緑(りう)の一族

黒澤伊織

第二部 第一章 誇り高き、アナトリアの王子

 もしも、このネア・クゼイの地に旅人がやってきたとしたら、その人間はまず、この地にほとんど太陽の光が降り注がないことに驚くことだろう。
 そして、その不思議な事実に気付いた旅人は、自然と空を見上げ、今度はこのネア・クゼイの空、すべて覆ってしまうほどの枝ぶりで広がる大樹の巨大さに、目を見張るに違いない。
 それから旅人は、眼前にそびえたつ大樹が、旅宿のうわさで耳にした、あの古代の都クゼイを一夜にして滅ぼしたと伝えられる呪いの大樹だということを初めて理解し、なるほど、その伝説も眉唾でもないかもしれぬ、と納得するのだろう。
 それほどに巨大なこの大樹の幹は一つの山ほどに太く、雲を突き抜けて太陽まで届こうかというその高さは、もし倒れれば海をまたいだ隣の国にまで橋を渡そうかというほどであった。
 しかし、それはもしもの話。
 アナトリア王国の都、アユディスから遠く離れた辺境である、この地をわざわざ訪ねて来る旅人など、まったくいないと言っても過言ではなかった。
 西の海に面した土地は断崖絶壁で港もつくれず、港をつくるにちょうどいい湾になった北の海は一年を通して凍りつき、今や当たり前となった船での往来による発展も、ネア・クゼイには遠く叶わぬ夢だった。
 それならばと、航路を諦め、陸路で広い砂漠をやっと越えたとしても、古代には要塞都市であったとも言われる、この地を囲む険しい山々のせいで、馬車道は一本きりしかなく、それを丸一日かけて上り下りしなければ辿り着くことができなかった。
 その上、そのくねくねと細い一本道には人々の往来を監視し、外敵の侵略にも対応できるよう関が置かれ、その関にもネア・クゼイの領主、ギョクハンによって目の玉が飛び出るほど高い通行料がかけられていたため、人々の往来は自然に途絶え、道はさびれる一方だった。
 人の行き来のないおかげで、ネア・クゼイの住人は畑を耕して自分たちの口にするものをつくるという、大昔から変わらないような生活を続けていた。
 しかし、それでも住人たちは不便を感じることはなかった。
 大樹に太陽の光が遮られているのにもかかわらず、不思議なことに畑の作物だけはよく育ち、よく実ったからだ。
 極端に凶作になることも、豊作になることもなく、作物はただ大地から芽生え、花を咲かせ、実りをもたらした。
 そして、その実はまた大地にこぼれ、次に芽吹くときをじっと待つのであった。
 食べていくのに十分な実りをもたらしてくれるネア・クゼイの大地を、ある人はあの大樹のおかげであると言い、またある人は、いやいやあの大樹がなければ、もっとこの地は豊かなのだと言った。
 しかし、そのどちらの言い分を信じるにしても、人々が飢える心配をしなくてもよいということは、十分に幸せなことであり、その大地を豊かにしているにしろ、そうでないにしろ、この巨大な大樹の姿も、もう誰も疑問に思うことはないくらい大昔から天にそびえ立つものであった。
「あの大樹の先は、どこまで続いてるのかな。ね、ミネは知ってる?」
 大きな椅子から宙に浮いた足をぶらぶらと揺らし、つまらなそうに外を眺めながら、アスランはミネ聞いた。
 アユディスの宮殿での生活と違い、ここネア・クゼイにある#義叔父{おじ}、ギョクハンの屋敷での生活は味気のないものだった。
 領主の屋敷の一室とは思えぬほどの粗末な部屋に、野菜ばかりの粗末な食事。それに、天を覆う呪いの大樹のせいで一日中薄暗いし、それならばとアスランの気を晴らすような楽団や、芸人の訪れすらもない。
 それでも、今までアスランが退屈しなかったのは、ギョクハンの一人息子、三つ年上のイリヤと兄弟のように意気投合したからだった。
 それなのにそのイリヤでさえ、今は生まれつき悪い心臓のせいで部屋で伏せっていて、アスランはイリヤの部屋を訪ねることすら禁じられている。
 それというのも、イリヤの具合が悪化したのは、お互い初めてできたと言っても過言ではない同じ年頃の友達に、少しはしゃぎすぎてしまったせいだと、イリヤの侍女にこっぴどく怒られたからだった。
 はしゃいだといっても、飛んだり跳ねたりしたわけじゃないのに、とイリヤから強制的に隔離された形のアスランは不満そうで、かといってイリヤの部屋に行く以外ほかにすることもなく、アスランは退屈し切っていた。
「大樹がどこまで伸びているかなど、ミネは存じませんよ」
 アスランが幼いころから身の回りの世話をしてきたミネは、アスランが覚えている限り、ころころと太ったのおばさんといった容姿で、今日も変わらずその太った身体をせかせかと忙しそうに動かしながら、部屋を出たり入ったりしている。
 その肉付きのいい背中を目で追いかけるようにしながら、アスランはミネに駄々をこねるように質問を重ねた。
「ね、あんなに大きかったら、天まで届いていると思う?」
「さあ、どうでしょうねえ」
「なぜあんなに大きくなるまで、誰にも切られなかったの?」
「なぜでしょうねえ」
「そもそも、あれは何の樹なの?」
「わかりませんねえ」
「もう、ミネったら! ちゃんと僕のいうこと、聞いてるの?」
 ミネのあんまりにいい加減な答えに、アスランは椅子の上に仁王立ちになって大きな声を出した。
「ええ、ええ、聞いておりますとも」
 アスランの大声にも、ミネはこちらを見向きもせずに答える。
「それならさ、あの大樹のことをみんなが呪いの大樹だっていうのは、何でなのさ」
 椅子の上で立ったまま、腰に手を当ててアスランはミネを見下ろす。
「そうですねえ、遠い昔の人がつけた名ですから。さ、そこから降りませんと、転げて落ちますよ」
「もう、ミネに聞いても何も分からないじゃないか」
 アスランはいよいよふくれて、しかしきちんと椅子に座り直すと、ぷいっと怒ったように窓の外に視線を戻した。
「ミネなんかより、イリヤのほうがずっとずっと物知りだ」
「小アスラン様」
 ミネはハムのような腰に手を当てると、初めてアスランのほうをたしなめるように見た。
 アナトリア王国の王であり、アスランの父であるアスラン大王と比して、アスランの周りの人々——ミネも、他の付き人たちも、まだまだ小さな子供のアスランに愛情を込めて、こう呼んだ。
 アスラン、とは古いアナトリアの言葉で、獅子を意味する、強く誇り高い名である。
 少し古風な名ではあるが、強く、偉大な父アスラン大王と同じ、アスランという自分の名を、アスランはとても誇りに思っていた。
「イリヤ様はまだお加減がよくないのですから、お部屋に行ってはいけませんよ。ちゃんとわかっていらっしゃいますか?」
「…誰も、イリヤのところに行くなんて言ってないだろ」
 アスランがふてくされたように言うと、木の窓枠にほおづえをつく。そのアスランの答えを聞いて、ミネはますます困惑したようにため息をついた。
「本当にいけませんよ。イリヤ様はお身体が弱いのですから。小アスラン様も、お部屋で大人しくお勉強でもなさったらいかがですか」
「イリヤと話してるほうが、よっぽど面白いし勉強になる」
「ですから、イリヤ様は…」
「だって、イリヤがいなきゃ、こんなとこつまんないよ」
「こんなところだなんて、小アスラン様、そんな言い方はありません。それに、王になる御身が、いつまでもそんなわがままを言われるようでは困ります」
「うるさいな、わかってるよ…」
 アスランはますます口を尖らせて返事をしてから、黙りこんだ。
 王になるのだから、とそう言われるとアスランは弱かった。
 ミネは事あるごとに、いずれは小アスラン様もアナトリア王国の王になるのですから、とアスランに言いきかせた。
 けれど、そう言われるアスランはまだ十で、一体王になるということがどういう意味なのか、あまりよくわからずにいるのが常だった。
 自分が王様になったら、どんなことをするんだろう。
 ミネにそんなお小言を言われた日に、眠れぬ夜に、アスランは幼い頭で、よくそんな想像をした。
 僕が王様になったなら、やっぱり父様のように、たくさんの騎馬隊を連れて戦に出かける。そして、母様が読んでくれる物語に出て来る怪物のような、悪い敵をやっつけてやるんだ。
 それからやっぱり父様がそうするように、悪い敵の大将の首を刎ねて、その生首を槍に掲げ、たくさんの僕の軍勢の前に高く掲げる。
 そうしたら僕の軍勢は大きな勝ちどきを上げて、みんなで勝利を分かち合い、勝利のしるしの生首を掲げたまま、みんなでアユディスの宮殿に帰る。
 そして、その恐ろしい形相をした生首に、父様を出迎えた母様が毎回気を失いそうになるように、僕を出迎える女性も足元をふらつかせながら僕をぎゅっと抱きしめる。
 そして最後に、そう、ここが一番大事なところなんだ。
 アスランはここで決まって口元をゆるめて、にっこりと笑った。
 最後に、父様が日に焼けた顔で笑って、分厚いでのひらで僕の頭を撫でてくれるるように、僕も僕の子供の頭を撫でてあげなくちゃいけない。
 いいか、お前は誇り高きアナトリアの王子なのだぞ、って。
 空のような濃い青に、金色の三日月の描かれた、無数のアナトリアの旗が、まだ見ぬ草原にはためくさまを、アスランは思い浮かべた。
 数百年続く、アナトリアの王の一人に、僕はいずれ名を連ねる。
 そして僕はその王家の名に恥じぬよう、誇りを持って、強く豊かな国をつくるんだ。
 強く偉大な獅子王、僕の父様のように。
「ミネ、僕はすっごく立派な…痛っ」
「どうされました?」
 突然指先に感じた鋭い痛みに、思わず悲鳴を上げたアスランのところに、ミネが転がるような勢いで駆けつける。
「小アスラン様?」
「ミネ、ほらここ、指に棘が…」
 アスランは口をへの字に曲げて、ミネを見上げた。
 粗末な木の窓枠はささくれ立ち、アスランの白く柔らかな手からは小さな赤い玉の様な血が浮かんでいる。
 それを見たミネは、怒ったように声を荒げた。
「まあ、棘の刺さる窓枠なんて! まったく、早く消毒しないと。悪いものが入ったら大変ですからね」
「でも、父様が戦で傷を負った時はもっと血が出たって母様が言ってた。だから、僕だってこれくらい…」
 言葉とは裏腹に、血の滲む指から目を背けるようにしながら、自分に言い聞かせるように言うアスランに、ミネは至極真面目な顔で言った。
「ええ、そりゃあ小アスラン様も大丈夫なんでございましょうよ。けれど、大王様もお怪我をされたら手当てなさいます。ええと、消毒薬はどこにあったかしら…ああ、これだわ」
 ぶつぶつと独り言を言いながら、ミネは白い消毒薬をアスランの指先に振りかける。ピリっとした感覚がアスランの指先に走り、その嫌な痛みにアスランは顔をしかめた。
「染みるよ、ミネ」
「それくらいは我慢なすって下さい。強い王様は泣かないものですよ。…さ、これでいいですよ」
 ミネは丁寧にガーゼを当てた上に、大げさな包帯を巻き終えると、ポンと一つ、自分の膝を叩いて立ち上がった。
「私の見ているところで、小アスラン様にお怪我などさせられませんからね」
「もう、大丈夫…?」
 アスランは包帯をした指をおそるおそる曲げて痛みがないのを確かめる。そして痛みが無いのを確認すると、急に元気を取り戻して椅子から飛び降りた。
「ほんとはこんな傷、何でもないんだよ。だって僕、もう少し大きくなったら、父様に戦場に連れてってもらうんだもの。ほら、ミネ、見て!」
 いきなり少し背伸びしながら腰の剣を抜き、斜めに構えるアスランに、ミネは慌てたように後ずさった。
「おやめください、こんなお部屋の中で。またお怪我しますよ」
「大丈夫だって、この剣には刃がついてないもの。僕、これで戦の練習するんだ」
「いけません。またギョクハン様に剣のお相手を探してもらいますから、それまでは大人しくなさってください」
 ミネが部屋の隅に張り付きながらも、怒ったように言う。
「だって#義叔父{おじ}さんはギュネイに出かけたんだよ? いつ帰ってくるか分からないじゃない。イリヤも剣はできないし…」
 えいやっ、と剣の型を練習するように、アスランが剣を振り回すと、今度こそミネの雷が落ちた。
「小アスラン様! いけないと言ったらいけません!」
「別に、ミネに言われたって怖くないよ」
 内心おどおどしながらうそぶくアスランに、ミネは怖い顔をして言った。
「ミネの言うことではありません。何のためにミネは、メルヴェ様に頼まれてこうしてネア・クゼイまで小アスラン様についていると思ってらっしゃるのですか」
「僕の世話をするためでしょ。一緒についてきた、護衛の兵たちと同じでさ」
「いいえ違います」
 ミネはアスランの手から、玩具の剣をとり上げた。
「ミネの言葉は、母様からの言葉と思えと、メルヴェ様が出発前におっしゃっていたのを、忘れましたか?」
「…覚えてる」
 母のメルヴェの名を出され、アスランはぎゅっと口を結んだ。
「それならよろしゅうございます」
 ミネが剣の柄をアスランに向けて渡す。その剣をアスランは大人しく鞘に納めると、また窓辺の椅子に座り込んでため息をついた。
 不満そうな顔でまた窓の外を見つめているアスランを、ミネは憐れむように眺めると、励ますように言葉をかけた。
「こんな田舎はつまらないでしょうが、それも大王様のお考えですし、しばらくのことです。どうか我慢なさって…」
「ねえ、ミネ」
 アスランは、ふくれっつらをしながらも、沈んだような声でつぶやくように言った。
「…僕はいつアユディスに帰れるの?」
「小アスラン様は、母様が恋しいのですか?」
「ううん…違うよ」
 ミネの声の中に同情したような音を察知して、アスランは慌てて首を振った。
「違うよ、寂しくなんかない。でも、こんなこと、初めてだから…」
 父様が戦に行くなんて珍しいことじゃない。それなのに、今回だけ、僕だけがミネたちと少しの兵たちと逃げるように、こんな田舎に身を隠さなくちゃいけないなんて。
 アスランは内心不満でいっぱいだった。大好きな母と離され、生まれ育った宮殿から追い出されるようにしてこんな田舎まで来ては、その不満も当然だった。
「…そうですね、大王様は今回の大きな戦で、お小さいアスラン様の身に万に一つのことがあったらと、御心配なのですよ」
 ミネがアスランの顔を覗き込むようにして言う。
「うん、それはわかってるよ。でも…」
 アスランはうまく言葉が出て来ずに口ごもった。
 その言葉のすべてを感じ取ったかのように、ミネは力強くうなづいて見せた。
「大丈夫でございますよ。メルヴェ様もおっしゃっていたように、大王様はすぐに悪い者たちをやっつけて下さいます。そうしたら、また元通り宮殿に帰って、皆で暮らせるようになりますよ」
「うん…」
 メルヴェがアスランに読んでくれる、物語の悪い怪物は、最後には必ずいい王様に倒される。
 だから、今回もきっと、父様は悪い敵をやっつけて、すぐに僕をアユディスに呼び戻してくれるだろう。
 アスランは寂しさを堪えてうなづいた。
「そうだね…父様は戦っているんだものね…」
「ええ、そうでございますよ」
「僕も、できることをしなくちゃ」
「その剣を、お部屋で振り回す以外のことでお願いしますね」
 ミネはを何か考えこみ始めたアスランにほっと息をつくと、窓から空を見上げた。
「それにしても、あの呪いの大樹のせいでお天道様が見えないと、全然時間がわからなくって困りますわね」
「うん、昼でもこんなに暗いものね」
「まだ冬には早いけれど、寒くなってきましたし、もう薪を焚かなくちゃいけないのかもしれませんね」
 ミネはぶつくさ言うと、ぱたぱたと足音を鳴らして部屋の外に出て行く。
「呪いの大樹か…」
 アスランは大袈裟に包帯の巻かれた指を膝の上に置いた。
 父様が戦っているのに、僕だけこんなところで隠れているなんて。いや、僕だって、強くなるんだ。きっと、もう少し大きくなったら…。
 そう思った時、アスランはふと思いついた。
 僕にできること、あるじゃないか。それも、ここにいる、僕だけにしかできないことだ。
 アスランは自分の素晴らしい思いつきに目を輝かせ、ミネが出て行った扉をちらりと見て誰もいないことを確認すると、ガタガタとうるさい窓をできるだけそっと開けて、思い切り地面に飛び降りた。
 僕がここにいる間に、あの呪いの大樹をやっつけてやろう。物語に出て来る王様のようにかっこよく、この剣で一刀両断にして。
 相手はただの樹だ。そのくらいなら、まだ子供だって、王子である僕にだったらできるはずだ。
 アスランは腰の剣を確かめて辺りを見回すと、満面の笑みでどこかへ駆けだしていった。

  *

「…マク?」
 ギョクハンのこじんまりとした厩にアスランはそっと忍びこむと、小声で自分の馬の名を呼んだ。
 暖かだった部屋の中とは違い、晩秋の外の空気はかなり冷たいが、ここの馬たちにとってはいい季節のようで、どの馬も毛並みがつややかだ。
 アスランは地面にしゃがみこむと、ずらっと並んだ馬の足を見た。すると、短い毛の生えた細い足に混じって、たっぷりした白く長い飾り毛の揺れる足が見える。
 アスランは思わず笑顔になると、その長い飾り毛の生えた足の方へと、小走りに進む。そして、その足元で顔を上げると懐かしい愛嬌のある小さな目がアスランを見つめて、ブルルと甘えたように鼻を鳴らした。
「やあ、久しぶり」
 マクはもう一度鼻を鳴らして、アスランに応えると、早く綱を外してくれと言わんばかりに前足で地面を掻いた。
「内緒だから静かにしてろよ…」
 厩の入口あたりで、飼葉を刻む規則的な音を気にしながら、アスランはマクを繋ぐ太い縄を外す。そして、無造作に仕切り枠に掛けてあったお世辞にもきれいとは言えない鞍を素早く乗せると、マクの背中に飛び乗った。
「マク、ヨウヨウ!」
 アスランの合図に、マクは嬉しそうに前足を持ち上げて宙を掻くと、力強く地面を蹴りだした。
「おい、誰…」
 入口で物音を聞きつけた下男が、驚いたように厩の中に駆けこんで来る、その脇を風のようにすり抜けて、アスランとマクは外へ飛び出した。
「小アスラン様?」
 下男が、マクにまたがったアスランを振り返って目を丸くして叫ぶ。
 しかし、時すでに遅く、その時にはもうアスランとマクは鳥かごから解き放たれた鳥のように、紅葉する森へ向かって駆けだしていた。
「マク、気持ちいいね!」
 ここに来て以来、久しぶりの馬に、アスランは顔を輝かせてマクの首を叩く。
 マクもアスランの気持ちが分かるのか、楽しそうに、飛び跳ねるようにしながらのびのびと、全速力で駆けた。
 このアスランの乗った仔馬の、マク、という名は、マクヒア種というこの馬の種類から、アスラン自身がつけたものだった。
 足や顎に生えた、白絹のような長く美しい飾り毛が特徴のこの古代馬は、アナトリア王家でしかその血統を保っていない、大変貴重な種であった。
 というのも、その昔、陸路が草原だったころには荷運びに使われたマクヒア種も、現在の砂漠化した陸路には耐えられず、また荷運び自体も帆船ですることが当たり前になったために、この馬は一度は絶滅の危機にさらされるほどに数を減らしたからだ。
 しかし、そのたっぷりとしたたてがみや、貴族のように優雅に見える飾り毛を愛したアナトリア王家が、マクヒア種を王家の馬として繁殖させ、その血統を守り続けていた。
 そして、アスランも十になった時、その祝いとして父親からマクヒアの仔馬を譲り受け、それからマクはアスランの馬となった。
 それ以来出かけるときにはいつでも——いつもは周りにたくさんの護衛がいるとしても、アスランはマクと一緒だった。
 だから、久しぶりのマクとの遠駆けは、アスランが皆に無断で外出した目的すら忘れさせるほどに楽しかった。
「そうだ、マク。今日はマクと僕の初陣なんだよ」
 その美しい飾り毛をなびかせて、カラカラと乾いた音のする草原を走るマクに、アスランは声をかけた。
「いざ、呪いの大樹へ! まずは敵情視察だね」
 しかし、真っすぐに大樹めがけて走るマクは、アスランの目的などどうでもいいようであった。
 ギョクハンの屋敷から、広い草原を、マクはあっというまに飛び越え、大樹の根元に広がる、紅葉の美しい森の中に入ってやっとスピードを緩めた。
「ゆっくり、暗いから気をつけて…」
 森に入った途端、夕方のように暗くなった視界に、アスランは目を慣らすようにぱちぱちと何度か瞬かせた。
 急に暗くなったのが嫌なのか、マクはその場で足踏みをして、小さく鼻を鳴らす。
「怖くないよ、マク。お前だって、王家の馬だろ」
 アスランは自分の恐怖を紛らわすようにそう言うと、改めて森の中を眺めた。
 森の中は不思議と手入れされたように、整然と立ち木が並び、落葉樹の落した木の葉で、森の地面はふかふかとしていた。
 大半の森の木がこの葉を落としているのにも関わらず、その森の上を覆う呪いの大樹が鬱蒼と緑の葉を茂らせ、葉を落とす様子もないせいで、この地は一年中日陰なのだろう。
「それにしても…」
 アスランは、しぶしぶ進み始めたマクの上で上下に揺られながら、つぶやいた。
 呪いの大樹に太陽の光を遮られて、森の中だってとても暗いのにどうしてこんなに草木は茂り、野菜も山ほどできる土地なのだろう。
 アスランは季節の花々の咲き乱れる、宮殿の庭を思い出した。
『アスラン、見てごらんなさい』
 アユディスの宮殿の庭に咲く花を愛おしそうに眺めながら、アスランの母、メルヴェは繰り返し言ったものだ。
『お花にはね、太陽の光と、お水が必要なのよ。それから、たっぷりの愛情もね。そうしないと、お花は咲いてはくれないのよ』
 その言葉の通り、宮殿に咲く花々はいつでも誰かに世話をされ、水を、光を、愛情を与えられていた。
 だから、メルヴェの言葉に、アスランは納得して目の前で美しく咲く花を見つめていたのだ。
 それなのに、太陽を覆う呪い大樹の下には豊かな森が広がり、その周りには、馬を何頭放しても枯れることがなさそうな草原が広がっている。それはどうしてなのだろうか。
 それから、アスランにはもう一つ不思議なことがあった。
「イリヤはここに都があったって言ってたけど…」
 なだらかな隆起のある地面を、アスランは慎重にマクを進ませた。
 大昔には、まさにこの大樹の根元の森の広さくらいの、大きな都があったという。そして、その都が滅びた後、すぐそばに作られた町が今のネア・クゼイなのだと、イリヤは教えてくれた。
「でも、ここは木と草ばっかりじゃないか」
 都と言うからには、大きな宮殿もあっただろう。たくさんの人が住む家も、道も、畑も、いろいろなものがあったはずだ。
 それなのに、見渡す限りにはそれらしき残骸さえなく、ただただ自然だけが広がっている。
「わっ」
 突然、目の前に現れた黒い影に、アスランは驚いてマクの手綱を強く引いた。そしてその拍子に、跳ね上がったマクの背から、アスランは落ちて尻もちをつく。
「いててててて…」
 眉をしかめて腰をさするアスランを尻目に、黒い影はちらともこちらを見ずに、また出て来た時と同じように、一息に草の影に飛び込んで見えなくなった。
「…鹿か」
 影の正体にため息をついて、アスランは立ち上がった。
「大丈夫だよ、ごめんな、ここからは僕も歩いていこう」
 小さな目で不安げに自分を見るマクを、アスランはそっと撫でると、そのままマクの綱を引いて歩き出した。
 森の奥に進むにつれ、平坦だった道は大樹の根がでこぼこに飛び出しているせいで、山を登るように登り降りがきつくなってくる。
「でも、ここまで来たんだから、あそこの、呪いの大樹の根元まで行ってみたいな…」
 息を切らして、額に汗を浮かべながら、アスランは自分の背丈ほどに隆起した根を乗り越えた。
 巨大な呪いの大樹の根元は、もうすぐそこだった。
「ああ、でもお前は登れないな…」
 懸命に大樹の根に登ろうとして、ひずめを滑らせるマクに、アスランは少し考えてから言った。
「お前はここで待っててよ。僕、ちょっとだけあそこまで行ってくるから」
 アスランはマクの鼻面をぺたぺた叩くと、根の隆起を越えて、大樹に近づいた。
「すごいな、ここから見たら、樹だなんてわかんないよ。樹じゃなくて、もしかしたらアユディスの宮殿よりも大きいかも…」
 アスランがどうしてここまで来たかも忘れ、大樹を仰いで、後ろ向きに一歩進んだときだった。
 その瞬間、踏みしめた地面が抜け、アスランは声を上げる暇もなく、深い闇の底に飲まれていった。

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