亡国の黒騎士と呼ばれた男の旅路は闇の女王と共に

宗岡 シキ

第80話 憤怒の業火【聖魔導士の追憶②】

 自身の自由が奪われてから5年の月日が流れ、ルナは10歳にまで成長していた。
 外の世界と全く関わることなく育ってきた少女だったが、その分あり余る時間の中で様々な芸術の分野における技を磨いていった。
 絵画であったり、彫刻であったり、音楽であったり。
 それこそ凡そ子供とは思えないほどなのだから、この才を広く世間に公表してもいいのではないか。

 だがこんな評価もおそらくは今だけであろう。
 なぜならルナが持つ「魔力を持たない」という体質は、芸術面においてもハンデとなるのだから。
 もし名だたる作家と常人を隔てる境界線があるとすれば、いかに繊細な魔力のコントロールを出来るかで決まってくるのだ。
 例えば手や筆に纏わせることで繊細なタッチや塗りを可能にして名画を仕上げたり、また楽器に纏わせることで心地よい音色を奏でたりと。
 人の心に響かせる作品を生み出すには必須とまで言われる技術だ。
 結局のところ、大人なるにつれてルナが手がけたものは凡作と評されるだろう。

 だけど本人にとって、そんなことはどうでもよかった。
 小さな芸術家の創作意欲を駆り立てているのは、ひとりの女性を喜ばせるという思いと、初めて絵を求められた際に交わした約束を果たす為だけなのだから。

 受け取り手である家事使用人も決して義理などではなく、きちんと心から感謝の意を表していた。
 その証拠に彼女の部屋はルナからの贈り物で溢れていたが、どれもがこれ以上ない適切な箇所に飾られ、彩りを演出する手助けをしてくれている。
 今となってはそれらを眺めることが、無機質な人生を歩んでいた少女にとっての誇りとなり、また生き甲斐となっていたのだろう。



 そんなある日のこと、ルナはフランに連れられて屋敷の裏庭へとやってきた。
 植木の手入れは最低限されているものの、花などは一切なく、どこか寂しげな雰囲気を漂わせる空間だ。
 その端にポツンと佇む古い物置小屋。
 今は使用する者もいないために扉は固く、中に放置された用具は埃をかぶっていた。
 もちろんフランのことを信頼していないわけじゃない。
 それでもやはり庫内の暗がりによって、ルナの心には不安な気持ちが湧き上がってきた。

「いつもお嬢様からは素敵なものをいただいてばかりなので、今度は私の方からお返しをと思いまして」

 そう言ってフランは奥の方へと手を向ける。
 目を凝らしてよく見てみると、そこには1本の苗木が添えられている鉢植えがひとつ置かれていた。

 これがお返し?
 誰かに贈り物を貰うこと自体ルナにとっては嬉しかったが、ただ見た目からすればこれが適したものではないと子供ながらに感じている。
 そんな内心を察したのか使用人はクスクスと笑うと、少女の疑問を払拭してくれた。

「これは街で旅商人から購入した、月虹樹げっこうじゅという大変珍しい植物なんです。成長するとその名の通り、虹色に輝くとても美しい花を咲かせると言われているんですよ」

 珍しいとは貴重なことで、貴重なものは手に入れるのにお金がたくさん必要になる。
 その繋がりが分かっていたからこそ、プレゼントにこれが選ばれた理由もようやく理解できた。

 だけどそうなるとまた新たな疑問が生まれてくる。
 どう考えてもここは植物を育てる環境としては劣悪だという点だ。
 普通ならば日当たりのよい場所を見つけて置いておくべきなのに。

「この月虹樹はかなり特殊な性質を持っておりまして、育てるのに日光も水も全く必要としないのです。肝心なのは――」

「肝心なのは?」

「毎日優しい言葉をかけてあげて、『大きくなれ』と祈ることです」

 どう考えても苦笑するか、バカにしないでと怒るところだが、フランの顔を見ればとても嘘をついているようには思えなかった。

「光る花が咲くというのなら、その瞬間は暗所で見るのが最も映えると思いませんか?」

 人差し指を立てながら提案する使用人の仕草からは、さらに真面目な様子が窺えた。
 となればルナにとって目指すべきはただひとつ。
 贈り主の真心に応えるためにも、手厚く世話をして必ず開花させることだろう。


 ◇


 それからというもの、ルナは毎日倉庫へ足を向け、フランから教わった育成法を実践していた。
 しかし声をかけろと言われても、さすがに初めのうちは抵抗感が拭えなかった。
 ぎこちない挨拶から始まるも、すぐに長い沈黙が続く。
 ようやく口を開いたかと思えば、今日は何を食べたとか、何の本を読んだなど中身のない話をするだけ。
 植物が相手だからというよりも、植物にすら上手く言葉を交わせないというのが正解か。
 自分自身がもう長い間されていないために、この少女は他人にかけるべき「優しい言葉」とは如何なるものかが思いつかなかったのだ。

 だけどもうひとつの条件については、これ以上ないくらいに満たしていた。
「大きくなれ」と心から祈ることだ。
 見事な花を咲かせてフランを喜ばせてあげたい、枯らしたりしてガッカリさせたくないという気持ちが、自然とそうさせていた。

 そして継続していくうちに会話……というよりは独り言に近いが、それにもだいぶ慣れてきた頃だった。
 日々世話に勤しんでいた少女は、枝に花芽が出来ているのに気づく。
 疑っていたわけではなくても、やはりこの結果は驚かずにはいられなかった。
 そんな驚きが喜びへと昇華されると、急いで知らせに行くため踵を返して駆け出す。
 ところがよほど慌ててたようで、その際に作業台の上に置かれていた木材の角に腕を引っ掛けて傷を作ってしまった。
 深くはないが傷口からは血が滲んでいるのを見て、尚更早くフランの元へ行かなければと考える。
 なぜならルナが怪我をしたり体調をを崩したりすると、彼女が迅速かつ丁寧に手当や看病をしてくれるからだ。
 だが外へ出ようとした間際に、突然何者かに進路を塞がれてしまう。

「よぉ、ルナ。そんなに急いでどこ行くんだよ」

 出入口の真ん中に立っていたのは次男のレズリーだった。
 日常的に心身のどちらにも痛みを与えてくる人物なのだから、少女が咄嗟に身構えるのも頷ける。
 加えて剪定せんていバサミを手にしている姿を見れば、脳裏に悪い予感がよぎらないわけはない。

「裏庭の方に歩いていくのをよく見かけるから何をしてるのかと思って探ってみたら、倉庫の中でそいつを見つけてな。せっかくだから俺が綺麗に整えてやるよ」

 レズリーは下卑た笑みを浮かべながら、わざとらしくハサミを開いたり閉じたりしてみせる。
 バラバラに切り刻んでやるという意図を、これでもかというくらい見せつけながら。
 しかもわざわざ大切にしている本人がいる時を狙って実行したのは、泣きじゃくったルナの表情と泣き声を楽しむためなのだろう。

「ダメ……させないよ」

 だが次兄の思惑は外れた。
 いつもはされるがままの妹は、目を潤ませ、足を震わせながらも、鋭い眼光で睨みつけて逆に立ち塞がる。

「どけよ! なんだ、その生意気な目は」

 予想外なルナの抵抗が気に入らず、頭に血が上ったレズリーは頬に平手打ちを食らわせた。
 こういう展開になれば兄がすぐに手を出すのを理解していたからこそ、少女は尚も拒み続けることが出来たのだ。
 予め痛めつけられるのを覚悟していたおかげで耐えられるという皮肉な話によって。

 いくら殴っても倒れない、自分の思い通りにいかない。
 それによって尚更カッとなったレズリーは、ルナの髪と肩をそれぞれの手で掴み、振り回して地面に転がした。
 如何ともし難い体格差のため、小さな護り手はついに道を開ける形となってしまう。

 そして体を起こしてからすぐ目に飛び込んできたのは、息吹きはじめた命を宿した枝が次々に切られていく光景だった。
 一瞬のうちにルナの見るもの全てが真っ赤に染まる。
 生まれて初めて抱く感情、「怒り」によって。
 これまで散々味わってきた、寂しいや悲しいとはまた別の負の感情。
 それに無意識のまま体を突き動かされ、勢いよく次兄に体当たりをする。

「がっ!……かっ……」

 数歩よろめいた後に、レズリーは顔を抑えて蹲ってしまった。
 妹による渾身の攻撃が効いたわけではなく、体勢を崩した際に、手に持っていたハサミで頬からまぶたの上にかけて切っていたからだ。
 かすっただけなので傷は浅く、眼球も無事であったのが幸いだったが、箇所が箇所だけに出血は派手である。
 べったりと手についた自分の血を見て青白くなっていたレズリーの顔は、徐々に赤く変化していった。

「てめぇ!!」

 そして悪鬼のごとく形相でルナに迫ると、頭を地面に押しつけてハサミの切先を向けてくる。
 これは脅しなんかではない。
 確かな殺気が、凶器へと変えられた道具に込められているのがハッキリと分かった。
 ただ興奮して我を忘れているだけでない。
 これは彼が妹という存在を軽んじてしまっているが故に引き起こされたことだ。
 少女は何とか逃れようと身動みじろぎするも、特別な訓練なしに体格差で勝るヒトを跳ね除けることは不可能である。


 死ぬ――


 そんな思いが頭の中を支配した途端に浮かんできたのは、なぜか虹色に輝く花だった。
 だけどきっとこれはルナの妄想なのだろう。
 なぜなら本人はまだ実際にこの目で見たことはないのだから。
 なのになぜ真っ先にこのビジョンが浮かんできたのか。
 もし花を咲かせたかったという未練が、それほどまでに強かったのだとすれば合点がいくが。

 実際に今のルナは生に執着している。
「まだ死にたくない」という願望の元に、成果の伴わない抵抗だけは続けていた。
 その間にも脳裏での映像の流れは止まらなかった。
 ほとんどはフランと共に過ごした時間と、そんな彼女のための贈り物を作った日常。
 他人であったはずの使用人のおかげで、こうして振り返りながら失いたくないと願えるほどの人生にできたのだ。

 だがそんな小さな幸福も、それ以上の暴力の前ではあまりにも簡単に崩れ去ってしまう。
 今回のように自分が報いを受けるようなことを一切していなくとも、相手の気分次第という理不尽な理由によってさえ。
 そんな現実にはこれまで何度も直面して、その度に心を押し殺してきた。

 だけどひと昔前までと違う少女は感情を昂らせ、それを相手に向けてぶつけていた。

 悔しい、嫌い、腹が立つ、消えろ、



 ――死んでしまえ。


 それでも実際は、どんなに強く念じたところで全てが叶うわけではない。
 何ひとつ滞ることもなく、次兄が向けるハサミが妹の顔に目掛けて迫ってくる。

「いやァァあああああああ!!!」

 張り詰めた感情が叫びとなって溢れ出た時、ルナの眼前に広がる「赤」はさらに色味を増していった。
 体の底から熱い何かが湧き上がってくるのと同調するように。







 同日の同時間、屋敷の者たちは何かに導かれるよう一斉に外へと飛び出した。
 それを引き起こしたのは裏庭の方から聞こえてきた悲鳴だ。
 現地にたどり着いた各々の目に最初に舞い込んできた光景は、激しく燃え盛る倉庫だった。
 そしてその傍らに転がる黒い物体。
 近づくにつれて感じる異様な臭いのせいで、全員が揃って鼻と口を手で覆う。
 さらに距離を縮めてみると、形からその塊がヒトであったものだと分かった。
 続け様にそれがレズリーだということも。
 遺体は誰かも判別できないほどだが、この場に次男が駆けつけていないこと、さっきの悲鳴が少年のものであったことから、ほぼ間違いはなかった。
 周囲の芝の至る所に燃え移った跡があるところを見ると、相当に苦しみもがいたというのが窺える。
 呼吸することすら叶わず、徐々に体が朽ちていくのを感じていたレズリーの願いはたったひとつだったろう。
「少しでも早く楽になりたい」と。

 はじめのうちは状況が飲み込めないため、やむを得ないところもあった。
 だがしばらくしても、親であるセオドリクもジェールも微動だにしない。
 息子の死を嘆き悲しむどころか、凄惨な姿を気味悪がって近づくことすら躊躇していた。
 肝心の両名が手をこまねいているせいで、誰も何も出来ないままイタズラに時間が過ぎていく。
 そんな集団に加わっていたフランは少女の姿がないことに気づき、ある予感が頭をよぎった。

「お嬢様……まさか!?」

 贈り主であるがゆえに鉢植えのことを知っていた彼女だからこそ浮かんできた、崩れゆく倉庫の中にルナが取り残されているのではという最悪の予感だ。

 他の使用人たちが制止する間もなく、フランは業火の中へと飛び込んで行った。
 きっと反射的な行動だったのだろう。
 こうなっては最早、祈る以外に出来ることなどない。
 ある者は自分の顔の前で手を組み、またある者は胸を抑えながら目を瞑る。

 皆が固唾を飲んで出入口を見守っていると、フランは暖炉の中に投げ込んだ木の実のように勢いよく弾け出てきた。
 使用人たちは今度こそ足を動かし急いでフランの元へと走ると、衣服を焦がす火を叩いて消していく。
 そして見事に生還した彼女の腕の中には、体を丸める小さな女の子の姿も。
 所々に火傷を負い、かなり煙を吸い込んでしまったせいで衰弱しているが、命に別状はなさそうだった。

「あ……フラン?」

「お嬢様! あぁ、お嬢様……よくぞご無事で」

 意識があることを確認して安堵の表情を浮かべながら、フランは懐に忍ばせていた綺麗な布で黒く汚れたルナの顔を拭いてあげた。

「お嬢様、腕にもお怪我を」

 火事になる以前に自分の不注意でつけた傷だが、軽く拭ってみると既に血は止まっており、肌に付着しているものもほとんど乾いている。
 大した怪我ではなかったと分かり、命の恩人たる使用人は再び胸を撫で下ろした。

「ごめんね……何とかしようと思ったんだけど、ダメだった」

 ルナが全身で守るように抱いていたのは例の植木鉢だった。
 だけどそこに残されていたのは根元のみ。
 その部分から上は完全に焼けてしまっていた。
 どうやらただ逃げ遅れたわけではなく、必死に大切な命を持ち出そうとしていたようだ。

「いいんです、これほど大切に想ってもらえれば、きっとこの子も報われるでしょう。無事なお姿のままそのようなお気持ちを届けてくださっただけで、私には感謝の言葉以外ありません」

 さらに力を込めて少女を抱きしめる様は、まさしく「離さない」という意思の表れだった。
 その優しさに触れたからか、ようやく安堵したからか、ルナは胸に埋もれて体を震わせる。

「こ、これは一体どういうことだ!? ルナ、何が起きたのか説明しなさい!」

 そこへ配慮など全くなしに声をかける者がいた。
 実の娘を心配するよりも先に、自分自身の混乱を解消しようとするセオドリクだ。
 しかし使用人たちが顔に浮かべたのは、軽蔑ではなく驚きである。
 なぜならルナのことを直視して彼の方から声をかけるなど、いつ以来だったか分からなかったからだ。

「旦那様、お嬢様には早急な治療が必要かと思われます。まずは医師の元へお連れするのが先決かと」

「黙れ! 使用人の分際で意見するな! こ、こういう場合は、まずだな……状況の把握が最優先で……」

 目下の者に諭される形となり憤慨するものの、正論ゆえにセオドリクは円滑な返答が出来なかった。
 それでもこの娘にとっては父親に話しかけられる事実が重要な意味を持つからか、それとも罪悪感からより従順になっているのか、顔を上げたルナは事の顛末を静かに語り始めた。

 倉庫にいた理由、レズリーに加えられた暴行、そしてこの場のあらゆるものが炎上した原因。
 ハッキリと何が起こったのかは理解していなくとも感覚で分かっていた。
 全ては自分がやったことだと。

 あまりにも信じ難い話ではあるが、ルナの声に込められた恐怖と後悔によって、皆は自然と受け入れていた。
 それを聞いたセオドリクはしばらく無言を貫いた後に娘へと手を伸ばすと、ルナは反射的に体を震わせて表情を強ばらせる。
 ところが父親がとった行動は、周囲の誰もが予想していないものだった。

「おぉ、ルナよ、とても怖い思いをしたのだな。可哀想に」

 フランの腕の中から強引に奪い取り、セオドリクは自分の元へとルナを抱き寄せた。
 父親による娘への抱擁。
 世間的にはごくありふれた光景なのだが、屋敷の住人たちにとっては大きく歴史が動いたくらいの出来事だ。

 だがそんな驚きも束の間。
 この不可解な行動の真意はすぐに汲み取れた。
 きっとこの男の中では、かつて狂ったように信じていた野望がまだくすぶっていて、それが再び激しく燃え上がったのだ。
 倉庫の中に引火の原因となるものがあったかもしれないし、ルナ自身がその道具を持っていたかもしれない。
 まだ確証など何ひとつないはずなのに、手のひらを返し、すっかりその気になってしまっている。

「でも……でも私はレズリーお兄様を……」

「大丈夫、あれは仕方がなかったんだ。聞けばレズリーの方に非があるようだしな。お前がしたことは紛れもなく正当防衛だよ」

 火事を起こしただけでも簡単には許されないのに、ヒトの命を奪うという決して取り返しのつかないことまでした。
 にもかかわらず慰められ、かばわれるという現状にルナは理解が及ばなかった。

 それからセオドリクは立ち上がり、様子を窺っていた者たちの方へ振り返る。
 その表情は気味が悪いくらい平然としていて、口から出る言葉も同様に淡々としていた。

「どうやらレズリーは倉庫内で火遊びをしていたようだな。その際、付近にあった木材に誤って引火し、瞬く間に燃え広がった為にこの様な惨状が引き起こされた。そう、これは不幸な事故なのだ」

 さながら自律式の人形のような魂のない語り口。
 息子の死という事実をそれほどまで簡単に片付けようとする夫に、当然ながら妻のジェールは異を唱える。

「あなた! 自分の息子を失ったというのに現場の精査もしないなんてどういうつもり!? それにもしルナの証言が本当なら、今すぐにでも国家憲兵に引き渡すべきだわ!」

「事故だ。そうだな? ジョナス」

「え!? あ、その……はい、相違ありません」

 名前を呼ばれた長男は思わず肯定の意志を示す。
 しかしその理由は、唐突に話を振られたからだけではない。
 父親から自分へ向けられた眼差しが、これまでのルナに対してのものと同系統だったからだ。
 劣等者を蔑み見下ろす視線。
 この瞬間にセオドリクの中では、兄と妹の価値が逆転していた。

「後で書簡紙の用意をしておきなさい。娘のことを調べてもらえるまで帝都の魔術士ギルドへ打診をする。例え断られようが何度でもだ。クソ! この私を謀りおって。あんな田舎者の男に講師など頼むでなかったわ」

 屋敷の主人は使用人のひとりに険しい表情で指示を出してから、別人かと見間違えるほどの笑顔で娘の方へ向き直った。

「おいでルナ。急いで医者を呼んであげるから、それまでお部屋で休んでいようか」

 手を引かれて連れられるルナはどうすればいいのか戸惑い、縋るように最も心を許している女性の方へ目を向ける。
 ところが当のフランは尚もその場にうずくまったまま。
 何をしているのかと思えば、救出した少女の血が付着した布を丁寧に折り畳んで、大事そうに懐深くしまい込んでいた。
 そんな奇妙な行動に、ルナは何とも言い難い不安を抱く。

「そうだ、汚れてしまった服の代わりに新しいものを用意させよう。とびっきり可愛いやつをな」

 奇妙と言えばもうひとつ。
 自分が何を期待されながら生まれたのかも、なぜ急に冷遇されるようになったのかも、まだ理由を知らないルナは不確かな感情を一旦保留にして考えてみた。

 どうして父はまた優しくしてくれるのか。
 人ひとりを殺めておきながら黙するのか。
 それがまかり通るのなら、もはや何をしても免罪となるほどである。
 何度も思考を繰り返した末に、不意にある仮説に白羽の矢が立った。

「――私がお兄様たちよりも……誰よりも特別だから?」

 そう思った瞬間に、ルナは自分の体も心も軽くなる心地よさを感じた。
 ずっと縛り付けていた鎖から解き放たれたように。



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