追憶のピアニスト

望月海里

ピアノ練習室の告白


翌日の17時、約束通りに108号室に向かった。
部屋の中からは、かすかにピアノの音がしている。防音室になっている練習室なので、そんなに音は漏れ聞こえてはこない。ノックをして、ドアを開ける。久しぶりに見る西村は日に焼けていた。

「先輩お久しぶりです。なんか、日に焼けてませんか?冬なのに?」
「ああ、ちよちゃん久しぶりだね〜。ちょっと旅に出てたから。」
「どちらに行かれてたんですか?日焼けするって。」
「ああ、日焼けっていうか、雪やけかな。九州に行って、スキーしてきた。」
「え?九州でスキーですか?普通、スキーなら北の方じゃないんですか?」
「ははは、確かに。スキーをしにいった訳じゃないんだ。たまたま4日間だけ、スキーしてただけで。本当は海を見にいってたんだよ、海が見える温泉。」
「あ〜、なるほど。確かに温泉なら九州多いですもんね。」
一通りの近況報告をした。

「今日呼び出したのはね、ちよちゃんに聞いてもらいたい曲があって。」
「え?ああ、そうなんですね〜。わかりました。聞きますよ〜。」
「ここの椅子に座って。」

そう西村はピアノのすぐ横にある、譜捲りをするアシスタント用のパイプ椅子を指さした。

「はい。でもこんなに近くで聞いていいんですか?弾きにくくありません?」
「いや、近くで聞いて欲しいから。」

そう西村は言って、部屋のあかりを消した。
部屋には間接照明はない。普通なら真っ暗になるのだが、この日は、譜面を見やすくするようの小さい明かりを譜面立てに挟んでいたため、真っ暗にはならない。

「ちょっと集中して聞いてほしいから。目を瞑って聞いて。」

いつもの軽い西村とは違う雰囲気に私は、ドキドキしていた。それだけ真剣に聞いてほしいということなのだと、少し緊張もした。

演奏が始まる。高音の旋律から始まる曲だ。単音の旋律から、徐々におしゃれなコードがついて、ジャズっぽい響きに広がっていく。時に低音が響き、リズムも激しくなるが、また優しいフレーズに戻ってくる。5分ほどの曲だろうか。私は、目を瞑って聞いていた。隣の西村からは微かにタバコとコロンが混ざった大人の匂いがする。その雰囲気も相まって、心地の良い時間が流れていた。演奏が終わった。

「ちよちゃんまだ、目を開けないで。しゃべらないで。余韻を感じてほしい。」

そう言われて、まだ目を開かずにいた。静寂が続く。おそらく2分ほどがたった。
ふと、右頬に、何かが触れた。私はびっくりして、思わず目を開けた。

私の右頬に触れていたのは、西村の左手だった。左手の手のひらで頬を触られている。
目があった。西村はすかさず、その左手の人差し指を私の唇に当てた。喋るなというジェスチャーだ。目を見開いたまま、西村と目が合い続けている。薄暗い部屋の中に、まだ静寂が続いている。

「ちよちゃん、お願いがあるんだ。抱きしめてもいい?」

私が答えを言うか言わないかの時間で、既に抱きしめられていた。私は固まってしまった。抱きしめられたそのままの姿勢で、西村は話し出した。

「この曲、タイトルまだ決めてないんだけど、九州の海を見てたら、思い浮かんで作った新しい曲なんだ。なぜか、ちよちゃん思い出してさ。ちよちゃん九州出身でしょ?冬なのに、穏やかな海でさ、なんかちよちゃんみたいだって思ったんだよ。
実は俺は、音楽やめようかとも思っていたんだ。色々あって。卒業後は普通に就職でもして、音楽から離れようかとも思ってた。金もかかるしさ。留学したいのは山々だけど、先立つものがな。もう諦めてた。でもそんな時に、君が神社で練習してる姿見て、元気付けられてきてたんだよ。だから、俺、音楽続ける。卒業しても、ピアノの講師でもしながら、作曲続ける。」
そこまで話したところで、腕に入っていた力が抜けた。

「先輩、苦しいです。」
「あ。ごめんごめん。なんかこの曲聴いてもらうまで緊張してて。こんなこと人に言うのも初めてだったから。」
そう言って、解放してくれた。

「あの、感想上手く言えないんですが、私はこの曲好きです。海がキラキラ光ってる様子と、でも、たまには切ない表情と、そして、嵐の海の感じ、私も想像してました。だから、すごく好き。」
「え?ほんと!俺も、そう思ったんだよ。海って、いろんな表情あるけど、やっぱりマザーネイチャーっていうか、母なる海っていうか、ちよちゃんっぽいっていうか・・・。」
そこまで言われて、急に恥ずかしくなった。

「先輩、音楽やめないでくださいね。私、実はあの神社で歌練習してる時、5月頃に、先輩のひくピアノの音、偶然あそこで聴いてたんです。学祭で先輩が弾いてたあの曲です。曲が素敵だったので、携帯で録音までしてました。誰が弾いてるのか知らなかったけど。そしたら、あの学祭で先輩が弾いてるから、びっくりしちゃって。」
「なんだ、俺たち、お互いに、あの学祭までに音楽では繋がってたんだね。」
西村はそう言って、優しく笑って見せた。
「先輩、あの曲のタイトルはないんですか?」
「あ、あれもタイトルつけてない。強いて言うなら無題かな。なんか5月の新緑の季節にできたんだけど、ふっと沸いたというか・・・」
「じゃあ、あの曲にもし、タイトルがついた時には、教えてください。そして、この曲のタイトルもつけたら教えてくださいね。」

そう言って約束をした。

この日も、私と西村は、自転車に二人乗りをして帰った。途中警察に見つかるのではないかとヒヤヒヤしたことを覚えてる。でも、自転車に乗りながら見た、あの日のお月様はきっと忘れないと思う。それくらい空気の冷えた日で、美しい月だった。

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