亡国の黒騎士と呼ばれた男の旅路は闇の女王と共に

宗岡 シキ

第28話 世界の真理


 フィルモスからの帰路、箱馬車の中には剣聖と聖女が乗っていた。
 豪華で広い造りにもかかわらず、椅子に座っているのは護衛もなく2人だけ。
 イグレッドの命令で他の者の同乗が許されなかったからだ。
 もちろん万が一のことを考え部下は食い下がったが、剣聖の圧によって最終的には引かざるを得なかった。
 カーテンが閉められている為に景色は見えないのに、セリアはただひたすら窓のある方へ目を向けていた。

「残念だったね。ケーキは」

 街を発ってから長く続いていた沈黙の中、初めてイグレッドは口を開く。

「ええ、でも私も配慮がなかったのだから……仕方がないわ」

「僕らが出会ってからもう4年近くか。そういえば君が手作りの料理でもてなしてくれたことは今まで一度もなかったね」

 思わぬ発言に驚くが、セリアはすぐに苦笑する。

「あのケーキの出来を見たでしょう? 私の腕ではあなたの舌を満足させてあげられるものは作れないからよ」

 自嘲する聖女の言葉を最後に、またも馬車の中は道を転がる車輪の音だけが響いていた。
 やがて剣聖は初めに発した一言の真意を語り出す。

「僕が言いたいのは『意図が何も伝わらずに残念だね』ということだよ」

「意図? 一体なんのことかしら」

 膝の上に置かれたセリアの指先が僅かに動いた。
 しかし表情はいつもと変わらず、声色もまた同様であった。

「僕はね、君が必死に彼へメッセージを送っているように思えて仕方がないんだ。ケーキの事といい、あえて化粧をしてこなかった事といい。ただ君の頑張りも虚しく、何も伝わりはしなかったようだけど」

 セリアはイグレッドが口にすることを微笑みながら聞いていた。
 もっとも見たままの感情は込められておらず、本心を隠す為に貼り付けられた笑顔である。

「今回だけじゃない、3年前のパレードの時もだ。あの時にも君はいくつか腑に落ちない言動をしていたね。全てはあの男を助け、尚且つ何かを伝える為じゃないのか?」

「戯言ね。全く根拠のない憶測よ。あなたらしくもない」

 セリアの言う通り、イグレッドには何ひとつ証明できるものはなかった。
 傍から見れば嫉妬によって目を曇らせ、勝手な疑念を抱いてるようにしか思えない。

「セリア、君は心変わりなどではなく、最初から彼のことを諦めきれてはいなかったんだろう。いろいろと理由をつけたが今日の交渉に同行させたのは、あの男を前にして君がどんな行動を取るのか観察する為さ。
 新しい女の存在を仄めかされ、焦るあまりどうするのかを」

「馬鹿なことを言わないで、イグレッド。あなたは疲労のせいで冷静じゃなくなってるのよ」

 聖女は大袈裟に首を振って、呆れたように鼻で笑った。
 不意に反対側の端に座っていたイグレッドは、セリアに勢いよく迫る。

「どうやら歳相応の女心を捨てきれなかったせいで墓穴を掘ったようだね」

 両手で彼女の右腕と左肩へそれぞれ掴みかかると、馬車の扉へ体を押しつけた。
 そのまま互いの唇の間隔を近づけていくが、セリアは直前で顔を背ける。
 すると剣聖は包み込むように右手で聖女の両頬に触れると、強引に自分の方へ向けた。

「僕はこれまで力であろうと、運であろうと、どんなものを使ってでも欲しいものは手に入れてきた」

 2人は互いに見つめ合ったまま、物々しい空気の中で会話を続ける。

「初めて君と対面した時、全く飾っていなかったというのに、あまりの美しさに僕は心を奪われた。生まれて初めてだ、そんな気持ちを抱いたのは。そして同時にどんなことをしても手に入れたいとも」

 イグレッドが口元に浮かべる笑みを目にして、セリアは知らず知らずのうちに全身を強ばらせていた。

「するとそんな君が聖女だと言うじゃないか。やはり僕は望むものを全て手にする人間なのだと確信したよ。剣聖と聖女は必ず結ばれなければいけない運命なのだから」

 人目のない空間だからか。
 剣聖は繕うつもりなど微塵もなく、端正な顔立ちが崩れるのも構わずに本性をさらけ出し始めた。
 この場では希望の象徴も、仲睦まじい夫婦も演じる必要がないのだから。

「『弱い者は強い者が望むものをただ奪われるだけ』僕が最も憎むべき男の、最も忌むべき言葉だ。だがいつしかそれが世界の真理なのだと悟ったよ。だからこそ婚約者から君を奪わなければと思ったんだ。そして何故だろう、あいつの顔を初めて見た時にその気持ちが強固になったのは」

「でもあなたは今日、そのエルトに気圧され屈してしまった。おまけに私の心を支配できていないかもとなれば、心情は穏やかではないでしょうね」

 その瞬間、2人の表情は入れ替わる。
 セリアの揶揄する笑いに対して、イグレッドは眉間にシワを刻んだ。
 だが聖女の言葉を否定するように、剣聖はすぐに余裕を取り戻す。

「分かっていないね。僕は奪い取る為の方法は厭わないと言ったはずだ。よもや聖女としての責務を忘れたわけではないだろう?」

 もちろんセリアが忘れるわけなどない。
 自分の人生を狂わせ、今この時も縛り続けているものなのだから。

「もし君がそれを放棄したらどうなるか、ルーチェスから聞かされたよね。僕らが行進する脇で、笑顔で国旗を振る人々……いや、この世界の人々が血と涙に濡れるということを。それを回避するには僕らが結ばれなければならない。身も心もだ。生物に備えられた究極の魔術で『神』を降ろす為に。そしてこれが秘密裏に行わなければいけない計画だということも、忘れたわけではないだろう?」

 改めて自分の役目を告げられると、セリアは目の光を失ってしまう。
 同時に体の力も抜けるのを感じると、ここぞとばかりにイグレッドは深く貪るような口づけをした。
 あの日に花畑で体験した、心地よく全身が火照る幸せなものとは程遠い。
 相手への思いやりもなければ愛情もない、ただ自分の欲求を満たす為だけのキスだ。
 セリアは目を固く閉じ、拳を強く握り、ひたすらじっと耐え忍ぶ。

 しかし淫魔と化した男が体に手をかけようと、押さえていた腕の自由を許した瞬間――
 聖女は無意識のうちに窓を強い力で叩いていた。
 外から馬の嘶きが聞こえて馬車が急停止すると、剣聖は体勢を崩して無様に反対側の椅子へ体を打ちつける。
 直後に足音が近づき、勢いよく扉が開かれると、慌てた様子の軍人が顔を覗かせた。

「いかがされましたか!? 剣聖様! 聖女様!」

「いや、ただふざけ合っていただけだが……少々度が過ぎたようだな。申し訳ない。何も問題はないからすぐに出発してくれ」

 床に座り込みながらも冷静を装う剣聖だが、軍人は肩を上下させている聖女の姿を見て困惑する。

「聞こえなかったのか? さっさとしろ!」

 イグレッドは語気鋭く言い放つと、自分の部下が逃げるように閉めた扉を睨みつけていた。
 そんな彼が元の場所に着席するのを見計らったように再び動き出す馬車の中で、セリアはひたすらに音を聞いていた。
 ひび割れた自分の心の亀裂が、思考を巡らせる度に広がっていく音を。

 エルトと最後に別れてから時間にして3年ほど。
 しかし互いの距離は経過した年月に比べて大きく離れてしまっていた。
 皮肉にもあのパレードの日までに、それぞれが想いを高く積みすぎたせいである。
 それ故に、セリアが自分たちの立っている場所が危険だと察知した時に弊害が起きた。
 エルトをその場から逃がす為にてっぺんから突き落とすと、勢い止まらず遥か下まで転げ落ちていってしまった。
 重ねてそれが傷つける目的の悪意だと、当の本人に受け取られたのも悲劇となる。

 誤解だと頂上から何度も弁解しようとしていた。
 だけど叫ぶことが許される状況ではなかったから、その小さな声はいつまでも幼馴染の耳には届かない。
 そして気付けばエルトは、麓で出会ったレイナと呼ばれる女性と並んで歩いていた。
 新たに積み重ねていく別の山を。

 ――置いていかないで!

 声が出せないならと、セリアは身振り手振りで必死に真意を伝えようとした。
 それでも2人は仲よく手を取り合って、背中を向けたまま遠ざかっていく。

 エルトはまだ直接口にはしていない。
 もしかしたら自分でもまだ気付いていないのかもしれない。
 それでもレイナに向ける視線は、昔のセリアに対するものと同じであった。
 かつては愛し合っていた仲だからこそ、聖女は残酷にもその事実に気付いてしまったのだ。

 ――私は大切なものを犠牲にしたのに

 その気持ちが芽生えた途端に、セリアの心に生じた亀裂の間から何かが溢れてくる。

 ――どうしてあなたはあの女と笑っているの?

 初めてのことで、それが何かは分かっていなかった。
 例えるなら粘度のある、ドロドロとした液体というのか。
 それらが透明感のある聖女の心を覆い、黒水晶のようにしてしまう。
 その鈍い光沢の中に浮かぶのは、交渉の場で目の当たりにした光景だった。
 エルトとレイナが抱き合って、互いを求めるように口づけをしている姿。
 もはやセリアは、自分が勝手に記憶を脚色していることにすら気付いていなかった。
 そしてエルトへ向ける想いの形が変化していることさえも。


「またあの男のことを考えているのかい?」

 耳元で囁かれる声と、おぞましい感触によってセリアの意識は引き戻される。

「どうやら君は聖女としての自覚が薄れているようだ。今晩宿に到着したらもう一度教え込む必要があるかな。もちろん……その身をもってね」

 イグレッドはセリアの脚に手を添えると、膝から付け根に向けて嫌らしく手を這わせていく。

「どうぞご勝手に。そんな悠長なことなど言わずに、今すぐにでもしたらどうかしら?」

 プライドの化身である剣聖に焚きつけるようなことを言えば、自分が何をされるかなど分かりきっていた。
 それを無表情のまま口にするのは、自暴自棄に陥ったのかとでも思わざるを得ない。

 だがそんなセリアの異様な雰囲気、そして初めて見せる不敵な態度に、イグレッドは自然と距離を開けていた。
 その言い知れぬ重圧は、主君の隣に佇む者にあまりにも酷似していたから。

「奪い返せばいい……強い力で。それが真理……」

 見えない景色よりもっと先を見据えながら、セリアはひとり呟いていた。



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