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緑(りう)の一族

黒澤伊織

第二部 第二章 大樹の底

 どのくらい、気を失っていたんだろうか。
 アスランは目をあけると、遥か高い場所にある、ぼんやりと光の射す穴を見つめた。
 その空ほど高い場所にある穴から、自分は落ちてしまったのだろう。
 アスランはぼうっとしながら考えた。
 地上に残されたマクはどうしただろうか。僕が落ちたことを、屋敷の皆に知らせに戻ってくれただろうか。
 アスランはおそるおそる身体を起こす。すると、自分の身体の下にある、ふわっとした分厚い苔に触れた。
 どうやらこの苔がクッションの役割を果たしてくれたおかげで、アスランは助かったようだった。
 けれど、落ちた時にどこかに引っかけたのだろう、服の袖の部分が破れ、アスランの腕には小さな擦り傷が出来ている。
「痛い…」
 アスランは口をへの字に曲げて、腕を押さえ、うらめしく天井の穴を見つめた。
 こんなところで怪我をしたというのに、傷を消毒してくれるミネはおらず、それどころかアスランは一人きりだ。
 傷から悪いものが入って、死んじゃったらどうしよう。
 薄暗い森から、さらに暗い穴の中で、ぎゅっと腕を押さえ、泣き出しそうになりながら、アスランは目を凝らして辺りを見回した。
 空の光を見つめていたからだろうか、アスランの目はその暗さに慣れずに、何も映しはしなかった。
「暗いのなんて怖くないよ、僕は誇り高きアナトリアの…」
 自分を勇気づけようとつぶやいた言葉に、アスランはますます心細くなって、ぎゅっと自分の身体を抱きしめた。
「母様…ミネ…」
 もうアスランは限界だった。目には涙が溜まり、あと一つ、瞬きをすれば、その涙は地面に転がり落ちてしまいそうだ。
 しかし、そのとき徐々に暗闇に慣れたアスランの目に、周りにあるものの輪郭がぼんやりと映り始め、アスランはごしごしと目をこすって顔を上げる。
 そしてはっきりとその目に映ったその見覚えのある風景に、アスランは泣き出しそうになっていたことも忘れ、驚きに思わず声を漏らした。
「ここは…?」
 アスランの高い声が、周囲に透明にこだまする。
 ここはどこなのだろう。
 そこはまるで地下につくられた部屋のような空間だった。
 しかし、それもレンガのようなきれいな長方形の石が、壁のようにいくつか並んでいることから部屋だったのではないかと察せられるだけで、もともとの部屋の様子などは微塵も残っていなかった。
 アスランの後ろの崩れたような壁はツタに覆われ、目の前の壁は完全になくなって、地上にそびえる大樹が伸ばした大きな根が、がっちりと大地を掴んでいる。
 しかし、アスランを驚かせたのはそんな光景ではなかった。
 その大樹の地下、大樹の底とでもいうべきその空間は、太陽の光も届かぬような、暗く、湿った場所だった。
 そんな場所にも関わらず、今驚きで見開かれたアスランの目には、天国かと見紛うほどの、素晴らしく美しい花畑が映し出されていたのだ。
 どうしてこんなところに、職人が手をかけたような花畑があるの?
 アスランは呼吸をするのも忘れて、そっと一つ瞬きをすると、目の前に咲く花にそっと触れた。
 今咲いたばかりかという、瑞々しいその花は、アスランの手に水滴を一つ落として、可憐に揺れる。
 一面に咲き誇るその花の色は、光になど照らされなくとも、アスランの頭の中に色とりどりに、鮮明に映し出されていくようであった。
 この花は、母様が大好きな花だ。
 アスランはこの大樹の底一面に、まるで絨毯のように咲き誇るこの花の名前を知っていた。
「ラーレの花だ…」
 どうしてこんなところに、こんなにたくさん咲いているのだろう。母様の庭にさえ、こんなに美しく咲いてはいなかったのに。
 アスランは不思議なその風景に、屈み込んだまま、しばらくラーレの花の絨毯をぼんやりと見つめた。
 綺麗な花だ。
 特にこの花が好きなメルヴェが、たくさん植えさせたのであろう、アユディスの宮殿の庭に咲いていたものよりも美しいラーレの花を、アスランは懐かしい気持ちで眺めた。
『お花にはね、太陽の光と、お水が必要なのよ。それから、たっぷりの愛情もね。そうしないと、お花は咲いてはくれないのよ』
 アスランがネア・クゼイに発つ前の日も、メルヴェは美しい庭を眺めながら、いつもと同じ言葉をつぶやいた。
『ふうん』
 大好きな母の視線を花に取られてつまらないアスランは、メルヴェの気を引くためだけに、口を尖らせて見せた。
『花なんか育てたって、何にもならないよ、母様。戦に行けば、花の世話なんかできないし』
『そうね』
 その言葉に、メルヴェはアスランに顔を向け、少しだけ笑った。
『さすが、獅子王様の息子ね』
 いつもの微笑みとは違い、目の前のメルヴェの微笑みには、どうしてか陰があった。
 けれど、アスランはそれに気付かぬふりをして、思い切り玩具の剣を振り回した。
『そうだよ、母様。僕が大人になったら、獅子より強くなってみせるよ! 母様と離れるのは寂しいけど、でも帰ってきたら、すごく強くなってるから楽しみにしててね』
『頼もしいわ』
 メルヴェはアスランをじっと見つめてから、再び花に視線を戻した。
『…でも』
『なあに?』
 今日の母様はいつもと違う。
 アスランはその頬笑みにメルヴェが隠そうとしているものを知って、わざと無邪気ない瞳をメルヴェに向けた。
『…何でもないわ、アスラン。この花をね…』
『花?』
 アスランは剣を振るのをやめ、メルヴェの見つめる先のラーレの花に目をやった。
『そうね、アスランがとっても強くなって、戦が起こらないようになったら…』
『うん』
 母様は悲しいのだ。僕が、アユディスを離れてしまうから。けれど、僕に涙を見せないように、ああやって微笑んでくれているのだろう。
 そんなメルヴェの気持ちを思うと、アスランも急に寂しさがこみ上げて来て、玩具の剣を投げ捨てると、ぎゅっとメルヴェの服の裾を掴んだ。
『アスラン…』
 メルヴェはアスランの頭を、薄いてのひらで一つ、撫でた。
『…もし、戦がなくなったら、そうしたら、草原を私の好きな花で、ラーレの花でいっぱいにしてほしいわ。…どうかしら、小さな未来の王様? そうしたら素敵だと思わない?』
 そんなことしなくたって、草原には野の花がたくさん咲くよ、母様。
 そう言いかけた言葉を、アスランは顔を俯かせると、ごくんと音を立てて飲み込んだ。
 草原に咲く野の花ではなく、この美しく儚いラーレの花でなければ、悲しげなメルヴェを微笑ませることはできないことをわかっていたからだ。
『うん…母様が素敵だっていうなら。僕、そうしてあげる』
『ありがとう、アスラン』
 そう言って、メルヴェはアスランに微笑んだ。
 その微笑みが例え悲しみを隠すものであっても、メルヴェの笑った顔は、アスランが知るどの笑顔よりも素敵だった。
 だから、アスランもメルヴェににっこりと笑った。そして、目の前で自分だけに向けられたその上品な微笑みを、アスランは目にしっかりと焼きつけた。
 父様がまた無事に戦から帰ってきて、そして僕がアユディスに帰ったら、母様はきっとまたこんなふうに美しく笑ってくれるだろう。アスラン、お帰りなさい、と言って。
『約束する』
『ええ』
 今、目の前に広がったラーレの花は、まだ離れてひと月も過ぎていない、宮殿の生活を、優しく美しいメルヴェを、雄々しく戦に行く大アスラン王を、アスランの脳裏にまざまざと蘇らせた。
「母様、父様…」
 その遠く懐かしい幻想から現実に戻り、アスランは途方に暮れて、小さな声でつぶやいた。
 しかし、当然のことながらアスランの言葉に応える者はおらず、それどころかこの場所にアスランが一人であることを思い出させるように、大樹の底は冷たく澄んだ音で小さな独り言を響かせる。
「どうにかして、ここから抜け出さなくっちゃ…」
 アスランは胸の中に生まれた小さな不安をかき消すように、わざと声に出して言った。
 しかし、その声も閉じた空間に寂しく響いて、そしてまたしんと静かになる。
 僕が、自分で出口を見つけなくちゃいけないんだ。
 アスランはできるだけ落ちついて、周りの壁をたどり、出口を探す。しかし、厚いツタに覆われた壁も、冷たい地面も、どこもアスランにここから這い上がる術を教えてはくれない。
「このツタから、登れないかな…」
 しかし、ぎゅっとアスランの手が掴んだツタは、その体重に耐えかねてぶちぶちと切れ、どうにも使い物になりそうになかった。
「どうしよう…」
 地面を埋め尽くす花につぶやいてみても、花が答えるわけもなく、忘れていた腕の擦り傷もずきずきと疼くように痛み始める。
 そのとき、アスランの目に何かきらりと光るものが映った。
「…あれ、今…?」
 その光るものを探して、アスランはラーレの花をかきわけた。
「これは…」
 アスランはきらきら光を放つものを指でそっとつまみ上げ、じっと見つめた。
 それは、見るからに高価そうな、金の髪飾りだった。
 その金の地に装飾として、真っ白に輝く小さな石で描かれた、馬の絵が埋め込まれている。
 長い年月、花の中に埋もれていたのだろう、泥に汚れてはいるが、アスランが千切れた袖で泥を落とすと、再びその輝きを取り戻し、きらきらと光を反射した。
「これは、マクヒア馬みたい…」
 金にマクヒア馬の像が埋め込まれた髪飾りなんて、とっても価値があるものだろう。もしかしたら王家の、滅びた都の妃様が持っていたものかもしれない。
「ここに都があったっていうのは、本当だったんだ…」
 アスランは髪飾りの泥をきれいに拭うと、改めてその美しい細工に嘆息した。
 こんなに綺麗なものだもの、母様にあげたら、きっと喜ぶに違いない。
 そう思ってから、アスランは出口のない洞窟を見回して、ため息混じりに言った。
「ここから出られたら、の話だけど…」
「ここから出たいのなら、そんなものを手にしていても無駄よ」
「誰?」
 アスランのほかには誰もいないはずの洞窟に突然響いた、少女のような声に、アスランは腰を抜かして花の中に倒れ込んだ。
 そしてその声の主を探すように、きょろきょろとあたりを見回すが、周りに人影らしいものはない。
 アスランは深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、おずおずと小さな声で呼びかけるように言った。
「だ、誰かいるの…?」
「誰もいないわ」
 声はあっさりと答える。
 アスランはその答えに、目をぱちくりさせて聞き返した。
「誰もいないってどういうこと? 僕をからかってるの?」
「からかってなんかいないわ」
「それなら、どういうことだよ」
 淡々と話す声に、アスランは恐ろしいような気持ちになって、けれどそれを気取られぬように虚勢を張って叫んだ。
「どういうことかって聞かれても、その通りよ。そこにはあなたしかいないわ」
「それはおかしいだろ。だって、じゃあ僕に話しかけてる君は誰なのさ」
「ああ…」
 声はやっとアスランの求める答えに気付いたかのように、声を上げた。
「人間と話すのは久しぶりだから…。あなたは私が誰か知りたいのね」
「そうだよ、それ以外にどういう意味があるっていうんだよ」
「ごめんなさい」
 声は、少し柔らかい音色に変わって言った。
「でも、誰と聞くのは間違いよ。だって私は、あなたの目の前の大樹なのだから」

  *

「大樹…? 僕に話しかけてるのは、君は、呪いの大樹なの?」
「そうよ。呪いの大樹だなんて、呼ばれたくはないけれど…」
 アスランの驚きに、全く関心を示そうともせずに、そっけなく大樹は答えた。
「そんな、嘘だ…」
 アスランは地面に這いつくばったまま、顔を上げて遠い地上に開いた穴の向こうを見つめた。
 もちろん、そこから大樹の話している姿が見えるわけでもない。声のする方角も、どうやって大樹が自分に話しかけているのかさえ、アスランにはわからない。
 けれど、自分に声をかけて来る相手を、仮にでもそこにいると思わなければ、どこから聞こえてくるのか分からない声というのはとても不気味なものであった。
「呪いの大樹が、僕に話しかけてるだって? そんなこと…」
 にわかには信じられるものではない。けれど…。
 アスランは震える手を腰にやると、玩具の剣の柄に手をかけた。
 僕は、呪いの大樹をやっつけてやろうと、ここまでやってきたんだ。そう、この剣を引き抜いて、物語の中の王子様のように、悪い怪物に切りかかるんだ…。
 けれど、アスランは剣の柄を握ったまま、一体どうしたらいいか分からずにためらった。
 僕が腰に下げているのは、刃のない、玩具の剣だ。こんなもので、姿も見えない呪いの大樹を、どうやってやっつければいいんだ。
「その剣を、どうする気なの?」
 アスランの様子に気付いた大樹が、ため息が混じったような声で訊ねる。
「どうするって…」
 僕がこの剣を抜けないとでも思ってるんだな?
 アスランは馬鹿にされたような気分になって、背伸びして、思い切り剣を引き抜いた。
「この剣で、剣でお前を倒すんだ! そのためにここまできたんだからな!」
「…そう」
「そうだ!」
「…別に、構わないわ。そんなもので、私が切れるとも思わないけれど」
 諦めたようなため息をつく大樹に、アスランは引き下がれずに、剣を構えたまま凄んだ。
「ほんとだぞ! だって僕は世界で一番強い獅子王の息子なんだからな!」
「一番強い、獅子王? それなら、あなたも王になるの?」
「そうだ! だって、僕は王子だもの!」
「そう」
 剣の切っ先を震わせて必死に叫ぶアスランに、大樹は謎めいた言葉を吐き捨てた。
「それならあなたは、大地を分け、支配する者なのね。金を集め、権力を恣にし、人の生死すら決めつける者」
「え? …大地を分け? …えっと、それって、どういう意味?」
 大地が? 金が、何だって?
 大樹が並べ立てた、まじないのような言葉に、アスランは毒気を抜かれて目をぱちぱちと瞬かせた。
 そんな、訳がわからぬ様子のアスランに、大樹は苛立ったようにさらに言葉を並べた。
「どういうって、そのままの意味よ。我がもののように大地を切り分け、支配し、自らの土地だけが豊かであれと願う者。それが王だわ。あなたはまだ子供なのに、そんな恐ろしいものになる気なのね」
「えっと、君…ううん、お姉さん…」
 相手が本当に呪いの大樹なら、自分よりもずっと年上だろう。
 そう思ったアスランは、急に冷たくなった声に慌てながら、おそるおそる呼びかけた。
「もしかして、この髪飾りは、お姉さんのものだったの? それを僕が取ってしまったから、だから怒ってるの? それならごめんなさい、これは返すから…」
 大樹に怒られる理由を他に思いつくことができず、そっと髪飾りを地面に置こうとするアスランに、大樹の声はますます冷たく言った。
「いいのよ。それはあなたにあげるわ。私にはもう必要のないものだから…」
「でも…」
「いいの、あなたが持っていってくれた方が、嬉しいわ」
 そう言う割には、ちっとも嬉しそうではない声に、アスランはためらいながらも、髪飾りをポケットにおさめた。
 その通りにしないと、大樹がもっと怒りそうな気がしたからだ。
「それでいいわ。…ありがとう」
 アスランが髪飾りを仕舞うのを見届けると、大樹は少し怒りを緩めたような声で礼を言った。
「きっとあなたのいるその場所には、他にも色々な珍しいものがあるはずよ。もし、あなたが欲しいのなら、すべて持って行ったっていいわ」
「ううん、別に何かが欲しくてここへ来たんじゃないんだ」
 アスランは慌てて首を振った。
「ただ、偶然この髪飾りを見つけて…母様にあげたら喜ぶかなって思って、つい…」
「母様に?」
「うん。お姉さんのものだって知らなかったから…ごめんなさい」
「…いいえ」
 それ以上の言葉が口から出ることを拒むように、大樹は短く言った。しかし、その言葉はどこか物憂げだった。
 アスランはようやく立ち上がり、もじもじと手の剣をいじった。それから見えない声をうかがうように、静かにそっと剣を鞘に収める。
「あの、ごめんね。僕、お姉さんのこと、誤解してた」
「…どんなふうに?」
「えっと、呪いの大樹って言うくらいだから、もっと悪い人かなって…」
 この大樹が悪いものならば、物語の中の悪のように、アスランに襲いかかってきただろう。
 しかし、そんなことはせず、自分の髪飾りまで持っていって良いなどと言う大樹は、アスランがどう考えても悪いものとは思えなかった。
「私は人じゃないわ」
「うん、そうだね。えっと、じゃあ…悪い大樹?」
 アスランは声の機嫌をうかがうように言いなおす。
「…何でもいいわ」
「うん…」
 ほうっとため息をつくように、大樹が揺れて葉をざわめかせる。
 ざざざと地上を風が通り過ぎる音を聞きながら、アスランも少し黙って空を見上げた。
 大樹のお姉さんは、何だか本当に悪い人じゃなくて、いい人みたいだ。
 風に運ばれてきた綿毛がそっと地面に落ちるように、アスランの胸の中に、ふっとそんな思いが浮かんだ。
 あの意地悪な言葉も、冷たい言い方も、なぜだかわからないけれど、わざとそんなふうにしているみたいだ。
 わざとそうしていないと、そう、まるで…。
 アスランの胸の中に、別れ際のメルヴェの表情と大樹の声が一つに重なるようにして、ぼんやりと浮かんだ。
 わざとそうしていないと、まるで、涙が止まらなくなってしまうかのように。
 メルヴェが微笑みの中に悲しみを隠したように、この大樹は冷たい振る舞いの中に悲しみを隠そうとしているのかもしれない。
 アスランはポケットの中の髪飾りに、そっと指先で触れた。
 お姉さんは、きっと悲しいんだな。
 その悲しみの理由はわからなかったが、どうしてかその憂いの音色に共鳴したアスランも、何だか悲しくなってしまってそっと俯いた。
「…ごめんなさい。少し、意地悪すぎたわよね」
 大樹の声が小さな声でアスランに謝った。しかし、その声はアスランではなく、誰かほかの人に向けられているようだった。
「私はまだ、許せないのね」
「許すって、何を?」
「…人間を、よ。私たちを追い詰めた…」
 強い風がさらっていきそうなほどの小さな声で、二人は会話を続けた。
「それって、誰か、僕の知っている人のこと?」
「いいえ。だって、とっても昔のことだもの。どうしてそう思うの?」
「それは…」
 アスランはつばを飲み込んで言った。
「お姉さんが、王様が嫌いみたいだったから…」
「嫌いよ」
 大樹の声は強くきっぱりと言った。
「私にはわからないもの。どうして大地を支配する者が必要なのか。どうして王は王を名乗るのか。ねえ、王になるという、あなたなら知っているの? あなたはなぜ王になるの?」
「なぜって…」
 矢継ぎ早の質問にうろたえるアスランに、大樹は畳みかけるように訊ねた。
「あなたの中に王たる資質があるのかしら? それならば一体それは何だというの? あなたは何のために王になるの? あなたの支配する大地を広げたり、そこにある物を好き勝手するため? それともきらきらした金粒を、できるだけたくさん集めて、豪華な暮らしをするため?」
「僕、僕は…」
 アスランは目を白黒させながら精一杯考えた。
 アユディスの王宮にはたくさんの金がある。豪華な衣装も、首飾りも、王冠も、そこいら中がきらきらとまばゆいほどの光を放っているし、贅沢な食べ物だって、美しい絵画だって、無いものはないのじゃないかと思うくらい、たくさんの物が溢れている。
 それに王は大地を支配するものだし、それ相応の権力だって、金だって、何だって手に入れられる。
 けれど、それが何のためなのか、アスランに王の資質があるのかと聞かれても、アスランは到底自分の中にその答えを見つけられそうになかった。
 考えこんでしまったアスランに、大樹は独り言を言うようにつぶやいた。
「ごめんなさい。まだ小さなあなたに、こんなこと言うべきことじゃないもかもしれないわ。私はただ、どうしてなのかわからないの。どうして人間が、大地に恵まれたものを口にするだけでは生きていけないのか」
「うん…」
 また、強い風が吹いて、大樹を、森全体を撫ぜていく。その風に、樹の枝にかろうじてつかまっていた森の木の葉たちが、空を舞い、そしてその葉の何枚かが、地上の穴から申し訳程度にアスランの頭上に落ちて来る。
 そのひらひらと舞い落ちた黄金色の葉を手にとって、アスランはぽつりとつぶやいた。
「もう紅葉も終わりだね。ここの冬はとても寒いって聞いた」
「そうね、もうじき…」
 大樹は唯一緑の葉の茂ったその身を震わせるように、枝を揺らした。
「もうじき、こんなふうに北の海から吹く風が止むと、今度は逆に陸から海に向かって嵐のような風が吹きすさぶの。その風が、この地の冬の始まりの合図よ」
「…そうなんだ」
 アスランは身体を縮めるようにして膝を抱えると、一つ身震いをした。
「でも、もうアユディスの冬くらいに寒いや」
「そうね。…あなたも早くおうちへ帰るといいわ」
「でも…」
 アスランは小さく首を振った。
「ここ、出口がないみたいなんだ。上まで登るなんて、僕には無理だし」
「そんなことしなくても、出口なら、ほら、そこに…」
「え? どこ?」
 大樹の驚いたような声に、アスランはきょろきょろとあたりを見回した。
「ほら、あなたの後ろの…そう、その厚いツタをめくって…」
「この穴?」
 そこにはアスランがやっと通れそうなくらいの、壁が裂けてできたような穴が開いていた。しかし、アスランが中を見通そうにも、真っ暗で、どこまで続いているのかさえ分からない。
「大丈夫よ、その先は大きな道のようになっていて、森の外に出られるようになっているから」
 アスランの胸の不安を見通したように、大樹は優しく教える。
「強い王になる者なら、怖くないでしょ?」
「怖がってなんかいないよ。えっと…」
「なあに?」
 アスランは背筋を伸ばして立ち上がると、空を見上げて言った。
「そういえば僕、名前も言ってなかったよね…僕はアスラン。皆は小アスランって…」
「アスラン?」
 一瞬、大樹が息を飲むような気配がして、アスランはまた何かおかしなことを言ってしまったのではないかとどきりとする。
 しかし、アスランの心配をよそに、次の瞬間には何もなかったかのように、大樹は落ちついた声で言った。
「…そう、わかったわ。それなら、さよなら」
「さよなら、じゃないよ」
 アスランは驚いて言った。
「今度はお姉さんの番だよ。お姉さんの名前は、何て言うの?」
「…私の名前なんて、聞いてどうするの?」
「どうするのって…」
 変なことを言うんだな、とアスランは首をかしげた。
「僕が名乗ったんだから、お姉さんの名前も教えてよ」
「そうね…」
 大樹は考えるようにつぶやき、ややあって、その言葉一つ一つを確かめるように言った。
「今の私に名はないわ。…そう、かつてはあったけれど、その名を呼ぶ人はいなくなってしまった。だから、私にはあなたに教えてあげられる名前はないの。ごめんなさいね」
「名前がないなんて、変だよ」
 アスランは大樹に抗議するように言った。
「名前は誰だって持ってるよ。僕の馬だって、ここに咲いている花だって。それなのに、お姉さんに名前がないの?」
「そうよ」
 声は何かを懐かしむように、憂いを帯びた音色で言った。
「もう私を呼ぶ人は誰もいないもの」
 悲しみの色を宿したまま、しかし声はきっぱりとアスランの言葉を断った。
「おうちの人が心配しているわ。あなたの馬も、もう帰ったはずよ。さあ、その穴を抜けて、早く帰りなさい」
「馬? マクのこと? よかった、マクはちゃんと帰れたんだ…」
 ほっと胸をなでおろすアスランに、なぜか大樹はますます悲しみを募らせたようだった。
「そうよ。だから…」
「ねえ、お姉さん」
「なに?」
「僕、お姉さんに聞かれたこと…王様や、人間のこと、もっともっと勉強して、答えられるようになるよ。そうしたら、またここへ来てもいい?」
 たどたどしく、一生懸命に、アスランは大樹に訊ねた。
 せっかく知り合えたのに、これでお別れなんて寂しい。もし、大樹がいいと言うのなら、アスランはまた大樹と話してみたいと思ったからだ。
 しかし、大樹はアスランの頼みをはねつけるようにきっぱりと、けれどどこか憂えるように言った。
「いいえ、もう来ないでちょうだい」
「どうして? 僕、きっと…」
「お願いよ、もう、これ以上…」
 その先の言葉はアスランには分からなかった。けれどやはり、大樹の悲しみだけは、アスランの心に直接響いて伝わってくるようだった。
「…わかったよ」
 アスランはしっとりと冷たい、小さな穴に手を置いた。
「それじゃ、さよなら。…お姉さん」
 四つん這いになってやっと進めるほどの穴の中をに、アスランはゆっくりと消えていく。
 そのアスランの姿が暗い穴に消えていくのを見計らったように、大樹はぽつりとつぶやいた。
「…名が同じあなたは、どこかあの人に似ているかしら」
 大樹が再びため息をつくように身を震わせると、その天まで届きそうな雲の上の枝から、疲れた青葉がはらはらと舞い落ち、風に運ばれて、ネア・クゼイの町に雪のように降り積もった。
 強い風をその身に受けて、静かに葉を落とすその大樹の姿は、まるでとめどなく涙を落とし泣き続ける少女のようであった。

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