緑(りう)の一族

黒澤伊織

第一部 第三章 その、名前

 ラーレ。
 つい何日か前までは、花の名だったその名前。
 その名前を、今は私だけに向けて呼ぶ人がいる。
 ラーレと名付けられた少女は、面映ゆい気持ちで、アスランの馬を撫ぜた。
 この、長い飾り毛の美しい馬の名は、マクだ。そして、あの人の名前は、アスラン。
 #大花{タイファ}から生まれた#緑{リウ}たちは、ラーレも含め、二十人全員が、緑という一つの大きな個として暮らしていた。
 生まれてから一度として離れたことがなく、同じものを食べ、同じ話を聞き、同じ寝床で皆が寄り添って生活することが、当然のその中で、ラーレは自分というものを特別に意識したことがなかった。
 しかし、アスランは違った。
 ラーレを特別だと言って、その手を握り、その名を与えてくれた。
 それは不思議な感覚だった。
 その瞬間から、ラーレは大勢の緑のうちの一人ではなく、ラーレという個人になって初めて大地に立ったたような気分がしたのだ。
 名前って、素敵なものだわ。
 ラーレは深いため息をついて腰を下ろすと、草を食むマクを眺めた。
「もう大分よくなったわね…」
 最初はアスランとともに疲れ果て、傷だらけて倒れそうだったマクも、その疲れはかなり癒え、もうあと何日か休めば出発できる元気があるように見えた。
「でも…」
 マクも元気になったということは、アスランがこの村から出ていってしまうことを意味する。仕方のないことだとはいえ、ラーレの心には寂しさとはどこか違う、胸が締め付けられるような感情が芽生えていた。
「私たちも、大花様が話してくれた昔のように、人間のところへ旅できるといいのだけれど」
 ラーレはつぶやいてはみたが、それが叶うとは思っていなかった。
 緑の一族は人間とは違う成り立ちのものであった。
 大花は、そんな緑の一族の成り立ちを、よく昔話として語ってくれた。その話は、大花の、そのまた大花の、そのもっと上の大花から受け継がれた、遠い遠い日の話だった。
『…天には大樹がありました。そしてその大樹は神様が育てたものでした。小さな種子から神様が育てた大樹は花を咲かせ、種子を実らせ、喜んだ神様はその実りを手にしようとしました。しかし、そのとき、神様はあやまって手を滑らせ、その種子を地上に落としてしまったのです…』
 ラーレも、緑たちも、この話が大好きだった。いや、この話、というよりは、昔語りをしてくれる大花の、優しい声音が好きなのかもしれなかった。
『…そして大樹の種子は、天から遥か遠い大地に落ち、それは緑の一族となりました』
 それからというもの、緑の一族は地上で暮らすようになったのだという。
「でも人間も、そう悪いものではなさそうなのに」
 ラーレは両のてのひらで何かを包み込むようにして目を閉じると、胸の中で花をイメージした。
 すると、そのラーレの気持ちに呼応するように、合わせたてのひらからは光がこぼれ、強いきらめきを放った。
 しばらくしてその光が収束すると、ラーレは目を開き、そっと両手を開く。すると何もなかったはずのてのひらの上に、魔法のように小さな球根が、ころん、と現れた。
 ラーレは、その球根を柔らかな地面に差し込んで、その地面を撫ぜるように手を動かした。
「綺麗な花を、咲かせてね」
 すると、球根を埋めた地面から、みるみるうちに小さな芽が出て、のびやかに葉が、茎が伸び、つぼみをつけ、そしてあっという間に美しいラーレの花が、ラーレを見上げるようにして咲いた。
「まあ、可愛い」
 ほのかな桜色に咲いたラーレの花を見て、思わずラーレは笑みをこぼす。
「そうね、あなたの心が咲いたようね」
「大花様…」
 振り返ると、いつのまにかラーレの後ろに立った大花が、優しい眼差しでこちらを見ている。
「どうされたのですか?」
「…御客人には、あと半月もしないうちに帰っていただこうと思っているわ。それを、あなたに伝えておこうと思って」
「…そうですか」
 ラーレは顔を伏せた。そのラーレの様子に、大花も寂しそうな笑みで尋ねた。
「…寂しい?」
「ええ、いいえ、そんなことは」
「どっちなのかしら」
「…少しだけ」
 大花はうつむいたままのラーレから視線を外すと、遠くを眺めた。
「…あなたの気持ちはわかっているつもりよ。けれど、あなたは#小花{サイファ}、私がいなくなったあとに、一族を率いる役目の緑なのよ」
「ええ、わかっています。でも、あの、大花様…」
「なあに?」
「人間は、そんなに悪いものでしょうか?」
 突然、思いつめた様子で訊ねるラーレに、大花は小さく首を振った。
「私たちと同じに、神がおつくりになったものですもの。人間そのものは悪いものではないと思うわ。けれど…そうね。私たちは彼らとは道を違えてしまったのよ」
 大花は足を引きずりながらラーレの隣まで歩くと、ゆっくりと草の上に腰を下ろした。
「私たちの力は、人間を惑わしてしまうの。その話は、いつもしているでしょう」
「ええ…」
 ラーレは自分の手をじっと見つめた。
 草木を操る能力。
 この手からはラーレの花の球根が生まれ、クリュの種が生まれ、そしてその種は時間を待たずに育ち、花をつけ、実を結ぶ。
 大花はもちろん、他の小さな緑たちにも、能力に差こそあれ、同じようなことができた。
「私も、私の大花様に聞いたことでしかないけれど…」
 大花は昔を懐かしむように遠い目をした。
「私たちは豊作を呼ぶ一族として、人間と共に歴史を歩んできたわ。旅をして各地を回り、貧しい地に小麦を育て、家畜の食べる草を生やし、そして時には茂りすぎた森の木を枯らし、砂漠を森に変え、そう、私たちの祖先はとても大きな力を持っていたのよ」
 もう、そんな大きな力は失くしてしまったけど、と大花は寂しそうに付け加える。
「けれど、こんな風に花や木を育てられるんだもの。ここで暮らしていくのに、そんな大きな力はいりません」
「そうね」
 ラーレの励ますような言葉に、大花はうなづいた。
「昔は、あの頃は、人間も私たちと同じ、大地に生きるものだった。それなのに、豊かになった人間たちは、大地を自分たちの持ち物のように扱うようになった。隔てのない大地を細かく区切り、その小さな大地も、誰かの持ち物にして…。そして、その小さな大地の主は、自分の大地にだけ豊かさが宿ればいいと考えた」
 地主に領主、それから貴族や王が、大地に見えない線を引き、そしてその線の上に生えた、草木の所有権まで争う時代。
 そんな、降って湧いたようなおかしな決めごとに、大地とともに生きる、緑の一族は巻き込まれた。
「…そして、私たち、緑の一族を自分の大地にだけ呼ぼうと考えたのですね」
「ええ、そうよ」
 大花の顔は悲しげだった。
 各地を回って豊作を授けていた緑の一族は、大地を区切った主によって捕われ、その大地の実りを強制された。
 逆らったものは殺され、力のない緑たちは穴倉に閉じ込められ、それでも命からがら逃げ出した緑の一族は、この人里離れた地にひっそりと住みついた。
 間違っても人間に見つかることがないよう、道のできない迷いの森を生み出し、人間と交わることを禁忌とし、それから長きにわたって、緑の一族は人間の前から姿を消した。
 アスランがこの地を訪れるまでは。
 その昔話を何度となく聞いていながらも、ラーレは今、人間と交わることを禁忌とした先祖の決断に疑問を持っていた。
「私たちの一族が迫害を受けたのは、事実です。でも、彼は、アスランはそんなに悪い人間だとは思えません。私たちを自分の欲のために使うなんて、そんな…」
 おずおずとではあるが、アスランを擁護するような言葉を連ねるラーレに、大花は吐息を漏らした。
「緑、あなたはアスランに恋をしているのね」
「恋…?」
 ラーレの黒い瞳には、いつのまにかその視界がぼやけるほどの涙が溜まっている。しかし、その涙の意味もわからずに、ラーレは聞き返した。
「人間には、男と女があるのだと、アスランが言っていました」
「そうよ」
「そして、その二つの種が惹かれあい、交わるときに、子供を成すのだと」
「ええ」
 大花は大きくうなづいた。
「そうよ、その二つの種が惹かれあう感情を、恋と言うの。その惹かれあった相手と一緒に生きていきたいという、気持ちのことよ」
 アスランと、一緒に生きていきたい?
 ラーレはアスランのことを思った。
 私は、アスランと一生を共にしたいと、一瞬でも思ったのだろうか。あの、アスランの大きな温かい手に包まれ、まるでずっとそうすることが決まっていたかのように、自然とくちびるを重ねた時に。
 ラーレはその瞬間を思い出して、熱く燃える頬を両手で挟んだ。
「…私たちは、人間のいう、女のかたちをしているわ。だから、昔は人間の男に恋をして、一緒になった緑もいたそうよ」
「本当ですか?」
 それなら、私も、とラーレは思わず口から出そうになった言葉を飲み込んだ。
「もちろん、人間の男と私たちが交わったとて、子供が生まれることはないわ。けれど、緑と一緒になり、その心を結んだ人間の男は、幸せに暮らしたというわ。緑と同じくらい、長生きをしてね」
「そうなのですか…」
 緑の一生は、人間のそれよりもかなり長い。
 それならば、とラーレは一時の夢に思いを馳せた。
 それならば、ラーレがアスランと一緒になれば、きっとずっと長い時間、二人で寄り添っていられるのだろう。そして、二人で天に帰る日まで、その甘い時間は続くのだろう。
 けれど、そんなことが許されないのは、ラーレ自身が一番よく知っていた。
「大きな能力を封印した私たちの力は、どんどん弱くなり、いつか種を生み出すことすらできなくなるかもしれない。だから…」
「わかっています、大花様」
 ラーレは小さくうなづいた。
 大花になるものは、緑を生み出すほどの大きな力を持った者でなければならない。そして、その能力を一番受け継いでいるのは、このラーレにほかならなかった。
「私は、小花ですもの。立派な大花になって、そして…」
 例え、アスランと一緒になれなくても。
「緑の一族を守って見せます」
「ありがとう、小花」
「…いいえ、大花様」
 わがままは言わない。
 ラーレは自分の言葉にひとかけらの嘘も入れずにうなづいた。
 きっと、私が生きていく長い歴史の中に、恋という、アスランの教えてくれた感情は埋もれていくでしょう。
 でも、彼が行ってしまうまでは。それまでは、この感情が、私の胸を熱く焦がすままにまかせておきたい。
 ラーレは穏やかな眼差しで、自分の咲かせた、風に揺れる花をじっと見つめた。

  *

 もうそろそろ春の花も散り始めたと言うのに、吹く風は肌に冷たかった。
 一族の住む家の脇にある、急な小道を登って行った先の山からは、西の草原が見下ろすことのできる場所があり、その斜面には、落ちていく夕日の色を吸い込んだような黄金色をした、カリヤスという葉が群生していた。
 この葉を煮出して染めた糸は、美しい黄金色に染まり、カルを編むにも、衣に刺繍をするのにもとても重宝するものだった。
 ラーレはその葉を摘むために、この高台まで一人、登って来ていた。
 今すぐに、しなければいけない仕事ではない。けれど、ラーレは皆から離れて一人きりになりたかった。
 これも、きっと恋という気持ちに付随するものなのだろう。ラーレがこんな気持ちになるのは、初めてのことだった。
 アスランがこの里に訪れてから、早いものでもうひと月ほどの時間が経とうとしていた。
 そして、アスランが里を出ていく日は、もう明日へと迫っていた。
 それなのに、どうしたことかラーレの胸に咲いた恋という名の花は、盛りを過ぎて枯れていくどころか、日に日に美しく咲き誇っていくように思えた。
 こんなはずじゃなかったのに。
 ラーレは、自分の胸の中に育った感情に圧迫され、苦しくなった心を持て余していた。
 だから、アスランが去ってしまう前に、ラーレは自分の心を穏やかにしておきたかった。去ってしまう人に、笑顔で別れを告げられるように。
 しかし、その一人きりの静寂は、すぐにラーレの名を呼ぶ人に遮られた。
「ラーレ! こんなところにいたのか」
 籠に草を摘みながら、物思いに耽っていたラーレは、突然名前を呼ばれて驚いて振り返った。
 しかし、振り返った後ろに、自分の名を呼んだはずアスランの姿はどこにもない。
 ラーレは眉をひそめると、アスランを探して立ちあがった。
「…アスラン?」
「ラーレ、ここだ、こっち」
 よく見ると、上へ登ってくる道から外れた岩の陰から、アスランの指先がちらちらと動いている。
「どうしてそんなところから…そこからじゃ、上がれないわ」
「いや、君の姿が見えたから、近道をしてみたんだけど…やあ」
 上から覗き込んだラーレに、アスランは手を挙げて笑って見せた。
「一刻も早く、君の顔が見たくて」
「何を言ってるの…」
「少し踏ん張れば、登れそうだ…」
アスランは岩の小さなくぼみに手と足をかけて、そのまま登ってこようとする。
「おおっと」
「アスラン!」
 掴んだ手を滑らせて、アスランが落ちそうになり、ラーレは悲鳴を上げて、アスランの腕を掴んだ。
「ごめんごめん」
 アスランは滑らせた手で、もう一度岩のとっかかりを掴むと、腕に思い切り力を込める。ラーレはおろおろしながらも、アスランの腕を掴んだまま、引っ張り上げようと精いっぱい試みた。
「女の子に、助けてもらうなんて、格好悪いな」
「そんなこと、言ってる場合じゃ、ないです」
 ラーレが細い腕で必死にアスランを引っ張ると、ようやくアスランは岩の上に身体を引き上げ、二人は勢い余って草の上に倒れ込んだ。
「…ありがとう、ラーレ」
 はあはあと息を切らせて、アスランがラーレの長い髪を撫でる。
「…道なりに来なきゃ、だめよ」
「そうだね」
 頬を染めてうつむくラーレに、アスランは笑って立ちあがる。そして、顔を上げると、その瞳に夕日の落ちていく西の草原を映して、大きく感嘆の声を上げた。
「ここは、見晴らしがいいなあ。こんな高いところから、地面を見下ろしたことなんてないよ」
「そう?」
 草の上に膝を崩して、ラーレはアスランをまぶしく見上げる。
 ラーレの自分を見上げる視線には気付かずに、アスランは夕日の方向を眺めたまま言った。
「それはそうと、君はこんな高いところで、何をしてるの?」
「私は…その、染料の草を集めに…」
「ふうん、こんな草で染めるのか…不思議だね」
「ええ…そうね」
 それよりもこんなところにいる自分を、アスランが見つけたほうが不思議だと思いながら、ラーレはうなづく。
「あの、誰かに私がここにいるってこと…」
「聞いてないよ」
「じゃあ、どうして」
 アスランは、少し伸びすぎた髪を風になびかせながら、やっとラーレのほうを振り返った。
「どうしてだろうね、わかるんだ」
「…本当?」
「ああ」
 ラーレにそう答えながらも、アスランは心ここに非ずといった様子で、どこか遠い地平線を眺めているようだった。
 時折吹く強い風にあおられる衣を気にしながら、ラーレもアスランの少し後ろに立つと、その視線と同じように遠くを見つめた。
 今、私はこの人と同じ風景を瞳に映している。
 黄金に輝くカリヤスの葉と、ごつごつとしたたくさんの岩、それから、その遥か向こうの草地や、ここからは見えないほど遠くにあるという、人間の住む都。
 そして、アスランが帰る場所。
 その考えに、ラーレの胸はずきんと痛む。
 そう、明日の今頃には、アスランはもういない。そして、この恋という感情は、アスランなしではどうしたらいいのか分からずに、今から身をよじるようにして苦しんでいる。
 ラーレは知らず知らずのうちに、自分の心臓をぎゅっとつかむように胸に手を当てていた。
 この感情を、アスランを忘れて、また元の生活に戻るだなんてことができるんだろうか。
 いや、元の生活には戻れない。だって、私はもうアスランを知ってしまったから。だから、これからは、未だ自分の知らない、アスランのいない生活が始まるのだ。
 ラーレの胸は痛みながら、けれどもそうするほかないのだということを知っていた。
 小花という役目、それに何より、緑の一族として生まれ、この地からよそへ出かけることなく暮らしてきたラーレにとって、この里での暮らし以外の生活など、想像もできなかったからだ。
 今まさに沈もうとしている、カリヤスで染めた糸を張りつめたような色の地平線を、強く見つめるラーレを、アスランは不意に振り返った。
 振り向いたアスランに、ラーレはゆっくりと視線を移して訊ねた。
「どうしたの?」
「ラーレ…」
 アスランの口から、彼がラーレに与えた名前がこぼれる。
 この名も、彼がいなくなれば、誰も呼ぶものはいなくなってしまうのだ。
 ラーレは黙ってアスランの言葉を待った。
 しかし、次にアスランの口から出た言葉は、ラーレに予想できるものではなかった。
「ラーレ、俺とここを出て、都で暮らさないか?」
「ここを、出る…?」
「そう、緑の一族を離れて、これからは俺と一緒に…」
 アスランの毛先を黄金に輝かせる夕日に、ラーレは目を細めた。
 その優しい眼差しにうなづくことができたら、どんなに幸せだろう。今、うなづくことができたら、私たちは一生、二人で天に帰るまで一緒にいられるのかもしれない。
 そう、きっとそうなんだろう。
 しかし、そのアスランの誘いを断らなければいけないことは、ラーレが一番よく知っていた。
 私は、小花だから。
 それがきっと、アスランの誘いを拒む理由だろう。
 でも、それは本当? 私が役目を負わない、ただの緑だったなら、この、差し出されたアスランの手を取ることができるの?
 初めて覚えた恋の感情、そしてほんの短い間に育まれた愛を、私は信じ切ることができる?
 ラーレは身を切るような思いで、真摯に自分に問いかけた。
 けれどそんなラーレの胸中を知るはずもなく、アスランは熱心にラーレに語りかける。
「君を困らせるつもりはない。ただ、俺は君のことが好きなんだ。君を請け負う代償がいるなら、俺は何だってしてみせる。金粒だって、そう、金粒がいらないなら、何か素晴らしい織物だって、品物だって構わない。俺は、君と一緒に暮らしたいんだ」
「アスラン…」
「俺はまだユクセル様の下働きだが、いつかきっといろんな国と商いをして、金持ちになって、君が働かなくて済むような生活をさせてあげる。王族がまとうような、金刺繍の衣はきっと君に似合うよ。そして、その細い首には綺麗な石のついた首飾りをつけてあげよう。君は世界中で一番美しい、俺の奥さんなるんだ」
 都の生活は、きっととてもよいものなのだろう。
 ラーレは、自分のいつもの、仕事で少しくたびれたような衣を眺めた。
 アスランの言う通り、都へ行けばすべてが手に入り、きっと毎日幸せな日々が過ごせるのだろう。
 それに何より、目の前のこの人が、ほかならぬ自分を求めてくれているのだという気持ちは、ラーレの胸を熱く満たした。けれど…。
 力強く輝いていた夕日は、いつの間にか地平線の向こうに沈み、空の色は次第に青みを増していく。
 ラーレは、アスランに握られた手をそっと振りほどいた。
「私は、行けないわ」
「ラーレ、どうして?」
 アスランは目を見開いて首を振った。
「君も、僕と同じ気持ちじゃないのか?」
「そうよ、アスラン、でも…」
「…ラーレ」
 悲しそうな顔で自分を見るアスランから視線を逸らすようにして、ラーレはうつむいた。
「…ごめんなさい。だけどこれを私だと思って、都へ持っていってちょうだい。私にはこんなことしかできないから…」
 ラーレはてのひらを合わせると、そこからラーレの花の球根を一つ、アスランに差し出した。
「…どうしても、だめかい?」
「…私には、一族を率いる役目があるもの」
 深くなっていく夕闇が、自分の顔も隠してくれることに、ラーレは感謝しながら、アスランに謝った。
 真昼の明るい日差しの中で、アスランに求められたのなら、ラーレはきっとその誘いを断ることができなかっただろう。
 しかし、光をなくした空は、ラーレの本当の気持ちも一緒に闇に沈め、アスランにも見つからないように隠してくれるようだった。
「…そうか。仕方ないな」
 しばらく黙った後、アスランは、ラーレの手からそっと球根を受け取った。
「ごめんなさい」
 ラーレはもう一度消えるような声でそう言うと、カヤリスの葉の入った籠を拾い上げる。
「いいんだ、謝らないでくれ」
 アスランはそう言うと、ラーレの球根を仕舞おうと腹巻の中に手を入れた。
 そのアスランの指先に、月の輝石の入った革袋がその存在を主張するようにそっと触れた。

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