立ったようですね」
「はい。重ね重ね、ありがたいことです」
 ギョクハンは深く頭を下げて、できるだけ感謝の意を伝えようと試みる。
 そんなギョクハンのへりくだった様子に、バケーロは口元を歪めた。
「ギョクハンどの、あなたがそんなにかしこまる必要はありません。我々があなたに差し上げたのは、まだお約束の半金なのですし、心臓の薬にしたとて、それはあなたがしてくださることへの当然の対価なのですから」
「ありがたいお言葉です」
 顔を上げたギョクハンの目に、未だ見慣れぬバケーロの青い目が飛び込んで来て、ギョクハンは慌てて目を逸らすように膝の上に握った自分のこぶしに視線を落とした。
 ギョクハンがギュネイに何度も足を運び、イリヤのために貴重で高価な薬を買うことができるのも、すべてはバケーロのおかげだった。
 いや、バケーロの、というよりは、この男の持つ金貨の力だろう。
 ギョクハンは色のかすれた一張羅の裾を隠すように、膝の上のこぶしを移動させた。
 金貨が無ければ何もできぬ。食うものも、衣服も、住まいも、そしてイリヤの命さえ、金貨が無ければ何も手に入らぬのだ。
 もし、ギョクハンの手に十分な量の金貨があったのなら、この異国の将軍からの恐ろしい誘いなどに乗らなかったかもしれない。
 しかし、現実にはギョクハンの手には金貨はない。
 そして、この金貨を持った異国人の将軍は、ギョクハンが自分の要求を飲めば金貨や薬だけでなく、すべての事が終わったあかつきには、このギュネイの永住権すら与えてくれると言う。
 それでも、ギョクハンも二つ返事でバケーロにうなづいたわけではなかった。
 いくら金貨を積まれたとて、アナトリア王国の領主が、海を挟んで西に位置する、グラン帝国の将軍と密会を重ねるなど、自分の首が飛びかねない、重い罪だからだ。
 しかし、その罪を重々承知していながらも、最後にはギョクハンは、バケーロの差し出す美しい金貨を、その懐に仕舞った。
 ほかでもない、イリヤの命のためだ。
 ギョクハンはそう自分に言い聞かせた。
 イリヤの命のため、私はどんなに面白くなくても、この異国の将軍の言う通りに行動し、金貨を、そしてギュネイの永住権を手に入れなければならない。
 自分には強すぎるギュネイの日差しも、イリヤの日光浴にはちょうどよいものだろう。
 言葉が通じないことをいいことに、私を小馬鹿にするようなバケーロの青い目は、正直反吐が出る。しかし、あんな日の射さぬ、湿っぽい土地からイリヤを脱出させるため、私はその目にも耐え、バケーロに媚びへつらってついていくのだ。
 やっと顔を上げたギョクハンを、バケーロは楽しげに見下ろすと、自分の前に出されたあの苦い茶の入ったグラスを手に取る。
「なかなか、不思議な茶でありますよ」
 ギョクハンは内心の溜飲を下げるように、茶を一口啜ったバケーロの表情を見たが、バケーロはちらりとこちらを見ただけで、特に茶の味に感じるところはないようであった。
 この男は、味盲か?
 ギョクハンは流れ落ちる汗を手で拭って、心の中で毒づいた。
 それとも、グランの者は総じて鈍感にできているのだろうか。
 グラン帝国もアナトリアとほとんど変わらない気候だと聞くのに、目の前のバケーロはよく見れば、この暑さだというのに、汗一つかいている様子はない。
 しかし、ギョクハンの勘繰りに気付く風もなく、バケーロは長い脚を組みかえるとふと思いついたように言った。
「ところで、獅子王様の情勢はいかがですかな?」
「はい、ええと…」
「どうやらクルト山脈側の領主たちは、皆、ハルハについたようですが」
 ギョクハンの嘘を牽制するように、バケーロは最新の戦況を口にする。ギョクハンはむっとしながらも、それを表には出さずに正直に答える。
「…ええ、その通りです。しかし数で言えば、未だアスラン大王の軍がハルハのそれを圧倒しております」
「獅子は龍を喰らうか…」
 ハルハの龍王の力量を測るように、バケーロは一時宙をにらんだ。
「まあいい。互いが互いを潰し合えば、皇帝の出番が急がれるだけだ」
「グラン皇帝陛下の、ですか?」
 ギョクハンははっと身構えた。
「しかし、それはもう少し後では…?」
「ギョクハンどの、時は常に流れの中にあるのですよ」
 大げさに手を広げるバケーロに、ギョクハンは慌てて言った。
「けれど、今はネア・クゼイの兵もハルハとの戦いに取られて残っていませんし、それに…」
「アスラン王子がいるときは避けたい、ですか?」
 含み笑いをするバケーロに、ギョクハンは驚いて目を見張った。
「どうして、それを…」
「グランに協力して下さる方は、あなただけではないのですよ、ギョクハンどの。それに…」
「……」
「あなたもすべて承知の上で祖国を裏切るのでしょう? あなたは、沈みゆくアナトリアという大きな船から逃げ出した、子鼠のうちの一匹にすぎない」
 自分を鼠になど例えられて、ギョクハンは思わず眉をしかめて商人を見た。そのギョクハンの強い視線に、商人は慌てて首を振る。
「わ、私は将軍のお言葉をそのままお伝えしているだけで…」
「わかっている」
 ゆったりと椅子に身を預けるバケーロから目線を逸らして、ギョクハンは額に手を当てた。
 アナトリアを裏切るのか。そう問われれば、自分のしていることは裏切りと表現するしかないことなど、ギョクハンにはわかっていた。
 しかし、それは私が卑怯な人間だからでも、忠誠心のない人間だからでもない。イリヤのためなのだ。
「ギョクハンどの」
 黙りこくったギョクハンを今度は優しく諭すように、バケーロが語りかける。
「いまさら、アナトリアに未練があるとでもいうのですか? あなたの息子に十分な治療も受けさせず、田舎で療養させることを口実にあなたをあんな呪われた、日陰の地に追いやったというのに?」
「いや、未練など…」
 そうだ、そうなのだ。
 ギョクハンはぐっと奥歯を噛みしめるようにして小さく首を振った。
「未練などありません。何も、恩もない」
 ギョクハンは、自分たち親子をネア・クゼイに追いやったアスラン大王を恨みに思っていた。
 ギョクハンの妻であり、アスラン大王の妃のメルヴェと腹違いの姉妹であったエミーネが、イリヤを産んですぐに亡くなってしまったのをいいことに、大王はギョクハン父子をネア・クゼイの辺境に追い出すようにして領主を任せた。
 田舎の良い空気や、質の良い新鮮な野菜を食べれば、イリヤの病もよくなるだろうと大王は言ったが、その本心は病気持ちの厄介者を宮殿から追い出したかっただけだろう。
 だから、自分のこのアナトリアに対する行為は裏切りであって裏切りではないのだ。最初から私たちは裏切られていたのだから。
 何かを堪えるようなギョクハンの様子を、バケーロは冷ややかに見下ろした。
「それならば、約束通り、我々の手引をしていただけるのですね」
「…はい」
 ギョクハンはしっかりとバケーロを見返した。
「それはよかった」
 微笑み、というよりも、不器用に口元を歪めるような顔で、バケーロはうなづいた。
「アスラン王子を手に入れれば、我々も盤石といったところです」
「しかし…」
 ギョクハンは出発前に初めて会った、幼いアスランの姿を思い浮かべた。
「あれは王子というより、まだまだ幼い子供といった体で…どうにも、アスラン大王のような、人を惹きつけるものがないと言いますか…」
「王子の資質などどうでもよい」
 そのギョクハンの言葉を、バケーロはすっぱりと断つように言った。
「そんなものは、問うに値しない。王子の価値など、アスラン大王の、アナトリア王家の血を引いていると言う一点に尽きる。王の頭上に輝く冠のように、その子供に王子という飾りがついているだけで奪う価値がある。そういうものではないですか?」
「おっしゃるとおりです」
 ギョクハンは身を縮めて言った。
「余計なことを言いました」
「まあ、それはそれでいい。それよりも、王子に気取られぬうちに、出発は早い方がいいですね」
「それは構いませんが…その、私は将軍をネア・クゼイに引き入れればそれで良いと?」
「あなたの動きは、大王に漏れていないでしょうな?」
「はい、それは…。ほとんどの兵はハルハへ遠征に出ておりますし、残ったものたち…関の兵たちにはたっぷりと金貨をやって口止めをしてあります。ですから…」
「それなら、我々の用意は整っています。我々は陸路から、そして船団は北の海より、ネア・クゼイに入るつもりです」
「北の海から船、ですか?」
 ギョクハンは耳を疑った。
 真夏にも氷の浮かぶ北の海に、一体グラン帝国の船はどうやって来ると言うのか。
「また余計なことを申すようですが…」
「心配召されるな」
 おずおずと口を開いたギョクハンを、バケーロは鼻で笑うように言った。
「そのときになれば、わかりますよ。そして、そのときにはネア・クゼイは我々のものだ」
 バケーロは独り言のように言った。
「ネア・クゼイはグラン帝国がこの大陸を征服するための第一歩、東の足がかりになるでしょう。その役目を担うのに、彼の地は最適だ。その地理の堅牢さゆえ、古代には強い都があったそうじゃないですか」
「ええ、あの呪いの大樹によって滅ぼされたという、大きな都が」
「呪いの大樹か。…一つ聞くが、どうしてあなた方はあの樹を切り倒してしまわないのですか」
「と、言いますと…?」
 ギョクハンの不思議顔に、バケーロは、また顔を醜く歪めるようにして笑った。
「アナトリアのアスラン大王は、たかが樹すら征服できない男なのでしょうか」
「とはいっても、あれは非常にその、巨大で。斧も受け付けぬし、どうにも切り倒せるものではありません」
「ふん、そんなものどうにでもなるでしょう」
 ギョクハンの反論に、バケーロは口元を歪めた。
 しかし、その口元とは対照的に、バケーロの青い目は、その言葉が未来に起こる真実であることを物語るように冷たく穏やかだった。
「それなら、ギョクハンどの。我々がネア・クゼイに着いたなら、その呪いの大樹とやらを真っ先に倒してごらんにいれましょう。いずれあの地には、我が皇帝陛下がいらっしゃる。そんな神聖な地に、呪いの大樹などという不吉なものがあるのは好ましくない。それに…」
 バケーロの瞳は、猛獣が獲物を見つけた時のように、すっと細くなった。
「皇帝陛下はこの世の神でいらっしゃる。その神の在る宮殿を見下ろす大樹の存在など、皇帝陛下はお許しにならないだろう」
「神、ですか…」
 ごくり、と喉を鳴らして、ギョクハンは唾を飲み込む。
「ええ、その神の軍勢につくのだから、あなたは運がいい」
 ギョクハンの畏怖の表情を鼻で笑うと、バケーロは後ろの直立不動の男を呼んだ。
「おい、イアゴ」
「はい」
「あの、それで私はこれからどうすれば…」
 いつもならば、バケーロがイアゴに声をかけるのは、密談が終わり、通訳の商人に礼の金貨を手渡すそのときだけだ。
 バケーロは、今日、ネア・クゼイに向けて出発すると言っていたのに、通訳を帰らせて、どうするというのだろう。
 おろおろするギョクハンを尻目に、イアゴは小さくうなづくと、通訳の商人を手招きし、いつものように金貨一枚を差し出す。
 商人は笑顔のまま立ち上がり、バケーロに背を向けてイアゴの金貨を手に取ろうとした。
 その瞬間のバケーロの動きは早かった。
 バケーロが腰に帯びた細身の剣を引き抜いた。と思った次の瞬間、ギョクハンの目に映ったのは、その剣に背後から心臓を刺し抜かれた商人の姿だった。
 突然の血飛沫が、わけもわからず椅子から腰を少し浮かせたまま硬直したギョクハンの頬をかすめて飛ぶ。
 一張羅に血の染みがついたら、ことだぞ。
 あまりに突然の出来事に驚いたギョクハンの頭の隅に、ちらりとそんな考えがよぎる。
 急所を突かれたためか、小さな呻き声すら上げずに、あっけなく商人は床に倒れ込んだ。
 そして、その身体から剣を引き抜いたバケーロは、続けざまに、部屋の隅で真っ青な顔をした猫目の女に襲いかかる。女は悲鳴らしい悲鳴もあげずに、バケーロの剣を胸に受けると、恐ろしいほど簡単に絶命して床に転がった。
 その一連の動作は、まるで時間を止めた空間の中を、バケーロ一人が自在に飛び回っているような感覚で、見開いたギョクハンの目に映った。
「………」
 バケーロは、イアゴがいつのまにか差し出した白い布を無造作に受け取ると、剣を拭い、何事もなかったかのように鞘に収める。そして、未だ硬直の解けないギョクハンを、今までと少しも差異のない表情で振り返った。
 一瞬で二人の命を奪っておきながら、この男はどうして少しも動じずにいられるのだ?
 ギョクハンは心の底から震え上がって、しかしその視線をバケーロから離すことができなかった。
 いや、それとも本当は何事も起こらなかったのか? もしかしたら、今、私が目に映したのは、白昼夢であったのだろうか?
 しかし、バケーロの向こうに転がる、二つの動かぬ塊が、バケーロの手に飛んだ赤い液体が、ギョクハンにこれは現実なのだと呼びかける。
「…密約が漏れるのは、避けたい」
 バケーロが下手なアナトリアの言葉で、誰とはなしにつぶやく。そして今度は、あの底冷えするような青い目でギョクハンを見据えてはっきりと言った。
「ギョクハンどの。あなたももう後戻りはできない。わかっていますね?」
 ギョクハンは目を見開いたまま、ぎこちなく顎を引いてうなづいた。
 息子のため、イリヤのためだ。
 ギョクハンは馬鹿になったように、その言葉だけを胸の中で繰り返した。
 立ち上がってこちらを見下ろす、目の前のバケーロの身体は大きく、自分とは明らかに人種が異なっていることを、ギョクハンに明確に知らしめるものであった。
 その妙に白い肌も、顔にかかった縮れた茶色の髪も、そして目には見えないこの男の思考回路さえアナトリアの者とはまるで違う、神を名乗る皇帝が従える、恐ろしい怪物なのだ。
 私は悪魔と取引をしてしまったのかもしれない。
 ギョクハンの真っ白な頭の中に、そんな思いが浮かんでは消える。
 しかし、いまさらそんなことに気付いても遅いことなど、明白だった。
 悪魔と取引する材料を、ギョクハンはすべて目の前のテーブルに並べてしまい、その契約のしるしはたった今、ギョクハンの身体に刻まれてしまったのだ。
「そうそう、これを先に渡しておきましょう」
 バケーロのつたない言葉が、何か汚らわしい響きを持ってギョクハンの耳に響く。
「…ありがとうございます」
 しかし、ギョクハンは震える声で礼を言うと、目の前に差し出された、イリヤの薬の入った青い小瓶をバケーロの太い指先から受け取った。
 そのギョクハンの様子を、バケーロは満足げに一瞥すると、口元を醜く歪めて言った。
「さあ、我々をネア・クゼイまで、案内して下さい」

  *

 久しぶりの外出だった。
 顔を見られないようにというミネの主張で、顔半分を覆うように巻いた布がうっとおしいけれど、外に出られるのならどうでもいい。
 アスランは鬱々とした気分を吹き飛ばすように、大きく外の空気を吸い込んだ。
 あの日——皆に無断で森へ行った日、泥だらけになったアスランがギョクハンの屋敷に帰りついたのは夕方になってからで、その禁断の冒険が誰にも知られないわけがなかった。
『小アスラン様』
 特にミネは、アスランが今までに見たことがないほど怒っていた。
『何のために、アスラン大王様が、メルヴェ様が、小アスラン様をここへやったのか、今一度お考えになってください。そしてその答えが出るまでは、このお部屋から出ることは許しませんからね』
 ミネはそう言うと、その日の夜から、アスランの部屋の前の廊下で寝起きして、文字どおりアスランから一秒たりとも目を離すことを拒否するようになった。
 用を足すにも、部屋で本を読むにも、まるで親の敵のようにじいっと視線を外さないミネに根負けしたアスランは、もう決して一人で出かけないと、ミネに固く約束した。
 そして、その代わりにということでもないが、今日はミネと護衛たちと一緒に、月に一度開かれる、町の市場に買い物に来ていた。
 それでも、今までのアスランなら、いくら部屋に閉じ込められるのが嫌だと言っても、市場へ行ってみたいなどと言いだすことなどなかっただろう。
 アスランにそんな思いつきをさせたのは、ほかでもない、あの大樹の声との会話であった。
 もちろん、アスランもあの呪いの大樹と話したなんてことは、まだ誰にも言っていない。
 もし、大樹と話したなどと、アスランが周りの誰かに、例えばミネに言ったとしても、そんなことミネは信じてくれるどころか、アスランが病気か何かだと大騒ぎするだけだろうと思ったのだ。
 そんな誰にも言えない秘密の会話を、アスランは毎日思い出してはため息をついていた。
 僕は、どうして何にも知らないんだろう。
 これもミネに見つからないように、肌身離さずポケットに入れている、大樹のくれた金の髪飾りを指先で触りながら、アスランは前を行くミネの肉付きのいい背中を眺めた。
 大樹の質問に何も答えられなかった自分に、アスランは悔しいと同時にとても恥ずかしかった。
 きっと、王である父様なら、あの問いにすべて答えられるはずなんだ。それなのに、僕は何も答えられない。
 そんな思いで周りを見回すと、世界はアスランの知らない事だらけだった。
 例えば、ミネは一体どうして僕の世話をしてくれるのか。
 例えば、どうして他の人の家は、ギョクハン#義叔父{おじ}さんの屋敷やアユディスの宮殿よりも小さいのか。
 例えば、僕が今食べているものはどんなふうにして、大地から生えて来るのか。
 王宮にいた時に、アスランは文字を習った。そしてアナトリア王国の歴史を読んだ。それから、兵法書を読んだ。
 けれど、そのどの本も、アスランの生活がどうして成り立っているのか、教えてくれはしなかった。
 金銀に彩られた豪華な生活は、一体どうしてアスランに与えられるのだろう。大樹のどんな問いにも答えられない僕が、どうして王になれるのだろう。
 大樹の単純な疑問の答えを、アスランはいつのまにか自分自身でも求めるようになっていた。
「小アスラン様、ぼうっとしないでくださいましよ」
 山と積まれた丸い根菜を手にとって確認しながら、ミネが心配そうに、心ここに非ずといった風のアスランを見た。
 アスランは我に返ると、ミネの手にしたものを不思議そうに見た。
「うん、大丈夫だって。…ところでミネ、それは何?」
「これ、でございますか?」
 アスランの質問に、ミネは目を瞬かせて聞き返した。
「うん」
「これは…根イモでございますよ。今朝もお召し上がりになったでしょう。あの、スープに入った…」
「ああ、あの四角い?」
「そうでございますよ」
 アスランはまじまじと、少しでも触ったら崩れてきそうなバランスで積まれた根イモを眺めた。
 いつもアスランの食卓に上る根イモは、真っ白で綺麗で小さな四角形のものだ。それなのに、目の前の根イモは、小さく真っ黒で大きく、形も真ん丸である。
「洗うと、白くなるの?」
「いいえ、あの黒いのは皮でございます。皮をこそげて、それから切り分けで、料理するのでございますよ」
「ふうん…」
 ミネは早口でアスランに説明しながら、根イモをかごに計ると、その重さの分のディル銅貨を根イモ売りに渡す。
「はい、毎度あり」
 根イモ売りは銅貨を確かめると、にかっと歯を出して笑った。
「さ、次へ行きましょう。次は…」
「ねえ、ミネ」
 せかせかと急ぐミネの背中を追いかけて、アスランはそっと訊ねた。
「ねえ、あの根イモ売りの人は、どうして根イモを売っているの?」
「はい?」
「だから、あの人が根イモを売るのはなぜ?」
 何を言われているのだかわからないと言った顔で、ミネは眉根を寄せてから、何かを諦めたように小さく首を振って答えた。
「それは、生活するお金を得るためでございましょう。…ああ、本当にここには野菜しか売っていないのねえ」
 月に一度の市だというのに、店もまばらなら人もまばらの大通りをきょろきょろと見まわしながら、ミネは歩き回る。
 ミネに置いていかれないように、アスランも早足で歩きながら、質問を続けた。
「それなら、お金はどうして必要なの?」
「どうしてって、お金がないとミネがこうして品物を買うこともできませんよ。そうしたら、小アスラン様の御食事も、用意できませんでしょう?」
「そうか」
「ええ、そうですよ」
 アスランの納得した顔に、ミネがほっとした顔をしたのもつかの間、また新たな疑問が浮かんだアスランは、ミネの服の裾を引っ張った。
「でもさ、あの根イモ売りの人は、どうして根イモを持っているの?」
「…それは、根イモ売りが根イモを育てているんでしょうよ。小アスラン様、ミネの服をお離しください、みっともない」
「うん…」
 アスランは素直に裾を掴んだ手を離すと、ミネを見上げるようにして訊いた。
「じゃあ、僕も根イモを育てたら、食べ物に困らないよね? そしたらミネはお金が無くても、僕の食事が作れる?」
「小アスラン様は、根イモをつくる、農民におなりになりたいのですか?」
 足を止め、呆れかえったように言うミネに、アスランはもどかしく首を左右にかしげながら言い返した。
「違うよ。違うんだよ。そうじゃなくって、どうして根イモを売る人と、買う人がいるのかなって。分からない? それなら、ええと、どうして僕は、根イモを売らないのに生活ができるのかしら?」
「…まったく小アスラン様はミネには想像のつかないことを考えていらっしゃる」
 ミネは考えることを拒否するように小さく頭を振った。
「どこの国の王子様が、根イモを売って生活してるんですか」
「だから、ミネ、僕の言ってることは違うんだよ…」
 違うんだけれど、と煩悶しながらも、やっぱりうまく説明できないアスランは、ミネに訊ねるのをやめて、大きなため息をついた。
 自分は大樹の問いの意味すらきちんとわかっていないのだ。そんな、自分自身にも説明できない問いを、ミネに訊ねても期待する答えなど返ってくるはずがない。
 大樹への問いのとっかかりもつかめずに、アスランは困惑した。
「わからないことがあれば、書物を読めとアユディスの先生はおっしゃってましたよ」
 今度はじっと考えこんでしまったアスランを見かねたように、ミネが言って急に足を止めた。
「わ、何?」
「ほら、あそこの本売りでも、見てきたらいかがですか」
 ミネの指差す先には、店とは言えないような、地面に布を広げただけの上に本を並べている若い男がいる。
「ああ、そういえば」
 アスランは根イモのことを忘れて、ふとまだ部屋で伏せっているイリヤとの約束を思い出した。
「イリヤに本を買っていってあげるって約束したんだっけ」
 とは言っても、イリヤの読んでいない本なんて、見つけられるのかな?
 アスランは顔をしかめて、都の図書館のような、イリヤの部屋を思い浮かべた。
「ああ、それはよかった」
 アスランの言葉に、ミネは大急ぎでうなづくと、後ろの護衛たちに目配せした。
「イリヤ様と約束なさったのなら、なおさらです。ああ、大丈夫ですよ、その間ミネは一人で買い物を済ませてきますから」
 ミネはアスランの質問攻めから逃れられるとばかりに早口でそう言うと、自分は買い物の続きをしにさっさとアスランの元から立ち去ってしまった。
「あ、もう、ミネったら…」
 あっという間に通りの向こうへ消えたミネに、アスランは口を尖らすと、ため息をついた。
「しょうがないなあ、もう」
 不自然に顔を隠したアスランは、屈強な男たちがぞろぞろとひきつれて本売りの方へ近づいた。
「いらっしゃい」
 小さな箱に腰をかけた本売りの男は、アスランをちらりと見上げて手の中の酒瓶をチャポチャポと音をさせて振った。
 まだ昼間だと言うのにもう大分飲んだ様子で、男の顔は真っ赤で、息も酒臭い。
 酔っぱらって、商売ができるのかな。でもここから動いてミネとはぐれてもいけないし…。
 酔っぱらいの前から立ち去ろうかどうしようかと迷うアスランを気にすることなく、男は上機嫌でアスランに話しかけた。
「学生さんには見えないが、文字が読めるのかい?」
「あ、はい」
 男の問いについ素直に答えてから、アスランははっとして口を押さえた。
 文字を読める人が珍しくないとはいえ、その教育は大抵アスランよりも年上になるころから始められる。
 だから、アスランのような子供で文字を読めるということは、その言葉でそれなりの身分を証明したことに変わりなかった。
 しかし、男はそれ以上のことを聞くでもなく、肩をすくめて並べた本を酒瓶で示した。
「君の興味を惹くような本がこの中にあるといいけどね」
「中を見てみてもいいですか?」
「もちろん」
 アスランは地面にしゃがみこむと、一番分厚い本を手にとって妙にごわごわとした頁をめくった。
「この本…紙じゃないんですか?」
「ああ、それは羊皮紙だよ。山羊の皮をなめしてつくるんだ」
「じゃあとっても古い本なんですね」
 アスランが感心したように言うと、男は真っ赤な顔に奇妙な笑みを浮かべた。
「古い? そうだな、俺も長く生きてるもんでね」
「そうなんですか?」
 アスランは少し顔をしかめて、目の前の男の顔を見た。
 身なりが汚いせいであまりよくはわからないが、男はせいぜい二十歳かそこいらといった風情で、長く生きているというなどという言葉はどうにもそぐわない。
 男は自分に疑いの眼差しを向けるアスランに、チャポンと瓶の中身を揺らして空を指した。
「信じられないかもしれないが、俺はあの大樹と同じくらい、長生きしてるんだぜ」
「…大樹と同じくらいって、そんなこと」
 ない、と言いかけてアスランは黙った。大樹を見る酔っぱらった男の目が、微かに潤んでいるように見えたからだ。
「…久しぶりにクゼイへ戻るといけないな。どうも調子が狂って結局酒を飲まなきゃいられなくなる。いつもなら一滴だって飲まないってのに」
「お兄さんはここの人じゃないの?」
 独り言のようにしゃべりながらも酒瓶を傾ける男に、アスランは聞いた。
「さて、俺の長い人生でどこが故郷かと聞かれても、あちこち転々としてる身じゃ、どこが故郷ってこともないもんだ。ま、ここは思い出の土地ではあるけどね」
 男はアスランの手の本をトントンと指で叩いた。
「俺はいろんなとこを旅して、そこで見たことを本に綴ってんだ。俺に出来ることといったら、それくらいでね」
「じゃあ、これは大事な本なんじゃないですか? それなら僕…」
「いいや、いいんだ。君が欲しいのなら、ここにある本全部持っていってくれ。俺が持っていたって、何の役にも立たないからな」
 男はやっと酒瓶を地面に置くと、並べてあった数冊の本を重ね、すべてアスランのほうへ押しやった。
「大事に持っていてくれりゃ、それでいい」
「それはもちろんです。でも、本当にいいんですか?」
「いいと言ってるだろう」
「それなら…」
 アスランは本を後ろの護衛に渡し、ミネから渡された金貨を出そうと、慌ててポケットの中をまさぐった。
 しかし、あんまりアスランが慌てたせいか、ポケットの中から金貨の代わりに、例の金の髪飾りがぴょこんと飛び出し、涼やかな金属音を立てて地面を転がった。
「わ、ごめんなさい、それ…」
 転がった髪飾りは、男のぼろぼろになった靴にこつんと当たって小さく跳ね返ると、大樹の葉の隙間からこぼれ落ちた空の光を精いっぱい反射してぴかりと光った。
「…これは、君の?」
 男は腰をかがめてその髪飾りを拾い上げると、目の前にかざしてじっと眺めた。
「はい、ええと、でも…」
 男の言葉に思わずうなづいてから、アスランは男の自分が髪飾りなど持っているのはおかしいことに気付いて、何と言うべきか言葉を失った。
「…それとも、どこかで拾ったか?」
 一気に酔いがさめたような男の真剣な目が、アスランを問いただすような光を宿してこちらを見つめる。
「あの…そうじゃなくて、人にもらったんです…」
「もらった? そうか…」
 男は一気に年を取ったような声でそう言うと、黙ったままアスランに髪飾りを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
 アスランはその髪飾りを受け取ると、ポケットに仕舞い、代わりに本の代金を男に渡そうとした。
「あの、お兄さん、これ本の代金…」
「金は要らないよ」
 男はアスランの金貨をちらりと見ると、疲れ果てたように額に手を置いて答えた。
「でも、お兄さんは本を売って生活をしているのでしょ? だから…」
「この本は金のために綴ったわけじゃない」
「でも…」
 困惑するアスランに、男ははっきりと首を振った。
「金などなくても、俺は生きていける。いや、生きると言うよりは、死ねないと言うべきか…。これは間違いを犯した俺に、神が与えた罰なんだろうな」
 男の最後の言葉は、目の前のアスランの耳にやっと聞えるほどの、小さなつぶやきだった。しかし、すぐに男は自分の口から出た言葉をかき消すように、アスランに向かって明るい声で言った。
「ま、とにかく金は要らない。君がその本から何か得ることがあれば…」
「小アスラン様! 御本はいかがでしたか?」
「ミネ!」
 通りの向こうから、せかせかとこちらに向かってくる小太りの人影に、アスランは振り返った。
「アスラン? 君はアスランというのか?」
 ミネの呼び声に手を振り返すアスランに、男は少し驚いたように声を上げた。
「偶然だな。俺もアスランっていうんだ」
「本当ですか?」
「ああ」
 二人のアスランはお互いの顔を見て、目を瞬いてから、思わず笑った。少し古風な名前の二人が、田舎の小さな市場で出会ったことは、アスランには何か不思議な縁のように感じられた。しかし、今はのんびりと話している暇はなさそうだった。
「小アスラン様!」
「今、行くよ!」
 せっかちに自分を呼ぶ声に手を振って答えながら、アスランは男を振り返った。
「…それじゃ、お兄さん。僕もう行かなくちゃ」
 アスランは、自分と同じ名前の本売りの男に、すっかり打ち解けたような気分で言った。
「ああ、またな、アスラン」
 男も無邪気な笑みで、乾杯するようにアスランに酒瓶を掲げた。
「うん。アスランお兄さんも、お酒はほどほどにね」
 アスランはそう言うと、大急ぎでミネの元へ走っていく。
 本売りの男はその小さな背中を見送ると、空を見上げて酒瓶の底に残った、最後の一滴を喉の奥に垂らし込んだ。

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