カッコがつかない。

kitatu

第6話

桜の季節。薄い桃色の花びらが舞う中、期待と不安を胸に校門をくぐる。新品の固く張り詰めた制服を着ている自分が、一日前とは別人であるように思えた。しかし未だ体は追いつかず、制服の袖は少し長い。それも、これからの成長を見越したため、大きめの制服を選んだからだった。辺りに響きわたる笑い声。夢見描いた新たな生活が始まった興奮から、皆が皆浮かされている。ふわふわとした新入生達は、白い壁の綺麗な校舎へ、ぞろぞろと入っていく。俺も列に連なって歩く。見知らぬ環境に身をおくにしては、足取りが軽かった。

……というのは理想の話。

実際には、地面に落ちた桜が、濡れたティッシュみたいに汚い季節。新入生はクラスの交友関係もできて落ち着き始めた頃。そもそも、俺は二年で、微妙な時期での編入。公園バトルの件もあり、新生活への期待が霞むほど不安が大きい。校舎の壁くらいは、と思うが、歴史ある公立高校なので年期が入っており、白というより鼠色に汚れている。ただ一つ、似ていることを敢えて上げるのならば、昨日叔母さんが着ていたせいで胸元が伸び、サイズが合わない制服のシャツ……切ない。

だが、理想通りではなくとも、普通の学校であることに安堵する。日本で普通の学園生活が送れるのだ。それだけでもありがたいし、幸せなことだ。

正直なところ、俺は部活に青春をかけるでもなく、何か特別な課外活動をしていたわけでもない。前の学校にいた友達は6、7人。明るい性格で友達をたくさん作ってやろうだとかも思わない。新生活に不安を抱いていた俺にとっては、こっちの方が良いのかもしれない。

そんなポジティブな想いを抱えながら、校舎を見上げる。校舎は高く三階建てで、各階の窓が駐輪場に向けて張り巡らされている。窓には生徒達がもたれ掛かっている姿が映り込み、未だ授業には早い時間だとわかる。俺は今日、この県立東山高校に入学してきたのだが、授業開始前に職員室に来るように言われていたので、早めに登校できたことに安堵した。

俺は玄関から校舎に入る。靴箱の間を通り抜け、段差の前で靴を脱ぎ、灰色のタイルに上がった。そして、スクールバッグとは別に持っていた安っぽい生地のトートバックから、あらかじめ買っておいた学校指定のサンダルを取り出して履く。床は、埃や小さな砂が薄く覆っており、この便所のスリッパと変わらないサンダルも必需品だと感じた。

それから、階段を一つ登り、たくさんの窓が並ぶ長い廊下に出る。廊下を挟んで、窓と向かいあうように教室が五つほど並んでいるが、そちらに興味はなく、階段の裏へと周り、そこから続く渡り廊下を抜けた。

別の棟にたどり着くと、前には階段、右手には廊下があり、張り巡ぐらされた窓から中庭を見渡せる。左手には一際大きな押し扉があり、扉の上にある長方形が出っ張った看板には『職員室』と書かれていた。

職員室に来るのは、引っ越して来た当日に入学前の説明を受けた時と合わせて二回目だが、無事辿り着けたことに息をついた。

早速、職員室に入ろう、とドアノブに目を移すと、麻紐で小さなホワイトボードが吊るされていた。そこには『職員会議中』と書かれている。

仕方なく、職員室の前で佇んでいると、緑のジャージを着た女子二人組が階段を登ってきた。今いる校舎の裏にはグラウンドがある。朝練帰りだろうか。

俺の予想は正しく、生徒が近くに来ると、強い制汗剤の匂いが鼻についた。強い香りから逃げるように顔を背けたが、彼女らは俺に顔を向ける。なんだろうか、こちらも彼女らに顔を向けると、奇異の眼差しを向けられていた。彼女らは、そのまま、ひそひそ話しながら渡り廊下へと抜けていく。

ああ、そうか。そりゃ、朝から職員室の前で棒立ちになっている男がいれば、不思議に思うのも当然か。うん、居心地が悪く居た堪れない。できれば、もうここを生徒が通らないでほしい。

しかし、無情にも階段を登ってくる足音が聞こえる。

俺は奇異の視線に晒されたくない為、身を縮めて職員室の扉に向かい合った。

パカリ、パカリ、と馬の蹄のような、スリッパが床を鳴らす音が近づく。

パカリ、パカリ、パカリ……パカリ……パカリ…………パカ…………。

迫る足音は、何故か俺の背中で止まった。奇妙に思い、俺は振り返った。

美しさに目が覚める。

栗色の髪の少女が、俺の方を向いて立ち止まっていた。健康的な白い肌、桜色の薄い唇、小さな顔。大きな胸のせいか茶色のカーディガンが引き締まっている。短いスカートから伸びる足も引き締まり、凄く綺麗だ。

まるで、歩く目覚まし時計のようである、と愚考するくらいに可愛い。朝、彼女に出会えた人間は、眠く重たい瞼を開かせてくれてありがとうと感謝するに違いない。

しかし彼女もまた、何百時間寝ればそれほど大きく出来るのかと言うほど、瞳をぱっちり丸く見開いていた。それどころか、あんぐりと口まで大きく開けている。

彼女は俺と目があうと、腰を引かせていき、遂には埃っぽい床に尻餅をつく。そして、震える白い指先を俺に向けてきて口を開いた。

「せ、せせせせ赤兎馬!?」

「誰が赤兎馬だ!」

栗色の女子の反応に、つい叫んでしまう。勢い余って一歩踏み込むと、女の子は悲鳴をあげた。

「ひいぃ!? 来ないで! 怖い!」

栗色の女は目に涙を溜め、陸に上がったオットセイみたいに、抜けた腰を引きずって逃げる。女のスカートから伸びる白い足は、床の埃でだんだん黒く汚れてゆく。

ま、待ってくれ! 今、どういう状況だ!? 何故、初対面の女の子に逃げられてるんだ!?

脳内は、沢山の情報で、ぐるぐるぐるとごちゃ混ぜになり、考えても答えが出ない。ついには目眩までしてきた。

なんで、転校早々こんな目に!?

混乱に耐えきれず頭が痛くなり、俺まで床に崩れ落ちた。すると、俺を仕留めにかからんばかりの悲鳴が聞こえた。

「ひいいいい! 赤兎馬が私のパンツを覗きに来たぁぁああ!」

「誰が覗くか!!」

ガンガンと鐘につかれたようなみ頭痛の中、目を閉じて叫んだ。だが俺の声に比例して、少女は更に大きな声を上げる。

「もももも、もっと中ってこと!?」

「違う!!」

「ず、ずみまぜんでじだぁあ! もう、ががわりまぜんから、れいぷだけはゆるじでぐだざいぃぃ!」

「だから違う! でも、頼むから本当に関わらないでくれ!」

二人の潤んだ声が廊下に響き渡る。

女の、あまりに酷い勘違いのせいで、俺まで涙声になってしまった。わけのわからぬ状況に、夢なら早く覚めてくれ、と強く願う。

しかし、いまだ悲しい出来事は終わる気配もなく、少女は逃げ続ける。少女の後ろの床は、涙を塗りつけられ、ナメクジが這った後のようになっていた。

悲しい。なんて悲しいんだ。出会って数十秒しか経っていないというのに。

さらには体も頭も重くなり、沈んでいく感覚に陥る。だが、このまま倒れこむわけにはいかない。

落ち着け。まずは、何をすればいいのかを考えろ。

自分を叱咤し、なんとかこの状況を整理しようと、鈍い脳を必死に回転させる。

目の前には、咽び泣きながら地面を這う女子高生。場所は、会議中の職員室前廊下……。

やばい、逃げなければ、と思ったその時、扉が開く音がした。

「うるさい! お前ら何やって……」

振り返ると、ジャージを着たガタイの良い先生が、口をポカンと開けて棒立ちになっていた。

「ち、違うんです、先生!」

何に弁解しているかも分からず、必死で訴えかけた。だが、反応は芳しくなく、先生は苦々しげに口を開いた。

「三十年教師をして来たが、いまだかつてこんな事態に出会ったことがない」

先生の見つめる先を辿ると、手が疲れたのか、芋虫のようにしゃくる女子高生。

「先生! 俺もこんな事態に出会ったことがありません!」

「だ、だが、まあ、今時の高校生なら普通かもしれんな」

「ご自身の経験を大切にしてください!」

理解できないものをそういうものと考える大人の悪い癖が出た先生に、経験則の大切さを訴えかけた。しかし先生は「職員会議が終わったらくるから、それまで静かにな」と、めんどくさいことを後回しにするという、大人の悪い癖をまたもや出して、職員室に帰っていった。

酷い。酷すぎる。入学早々、常人には理解できない行為をする生徒、そんなレッテルが貼られたかもしれない。

恨みがましく、元凶を見ると、廊下の突き当たりまで逃げていた。それでもまだ逃げたりないのか、左右が効かなくなったラジコンみたいに、鳴き声をあげながら壁に体を寄せ続けている。

哀れな女子を見ているうちに、だんだんと冷めてきた。やがて落ち着きを取り戻し、脳が正常に回り始める。

確かこの女、俺のことを赤兎馬と呼んで逃げたよな? ってことは、昨日の勝負を見られてた?

そこまで考えが至ると……いや、それまでもなく結論は出ていた。

うん、関わらないでおこう。

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