緑(りう)の一族

黒澤伊織

第一部 第二章 緑(リウ)と花(フア)

 ずいぶん長い間、眠っていたせいだろうか。
 目が覚めたアスランは、窓から差し込む淡い光が日の出のものなのか、それとも日の入りのものなのかわからずに、しばらく寝床の中からぼんやりとその光を見ていた。
 溜まった疲れはすっかり抜け、身体中の筋肉は心地よく脱力している。
 ここはどこだっただろう。
 思えばまるで見覚えのない部屋の天井を見上げて、ふとアスランは不安になった。
 どうして俺はこんなところにいるのか…。
 まだ眠りの中にあるような、鈍った頭を動かして、アスランはゆっくりと順を追って思い出そうとした。
 …そうだ、俺は若旦那様にぶどう酒を振舞われたあと、迷いの森の中で抗いがたい眠気に襲われ、皆とはぐれてしまったのだ。いや、あれははぐれたというよりも…。
 夢の中のような、現実のような、そんなぼんやりとした目で見た、ヤウズの勝ち誇ったような顔がアスランの脳裏に浮かぶ。そのヤウズの顔に、アスランは胸の中に苦いものが広がっていくのを感じた。
 馬の背で眠りこむなんてことは、どんなに疲れていても今までに一度もなかったことだ。あの猛烈な眠気は、若旦那様からもらったぶどう酒に何かが混ぜられていたからに違いない。
 アスランは両手を顔に押し当てた。
 若旦那様は俺がそんなに邪魔だったのか。迷いの森に置き去りにするほどに。
 気を失うようにして眠ってしまったアスランが目を覚ますと、そこにはマクだけが所在なさげな表情をして座っていて、その背の荷物はなかった。
 マクの身体には何本も鞭で付けられたような傷があり、どうやらそれはジャンに連れていかれるのに抵抗したかららしかった。
 アスランがその主人思いの馬を撫でながら、自分の懐を探ると、そこにはあの月の輝石の入った革袋だけが残されていて、価値のありそうな黄金の筒は取られてしまったらしかった。
 何もかも失ったアスランは途方に暮れて、それでも方向も分からぬ迷いの森を歩きだした。
 そこでひと月に一度、通るかどうかもわからない他の隊商が通るのを待つよりは、自分の足で歩いたほうがいいと判断したからだ。
 それからアスランとマクは何日も、飲まず食わずで森をさまよった。そしてその判断が正解だったのかわからなくなり、もういよいよ倒れると思ったとき、ぼんやりとしたアスランの視界を、一陣の清い風が払い、あの一面の花の風景が彼の目の前に現れたのだ。
 そうだ、あの少女たちが、俺を助けてくれたのだ。
 アスランは改めて見覚えがない部屋を見回した。
 部屋に見覚えがないはずだ。ここはギュネイの宿でも、クゼイの自分の部屋でもない、あの少女たちが今にも倒れそうなアスランを助け、あてがってくれた部屋なのだから。
 アスランはやっとはっきりしてきた記憶にほっと安堵すると、もう一度目を閉じ、自分を助けてくれたあの少女の顔を思い浮かべた。
 美しい、と言ってしまえるのなら、その言葉一つで少女のすべてを表現するには十分だった。
 色白の肌に大きな黒い瞳、そしてなめらかな、腰のあたりまである長い髪。それに、花びらのように幾枚もの薄い布の重なった衣からちらりと見える、折れてしまいそうなほど細い手首。
 その姿は、幻想的な花の風景とあいまって、そこに立つ少女が花の精霊ではないかと疑うほど儚げだった。
 あるいは、本当にここは精霊の里で、俺はそこに迷い込んでしまったのかもしれない。
 アスランは少女を姉様と呼ぶ、たくさんの女の子たちを思い出した。
 ここが人ならざる者の里と、そうでも考えなければ、背丈や髪の長さは違うとはいえ、あの完全に同じ顔をした女の子たちがこの世に存在する理由が思いつかない。
 アスランは目頭を押さえると、ため息をついた。
 しかし、彼女たちが誰であれ、俺は助かったんだ。
 アスランは布団の中で寝返りを打ってから、何気なくその布団の布地を見て、思わず声を出して驚いた。
「これは、何だ?」
 床に敷かれた布の中も、体の上に掛けられた袋に縫い合わされた布も、絹でも麻でもない糸で織られていて、中にも藁ではなく、ふわふわとした、柔らかな素材が詰め込まれている。
 これは何という織物だろう?
 アスランは手で何度も布をさすって、その感触を焼きつけた。
 何にせよ、今まで見たこともない、素晴らしい素材だ。
 アスランは新しい布地の素材に興奮して思わず笑みをこぼした。しかし、同時に自分はどうやってかとんでもなく遠いところに来てしまったのかもしれないぞ、という不安が頭をもたげて来るのを感じる。
 一体、ここはどこなんだろう。
 確かめたくなったアスランは、傍らに丁寧に畳んで置いてあった自分の衣服を、大急ぎで身につけた。それから少し考えて、同じようにそっと置かれていた、あの黄金の筒がなければただの小石でしかない、月の輝石の入った革袋を腹巻の中に仕舞った。
 ジャンにすべての荷と金を盗られてしまっては、この何の役に立つか分からない石っころでも、今のアスランにとっては唯一の財産だと思ったからだ。
「この建物も、まるで石をくりぬいたような…」
 アスランは戸口にかかった厚い布をよけると、戸口の外に出て、自分の寝ていた建物を振り返った。
 それはアスランが思った通り、建物というよりは、大きな荒い肌の岩をくりぬいたような住居だった。
 小さな窓も、戸口も、岩にくりぬかれた穴で、けれどそのくりぬかれた部分の岩肌は、人間が無理やり削ったとは思えないほどのなめらかなものだった。
 こんな様式の建物も見たことがない。やはり、俺は遠い国に来てしまったらしい。
 アスランは少し冷たい朝の空気に、身体を震わせると、振り返ってあたりを眺めた。
 朝の薄い光があたりの景色をほんのりと照らす。白い霧が、アスランの視界にヴェールのようにかかり、遠くの景色はまるで見えない。
 霧のせいか、足元の柔らかな草も濡れて、革の靴にじわじわと冷たさが染みてくる。
 目印になるような山も、何も見えなくては、都に帰りようもない。
 アスランの胸は不安でいっぱいになった。
 しかし、そのとき、アスランの耳にどこからかでブルル、という聞き慣れた音が聞こえた。
 マクだ。
 ほっとするのと同時に、急に胸の中に懐かしさがこみ上げ、アスランは迷うことなく霧をかき分け、音の聞えた方向に進んだ。
「あなた、たくさん食べるのね」
 楽しげな少女の声が、霧の向こうから聞こえる。
 あの少女だろうか?
 アスランは驚かせないように、そっと足音をさせずに近寄った。
 周りに生えていた草を、マクはもうすっかり食べてしまったようだった。しかし、それでもまだ腹が充ち足りないのか、甘えるように少女に鼻を鳴らす。
 その隣で、こちらに背を向けて屈んだ少女は、マクの飾り毛を撫でている。マクはもう一度、少女に催促するように鼻を鳴らした。
「なあに? もう少し食べたいのね」
 少女は嬉しそうにマクの鼻面を撫でると、そのまま小さな手で地面を撫でるようにさっと動かした。
「あ…」
 何が起きたのだろうか。
 目の前で起きた信じられない光景に、アスランは思わず声を漏らした。
 マクにすっかり食べられてしまったはずの短い草は、少女の手に反応するように、ぐんと伸び、マクの前には再び豊かな草の茂みが姿を現したのだ。
 この少女が、草を茂らせたとでもいうのか? いや、俺の目に映ったものを信じるなら、そうとしか思えない。
 声を立てたアスランに、少女が慌てたように立ちあがり、驚いた顔をこちらに向ける。
 その姿は、立ちあがった背格好からしても、ここへ着いたときに初めて会った、あの少女だろう、とアスランは思った。
「誰?」
「お、おはよう。あの…」
 アスランは少女の前に一歩進み出ると、頭の中で言葉を探った。
 君は、草を操るのか? そう訊いてもいいのだろうか。
「…おはよう、ございます」
 アスランの胸の中を探るように、美しい、少女の黒曜石のような瞳が、はっきりとアスランを見返してくる。
 その美しい瞳をこれ以上見ていると、胸の内を探られるどころか、魂を抜かれるような気がして、アスランは少女から目を逸らした。
 この、精霊のような美しさといい、やはり彼女は…。
 アスランが覚悟を決めて、少女の問いかけようとしたそのとき、マクの後ろから元気よく、小さな女の子が飛び出してきた。
「あっ! おはよう! もう治ったの?」
 姉妹というには、少し年が離れすぎているような気がする、その女の子の顔は、改めて見ても少し気味が悪いくらいに、目の前の少女とうり二つだった。
「ああ…おかげさまで。ありがとう」
 アスランはぎこちない笑顔をつくった。そのアスランのつくり笑いを全く気にしない様子で、黒い目をくりくりさせながら、女の子はアスランを楽しそうに見上げた。
「ねえねえ、あなたは人間なんでしょ?」
「人間か、なんてまるで…」
 君たちが人間じゃないみたいじゃないか。
 その言葉をどうにか飲みこんで、アスランは曖昧に笑ってごまかす。
「こら、#緑{リウ}」
 女の子がアスランに、奇妙なことを問うのを咎めるように、少女は緑と呼んだ女の子の頭に手をやった。
「…君は、緑っていうの?」
「うん、そうだよ」
 アスランの問いに、緑は少女と同じ顔でにっこりと笑う。その頭を、少女は困ったような顔で、撫で続けている。
「緑ちゃんか。俺の名前はアスラン。アスランって呼んでくれ」
「アスラン? 名前?」
 緑は不思議そうに首をかしげた。
「アスランはどうして『俺』っていうの?」
「…それは、俺が男だからだよ。女の子だったら、『私』って言うだろ?」
「アスランは男?」
「そうだよ」
 何を不思議がることがあるのだろうか。緑は大きな瞳をぱちくりさせてアスランを見つめ返す。
「じゃあ…」
 緑はマクの足の飾り毛をそっと撫でた。
「この子は男?」
「いや、マクは女の子だよ」
「女?」
 ますます不思議そうに瞳を瞬かせる緑に、黙って様子を見ていた少女が優しく言った。
「緑、そろそろ朝の火を焚いてちょうだい。#大花{タイファ}様も起きるころよ」
「うん、わかった」
 緑は少女の言葉に素直にうなづいた。そして、アスランをもう一度見てにかっと笑うと、元気よくどこかへ駆けだしていく。
 その後ろ姿を見ながら、アスランは女の子を気味悪く思ったことを忘れて、思わず微笑んだ。
「かわいい子ですね。…あの、あなた方は姉妹なんですか?」
「え?」
「よく似ているから」
「…ええ。同じ母から生まれたという意味なら、そうなのかもしれません」
 あの女のこといい、少女といい、どうしてこんな奇妙な言い回しをするのだろう。それに、あの草を茂らせる不思議な力…。
 アスランは少しためらってから、少女に尋ねようと開いた口を閉じた。
 ここがどこかわからないが、迷いの森の先にある、都から離れた里であることは間違いない。そして、そんなところに住む人たちは、詮索を嫌うかもしれない。
 助けてもらった人たちの迷惑になるようなことは、アスランもしたくなかった。
 少女は、アスランにどう接していいのか分からないというように、マクの毛並みをずっと撫でている。
 アスランはできるだけ気さくに、少女に話しかけた。
「あの、そいつ、マクって言うんですけど…あ、それは昨日言ったか。えっと、他の馬と違って力持ちで耐久力もあるし、そうだ。なんといっても、そのあごひげや足の飾り毛が可愛らしいでしょう」
 マクの話に、少女はやっと表情を和ませると、そっと微笑んだ。
「これは飾り毛と言うのね。…ええ、とても素敵ですね」
 少女の微笑みに、アスランはまるで自分のことを褒められたかのように、顔を赤らめた。
 普通の、着飾った都の女性たちに比べて、少女の着ている絹は綺麗だが質素だった。しかし、その質素な絹の着物が、少女の無垢な美しさを、より引き立てているようでもあった。
「正式にはマクヒア馬って言って…」
「マクヒア。それで、マクと言うのですね」
「ええ、少し、安直過ぎますか?」
「いえ、そんなこと」
 少女は少し打ち解けたように、マクの豊かなたてがみに指をからませてはにかみながらも、アスランの顔を見た。
 やはり、美しい。
 アスランは人ならざるものと気付きながらも、少女に惹かれていく心を止められずにいた。
「ええと、それで…」
 アスランは一つ咳払いをして、少女に尋ねた。
「…君の名前を、聞いてもいいかな?」
「名前、ですか」
 少女は真顔に戻って、アスランがそう聞くことに何の意味があるのかという風に、小首を傾げてから答えた。
「私は、緑です。#小花{サイファ}とも呼ばれますが…」
「緑?」
 今度はアスランが首をかしげる番だった。
「緑っていうのは、さっきの女の子の名前ではなくて…? それとも、たまたま同じ名前を?」
「…私たちは、みんな緑といいます。それが、あなたのような人間にとっての、名前、というものなのかは、わかりませんが…」
「じゃあ、小花というのは…?」
「それは、そうですね…小さな緑たちを束ねる役目、という意味で…」
 アスランは少女と同じ顔をした、たくさんの女の子たちの姿を思い浮かべた。
 そのすべてが緑という、同じ名前だというのか? やはりここは…。
 ここまで聞いてしまったら、もう同じだ。
 アスランは、ごくりと喉を鳴らして覚悟を決めると、目の前の、緑と名乗る少女に思い切って訊ねた。
「あなたたちは人間ではないんですか? それなら、一体…」
「私たちは…」
 白い霧はだんだんに晴れ、少女の遠く向こう側の稜線を、朝陽がうっすらと輝かせる。
 アスランの問いに一旦言葉を切ってから、少女はためらいがちに答えた。
「私たちは、#緑{リウ}の一族です」

  *

 朝陽が空に昇るのを合図に、視界を白く覆っていた霧はさっと引いていき、霧に隠されていた風景が一気にアスランの目の前に現れた。
 雪をかぶった高い山々を背景に、木々は芽吹き、草原の花は咲き乱れ、その景色は、まるで都の金持ちが丹精した庭がそのまま広大に広がったかのように素晴らしかった。
 ところどころに、草原を分けるようにして、にょっきりと奇妙な形の岩が生え、アスランに用意された岩の家も、この奇妙な岩を住居に改造したものに違いなかった。
 そして、ゆるやかな丘を登るようにしてつけられた小道の先には、ひときわ巨大な、小さな穴が所々に開いた岩があり、その小さな穴はきっと窓か戸で、少女たちが住んでいるのはその巨岩の中だろうと思えた。
 しかし、今、アスランはその雄大な景色よりも、少女の言葉に気を取られていた。
「…#緑{リウ}の一族?」
「…はい」
 少女が小さな声でうなづく。
「それは…」
 アスランがさらに訊ねようとしたとき、小さな女の子の緑が二人、丘の上から小道を駆け下りて来るのが見えた。
 さっき挨拶した緑だろうか?
 あんまりに区別がつかない顔に、アスランが悩んでいると、緑たちは少女の顔を見上げて言った。
「#小花{サイファ}様、お客様を朝餉に、と#大花{タイファ}様がおっしゃってます」
「ありがとう、緑」
 少女はそう言うと、アスランの顔をちらりと見た。
「この緑たちについていって、朝餉をお召し上がりください。私も後からまいりますので…」
「あ、でもマクは…」
「安心して下さい。この子にはあちらの草地でくつろいでもらいますから」
 そう言うと、少女はマクを促すようにして、どこかへ行ってしまう。
 その背中を目で追ってから、アスランは、やはり同じ顔でこちらを見上げる緑たちに話しかけた。
「…じゃあ、連れていってもらおうかな」
「はい」
 緑の二人はにこっと笑い、揃ってうなづくと、アスランの前に立って駆けるように歩き出した。
 柔らかな日差しで、いつのまにかすっかり乾いたを足元の草地を心地よく感じながら、アスランも緑について歩いた。
 どうやらだいぶ北に来たようだな。
 南都ギュネイの焼けるように強い日差しと比較して、アスランは考えた。
 この日差しはギュネイのものよりも、北の王都クゼイのものに近い。それでも、クゼイのほうがまだ日差しが強いようだ。
 ところどころ草地から突き出す岩を避けるように、小道はくねくねと曲がりながら丘の上に続く。
 その先に見える、巨岩の家を見て、アスランは緑たちに訊ねた。
「君たちの家だけど、どうやってあの岩をくりぬくんだい?」
「くりぬいたんじゃないよ。初めから、穴が開いてたんだ」
「本当?」
「うん」
 驚いた様子のアスランに、ころころと笑いながら、緑が振り返る。
「私たちが生まれたときからね。きっと神様がつくってくれたんだと思うなあ」
「うん、私たちには神様がついてるんだもん」
 神様の加護か。アスランには馴染みがないが、ここはそういう考え方をする土地柄なのだろうと、アスランは思う。
 しかし、神の加護と言われてみれば、草原に影を作るように生えた樹木や、咲き乱れる花、それに豊かに湧き出ている水は、間違いなく神の加護であろう。
「ここは水も豊かだから、こんなに木々や草が生えるのか」
「水? ううん、これは私たちが…」
「だめだめ、言っちゃだめだって、大花様が」
 一人の緑の口を、もう一人が塞ぐように手を当ててから、二人は同時にアスランの顔を見る。その二人の同じ、しまった、という表情を見て、アスランは思わず噴き出した。
「大丈夫だよ、何のことやら全然分かんないから」
「そう?」
「ほんと?」
 緑たちは心配そうな顔で口々にアスランに聞く。
「本当だよ」
 やはり、ここに住む者には、どうやら緑を操る力があるらしい。
 なるほど、それで「緑の一族」か、とアスランは一人で納得したようにうなづいた。
 しかし、どうやらその能力のことを口外することは禁じられているらしい。
 アスランは、大真面目な顔をして、小さな緑たちにうなづいてみせた。
「大丈夫だよ。それよりさ、ここの女の子たちはみんな緑っていう名前だって聞いたけど、#大花{タイファ}様っていうのは何か特別な人なのかい?」
「そうだよ」
「特別だよ」
 緑たちはほっとしたように、元気を取り戻して答えた。
「#小花{サイファ}様も?」
「うん、小花様は、大花様になるのよ」
「そのうち、大花様が神様のいらっしゃる天に帰ってしまったらね」
「ふうん…」
 大花と小花とは、この緑と名乗る一族の長のような役目を果たすものなのだろう。大旦那様と、若旦那様みたいなものか。
 アスランは自分のその想像に、少し苦い笑いを浮かべた。
 ユクセルはともかく、自分を殺しかけたジャンのことなど、アスランはもう旦那様となどとは呼びたくなかった。
「うん、ほら、大花様だ!」
 一人の緑が、大きな岩の家の前で待っていた女性に向かって走り寄る。その姿は、母親に向かって駆けだす子供のようだ。
 大花様とは、緑の一族の母親なんだろうか。
「ちょっと待ってくれよ」
 アスランも最後の急な坂道を、息を切らせて家の前まで辿り着く。
「おはようございます。助けていただいて、どうもありがとうございました」
 アスランは礼を述べると、失礼と思いながらも、杖をつき年老いた、女性を見つめた。
 年のころは五十を超えているのではないだろうか。これほど長生きな人間は都にも少ない。ずいぶん長く生きているようなそのしわだらけの風貌は、やはりあの初めて会った少女にも、小さな女の子にも、そしてここまで道案内をしてくれた二人の緑にそっくりであった。
 大花は少し頭を前へ傾けてアスランにお辞儀をした。
「よくこんな山深いところまでいらっしゃいました」
「いえ…すみません、無理やりお世話になってしまって、ご迷惑をおかけしています」
 アスランも見よう見まねで、頭を前へ傾ける。
 そのアスランの様子を、大花は穏やかな微笑みを浮かべて眺めた。
「さあ、朝の支度ができています。お話は、食べながら伺いましょう」
「ありがとうございます」
 アスランは大花に導かれるまま、ひんやりとした岩の壁を感じながら、家の中に足を踏み入れた。
 どうやら足が悪いらしい大花は、片足を引きずり、杖をついてゆっくりとアスランの前を歩いた。
「緑たち、お客様に失礼のないようにね」
 大花がそう言うと、上等な絨毯の上に座った、たくさんの緑たちはおしゃべりをやめ、その視線をを一斉にアスランに注いだ。
「やあ、おはよう…」
 二十人ほどだろうか。その顔はやはり区別がつかないほどそっくりで、そのそっくりな二十人の目に一斉に見つめられて、アスランは驚きよりも、少しの恐怖を感じた。
 しかし、その恐怖も一瞬で、次の瞬間には得体の知れない来訪者に向かって、あどけない笑みを浮かべる緑たちに、アスランもほっとして微笑み返す。
「ここに、お座り下さい」
 ふと見ると、マクをつないできたらしい少女が、アスランに空いた場所を示している。
「ありがとう」
 アスランは少女に言われたとおりに、絨毯の上に座った。
 この絨毯はここで編まれたものであろうか。近くで見ると、より上等な質の糸と、細かい絵が素晴らしい。アスランはさりげなく絨毯の目をなぞった。
 相当古いものだ。五十年、いや、百年も昔のものかもしれない。よく手入れされて、発色もよい。しかも結び目も相当細かく、年季の入った技術を感じさせた。
 一人、しきりに感心するアスランに、小さな緑が厚い木椀に入った汁ものを持ってきて、アスランの目の前にことんと置いた。
「どうぞ」
 続けて、別の緑が茶色のパンを木椀の横に置いていく。そして、隣に座った少女の目の前にも、同じように食べ物を置いていく。
「小花様、どうぞ」
「ありがとう」
 木椀とパンが全員に行き渡ると、大花が皆を見渡して祈りをささげた。
「本日も神の恵みに感謝しましょう。天におられる神様が、私たちを守ってくださいますように」
「いただきます」
 緑たちの唱和にやや遅れて、アスランも手を合わせる。それから、アスランは手を伸ばし、まずは木椀の中を覗きこんだ。
 とろみのある、白っぽい汁が湯気を立てて、木椀の半分ほどを満たしている。
 その何とも言えないいい匂いに、アスランは急に空腹を覚え、一気に白い汁を飲みほした。
「…うまい」
 木椀から顔をあげて、ため息をつくように言ったアスランに、緑たちがこそばゆいような顔をして笑う。
「この汁は、どういう料理なんですか」
「これは、クリュという野菜の汁です」
「野菜? 野菜がこんなにうまいものか…」
 アスランは今度は茶色のパンを手に取ると、木椀に残った汁をそのパンでこそげるようにしてきれいに食べた。
「アスランのところには、野菜がないの?」
 今朝会った小さな緑だろうか。女の子が、汁を口の周りにつけながら、にっと笑って言う。
「あるけど、もっと繊維が固くて…これは野菜って言うより、煮詰めた山羊の乳みたいだ」
「山羊?」
 また別の緑がきょとんとした目でアスランを見る。
「アスランが連れて来た、あの毛の長い生き物のこと?」
「いや、あれはマクヒア馬って言って…」
 アスランの答えに被せるように、別の緑がうっとりとした声で言った。
「マクヒア馬の長い毛って、とっても素敵よね。少し分けてもらって、カルを編んだらどうかしら?」
「カルを編むのには、全然足りないわ。そんなことしたら、マクヒア馬が、丸裸になっちゃう」
「カルっていうのは、この敷物のことです」
 隣の少女が、会話について行けないアスランにそっと耳打ちする。その甘い吐息に、アスランは耳を赤くしてうなづいた。
「この模様は、緑の一族の歴史を表しているんです」
「へえ、道理で見たことのない柄だと思った」
「ねえ、アスラン、マクの毛を少しもらっちゃダメかしら?」
「少しだけ」
「小さな飾りを編みたいの。マクに会った記念に…」
 口を挟むすきもなくおしゃべりを続ける緑たちに、アスランは苦笑を返すしかない。
 アスランの苦笑に、隣の少女が申し訳なさそうに謝る。
「ごめんなさい。あの子たち、いつもああで…」
「いや、元気でいいですよ」
 アスランは赤味の引かない頬を気にして、どぎまぎしながら少女に答えた。
 他の緑たちと話すのは平気なのに、どうしてこの少女と話すときは、こんなに緊張してしまうのだろう。
 少女の顔も、何もかも皆とそっくりで、他の緑たちとの違いといえば、背丈くらいだ。それなのに、どうしてこの少女を特別に感じてしまうのだろう。
「緑たち、お客様が困っていますよ」
 やまないおしゃべりの渦に、大花が静かに言うと、緑たちはピタリとおしゃべりをやめて大花を見た。
「さ、皆食べてしまったなら、朝の時間は終わり。今日は、昨日の続きを編むのでしょう?」
「はい!」
 緑たちは、急いでパンを口に押し込むと、皆の木椀を集めて外に飛び出していく。
「あ、俺も何かしましょうか? その…」
 わっと蜘蛛の子を散らすように、それぞれの仕事を始めた緑たちを眺めながら、アスランは大花におそるおそる申し出た。
「いいえ。あなたはお客様ですから、いいのですよ。ゆっくりして、疲れを癒されたら、故郷にお帰りになるといいでしょう。帰り道は、そのときにお伝えしましょうね」
「ありがとうございます」
 大花の優しい眼差しに、アスランは思わず頭を下げた。
「あの…それで、言いにくいことなのですか」
 アスランはそのまま、大花の顔色をうかがうように言った。
「俺、金になるものを何も持ってないんです。本当に、財産になるものといったら、マク…あの馬くらいで」
「ええ」
 何を考えているのか、大花の表情はアスランが求めるものを表していない。アスランは一つ息を吸ってから、言葉を確かめるように言った。
「そこで、なんですが。俺、都で商売をやっているんです。少し見させてもらいましたが、ここのカルという絨毯は、都の人間から見ても素晴らしい出来で、すごく高く売れると思うんです。それから、あのクリュという野菜も、他にはないものですし。だから…」
 アスランはここぞとばかりに、心をこめて言った。
「俺にここの品物を任せてもらえたら、都ですべて売りさばいて、見たこともないほどたくさんの金粒にしてお返しします。その金は、ここの子たちが、大人になるまで遊んで暮らせるくらいの財産にはなるでしょう。もちろん、俺がお世話になったお礼ですから、手数料なんかとらずに…」
「御客人」
 大花は、やんわりとアスランの言葉を遮った。
「あなたが、私たちのことを思って言ってくださっているのはよくわかります。けれど…」
「何でしょう」
 アスランの言葉に、大花はしっかりと背すじを伸ばして座ったまま、柔らかく微笑んだ。
「私たちの暮らしは、一粒の金粒にも頼っておりません。私たちは毎日、薪を集め、糸をつむぎ、染め、編み、飯をつくり、植物の世話をして暮らしております。私たちに必要なものは、すべて天が恵み、大地が育み、そして私たちが生かされているのです。ですから、金などあっても仕方がないのです」
「…植物を操る能力があれば、他の人々に頼ることはないということでしょうか」
 アスランがおそるおそる言うと、大花は表情を崩さずに言った。
「そうですか。あなたはご覧になってしまったのですね」
「はい。あなた方は人間ではないのですか? 植物を操る力など、俺は聞いたこともありません」
「私たちが何者かなどは、どうでもいいことです」
 大花は穏やかな笑みを浮かべたまま、しかしその瞳に真面目な光を宿して言った。
「それに、知られてしまったものは仕方がありません。けれど、都にお帰りになられても、この村のことは他言無用です。そして、二度とここへ訪れようとはなさらないで下さい」
「…もし、俺が誰かに話してしまったら?」
「そうですね」
 大花は首をかしげた。
「実際のところ、あなたが再びこの地を訪れることはできないでしょう。今回は、さまようあなたたちを不憫に思った神様が、あなたたちをこの地に導いたのでしょうが、普段私たちが住むこの地は、迷いの森に守られています。だから、誰かがここに訪れようとしても、森がそれを阻むでしょう。ですから、他言無用だと言いましても、それは禁忌の意味ではなく、私からのお願いなのです。あなたの心の、優しい部分への」
「…わかりました」
 アスランは、自分の口から出た素直な音色に驚いた。
 まるで、母親に諭された幼子のように、アスランの心に大花の言葉は響いていた。
 #緑{リウ}の一族、といったか、この村の人たちは、それは素朴な生活をし、そしてその生活を存分に楽しんでいる。
 それは緑の様子や、朝餉の素朴さからもわかる。
 そしてそれは、都のユクセルがしているような豪奢な生活とは正反対のものだ。
 それなのに、アスランはこの早くもこの静かな、清貧とでも言うべきこの村の生活に、心惹かれていた。
 この里の風景と、清らかな緑の一族の心は、アスランの金粒にまみれた心さえ真っ白に、美しく変えていくようであったのだ。
「それでは、お好きなようにお過ごしください。また夕餉に緑をやりますので」
「ありがとうございます」
 大花が家の奥へと消えると、アスランはどう過ごしたものかと辺りを見回した。
 小さな緑たちは、朝餉を片付けると、外に出るもの、カルを編む者も、それぞれの仕事をしているらしかった。
 マクの様子でも見に行くか。
 アスランはふらりと外に出ると、丘の小道を、今度は下っていく。
 すると、アスランの眠っていた小さな岩の家の前に、ちょうど少女に連れて来られたマクに会った。
「やあ、どうも」
 アスランが声をかけると、少女はにっこりと笑った。
「今、毛並みを梳いてやってるところです」
「馬の扱いに慣れていますね」
「いえ、そんなこと…」
 少女は恥ずかしげに顔を背けて、熱心に飾り毛を梳かす。
「腹もいっぱいにしてもらったみたいだ」
 アスランの言葉に同意するように、マクは満足げに小さな目を瞬かせる。
 そして、それからしばらく、静かな沈黙が流れた。
 この少女といると、アスランはどうも調子が狂ったように、いつもの口調が戻らなくなってしまう。
 それは、どうしてか丁寧な言葉で話しかけなければならないような雰囲気が少女にあるからかもしれなかった。
「そういえば、あの花…」
 アスランはふと思い出して言った。
 初めてこの少女と出会ったときに、辺り一面に咲いていた、見たことのない色とりどりの花。
「あの花の名前は、何て言うんだい?」
 少しは気さくに聞こえるように、いつものように話すことが、何だか気恥かしいながらも、アスランは少女に訊ねた。
「花…ああ、ラーレのことですね」
「ラーレ…」
「はい」
 少女は初めて見せる種類の笑顔で言った。
「私が世話をしているんです」
「そうなんだ」
 少女の笑顔にどぎまぎしながら、アスランは出来るだけ普通を装って言った。
「綺麗な、花だね」
「ええ」
 綺麗、という言葉を、美しい少女に向けて言うのは、少女を褒めているようでアスランは恥ずかしかった。
「ここの人たちは…緑の人たちは、どうして名前がないの? その…君の名前を、他の緑と同じに呼ぶのって、俺は変な感じで…」
「そうですか?」
 また不思議そうに、少女は首をかしげる。
「だって君は特別だから…」
 自然に口から飛び出した言葉に、アスランは顔を赤くした。
 俺は、何を言ってるんだ。
 一人で慌てるアスランに、少女はその言葉の意味がわからないかのように少し微笑んで言った。
「そんなはずありません。私たちは、大花様から生まれた、同じ緑ですから」
「君たちに父親はいないのかい? その、男の人を見掛けないけれど…」
「いいえ、大花様だけが、私たちの親です」
「でも…」
 きっぱりと言う少女に、アスランは一歩歩み寄った。
「子供っていうのは、その、男と女がこうして…」
 アスランはマクを撫でる少女の手に、自分の手を重ねた。いきなりのアスランの行動に驚いて、少女が近い距離でアスランを見上げる。
 少女の手はひんやりと冷たく、しかしアスランが触れても消えてなくなりはしなかった。
 息がかかりそうな距離で、アスランの鼓動の音は少女に聞こえてしまいそうなほど、どきどきと脈打つ。
「君は、綺麗だ」
「…そんな」
 アスランの声に、少女の白い頬が紅をさしたように赤くなる。
「あの花と同じくらい…」
「…ラーレの花ことですか?」
「うん」
 アスランは重ねた手を、そっと大切なものを守るように握り、少女の身体を引き寄せた。
「ラーレ」
 その綺麗な花の名は、目の前で微かにまつげを震わせる、美しい少女にぴったりだった。
「君のこと、ラーレって呼んでもいいかな…」
 少女は口を閉じたまま、潤んだ瞳でアスランを見上げた。それから、アスランの言葉にうなづくようにゆっくりと目を閉じた。
 それは自然な成り行きだった。
 アスランは目を閉じると、その花びらのように柔らかな少女のくちびるに、そっとくちづけた。

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