亡国の黒騎士と呼ばれた男の旅路は闇の女王と共に

宗岡 シキ

第1話 最幸の日


 ヤディという辺境の村で生まれた俺に、両親はエルトという名前をつけて育ててくれた。
 親父の方は俺が5歳になった時に出稼ぎで家を出たっきり帰ってこなかった。
 情勢の安定していない今の世界だ。
 結婚前には傭兵稼業をしていたと聞いていたから、兵士に志願してどこかの戦場にでも行ったのだろう。
 ある日を境に仕送りが途絶えたけど、今もどこかをフラフラしているのか、もう死んでしまったのかは分からない。

 それからは母さんと2人での暮らしが続いたが、その母さんも10歳の時に病で他界した。
 もともと体が強いほうではなかったので、発症してからはあっという間に悪化してしまったのだ。

 いざその時が来た時の俺の心境は複雑だった。
 こんなになるまで放っておいていたクソ親父には、生きていたとしても母さんの最後に立ち会う資格なんてあるものか――というのが正直な思いであった。
 そう、俺は親父の帰還を望んではいなかったんだ。
 だけど母さんの気持ちを汲んだら、真逆のことも考えていた。
 母さんは自分がこれだけ寂しい思いをしても尚、親父のことを恨むどころか、まだ愛していたようだから。
 結局母さんのことを看取ったのは俺やお世話になった村の人たちだけだったけど。

 それから1人になった俺の面倒を見てくれたのは隣に住む夫婦だった。
 物心がついた頃から知っていて、親父が家を出てからも母さんのことを気にかけてくれていたおじさんたち。
 ずっと前から頻繁にご飯を食べさせてもらったり、泊まったりもしていたので生活に馴染むのもそれほど時間を要さなかった。


 そして16歳になった現在、俺はおじさんの手伝いで山へ狩りに来ていた。
 息を殺し、茂みに隠れながら向ける視線の先には牝鹿がいる。
 鹿の肉はご馳走だ。
 既に野ウサギを2匹狩れたのに運がいい。
 何せ今日は年に一度の……いや、一生に一度の特別な日だからだ。

 ゆっくりと弓を引き絞って狙いを定める。
 距離は十分に近い、角度も風向きもいい、確実に仕留めることが出来るだろう。
 しかしその時、草陰から子鹿が現れて母親にピッタリと寄り添った。
 仲睦まじく鼻先を合わせる姿を見て、俺はつい手の力を緩めてしまう。

《弱い者は強い者が望むものをただ奪われるだけ。それがこの世界の日常だ》

 親父がよく言っていた言葉が、躊躇した途端に頭に浮かんできた。

 親父に関する記憶はあまり残っていないし、あったとしても無理矢理にでも忘れてしまった。
 なのに、なぜかこれだけはずっと頭の中に蔓延っていて離れないんだ。

 今のこの条件下で強者は俺だ。
 そして俺が望んでいるのはお前の命。

 言い聞かせるように心の中で呟くと、再び弦を引く手に力を込めて弓をしならせた。

 次の瞬間――
 背後からパキッと枝が折れる乾いた音がすると、鹿の親子は耳を動かしながら顔を上げ、山の奥へと走り去ってしまった。
 最初から追いかけることはしない。
 山中の追いかけっこになってしまってはこちらに勝ち目はないからな。

 代わりに音がした方に顔を向けると、その場には光り輝くような金色の髪を二つ結びにした、青い瞳の女の子が立っていた。

「ご、ごめん! 私……」

 暗闇のような黒い髪とダークブラウンの瞳の俺とは対照的に、青空に浮かぶ太陽を思わせるこの女の子の名前はセリア。
 隣のおじさんとおばさんの一人娘で、俺の幼馴染である。
 さっきの言葉と申し訳なさそうな表情から察すると、獲物を逃がす原因を作ったのは彼女のようだ。

「ううん、気にしなくていいよ。セリア」

 それは本当のことだった。
 牝鹿を逃してしまったことは残念だけど、正直ホッとしている自分もいたんだ。
 きっとどこかで、何でもいいからあの親子の絆を引き裂かなくて済む言い訳を欲していたのかもしれない。

「うん、ありがとう。そうだ! ちょっと遅くなったけど、お昼ご飯持ってきたよ」

 セリアは笑顔で手にしていたバスケットを胸の前に掲げる。
 その姿を見ただけで俺の心は高鳴り、満たされていくのを感じた。

 幼い頃には俺は兄妹だと、セリアは姉弟だという言い合いを村のみんなに笑われていたのが懐かしい。
 やがて一緒に庭で水浴びをしたり、同じベッドで寝たりすることを恥ずかしく思うくらいの歳に成長すると、俺たちは互いに異性として意識するようになって……信じられないことに恋仲になった。

 信じられないと言ったのは、セリアが自分には勿体ないくらい容姿も性格も可愛らしい女性だったからだ。
 当然贔屓目なしに、客観的に見てそう言っている。
 村の他の女の子と比べてもだが、たまに足を伸ばす隣街でもセリアに適う人をいまだに見たことはない。
 道行く男性の視線を集めるくらいなのだから。

「何を惚けているの? 2人分あるから一緒に食べましょう」

 見惚れていたところで不意に顔を覗きこまれ慌てて我に返る。
 眉を寄せながらも大きな切り株に腰掛けてバスケットの蓋を開けようとするセリア。
 それを見てふと思い出したことがあり、俺は咄嗟に声に出して止めてしまった。

「待って! どうせなら連れていきたいところがあるんだ」

 首を傾げるセリアだったが、手を取ると立ち上がって俺の誘導に従ってくれた。



 ◇



「ここからは目をつぶって」

「もう、何なのよ。さっきから」

 怪訝そうな顔をしながら目を閉じるセリアの両手を引いて、ゆっくりと目的の場所まで後ろ向きで歩いていく。

 そして所定の位置に立たせてから、目を開けるように告げる。
 反応が見たかったから、横から様子を伺いながら。

「わぁ! 何これ……すごい!」

 期待していた以上に感嘆の声を上げるセリアの目に映ったもの。
 それは俺が少し前に偶然見つけた花畑だった。
 高い木々が生い茂る山の中になぜこんなに開けた場所があるのかは分からないが、様々な色の花が一面に咲いている。
 中央の辺りにある瓦礫が少々景観を損なうが、まるでおとぎの国にでも迷い込んだのではと錯覚するほどだ。

 セリアはバスケットをその場に置くと、突然走り出した。
 両手を広げ、空を見上げながら満面の笑みでクルクルと回る姿からは楽しさが十分に伝わってくる。

「エルトも! 早くおいでよ!」

 こちらに手を振った後に再び駆けるセリアに、「子供じゃないんだから」と呆れつつも、弓や矢筒、獲物を入れたカゴを置いてその背を追いかける。

 何度も振り返りながら無邪気な笑顔を見せる最愛の幼馴染。
 今の俺は間違いなく幸せの絶頂にいた。

 それなのに、なぜかセリアを見ていると胸騒ぎが収まらない。
 言い知れぬ不安が自分の中に広がっていくのを感じる。

 だからだろうか、俺は速度を上げてセリアに追いつくと腕を強く掴んでいた。
 なんだか遠くに思えてしまう存在を、決して離さないという意思の表れなのかもしれない。
 その勢いによって体勢を崩した俺たちは、もつれ合いながら地面を転がった。

 その後はしばらくセリアを下にしたまま沈黙が続く。
 聞こえてくるのは荒くなった息を整える為の吐息だけ。
 頬にかかったセリアの髪を指で払うと、そのままそっと手を添える。
 見つめ合っている時間が過ぎるほどに心臓の鼓動が激しくなっていくのが分かった。
 徐々に感覚が短くなってくる音が後押しとなったのか、俺は意を決して顔を静かに近づける。

 すると一瞬セリアの体が震えたのを感じて動きを止めた。
 拒否されたのではないかと思って躊躇してしまったんだ。
 思わず目を逸らして胸の木彫りのペンダントへ視線を移そうとすると、セリアは優しく微笑んでから照れくさそうに目をつぶる。
 その意図に安堵した俺はさらに距離を縮めていき、やがて2人の唇が重なった。

 これが生まれて初めてのキスだった。

 直前までは緊張から酷く混乱していた頭の中も不思議と平静を取り戻していて、寧ろ感覚が研ぎ澄まされているようにも感じた。

 セリアの唇の柔らかさ、花のような甘い香り、触れ合う部分から伝わる体温など。
 その全てが愛おしく、例えこの世界で2人きりになってしまっても構わないと思えるほどだった。

 時間の概念など忘れかけてきた頃になって、名残惜しさを感じながらも顔を離す。
 遅れて瞼を開けるセリアの顔は、紅潮していているのが陽の光の下でも分かるくらいだった。

 それを見て俺は自分自身に決断するように囁きかけた。

 ――「今がその時だ」と。

 今日はセリアの16歳の誕生日。
 それも俺のおよそ2ヶ月遅れで成人となる記念日だ。
 そんな日にこのシチュエーション。
 今を逃したらもう一生これ以上のタイミングなんて訪れないだろう。
 だから俺はセリアに伝えることにした。
 気の利いたことや格好いいことは言えないけど、その代わり自分の気持ちを真っ直ぐに。

「セリア、俺は裕福じゃないし、腕っ節だって強くないし、秀でた技術を持ってるわけでもない。何もないんだ。君に与えられるものも、幸せを保証してあげられる自信も」

 振り絞るように吐き出す言葉を、眼前のセリアはずっと黙って聞いていた。

「けどセリアと一緒になれば、一生を終える最後の瞬間まで自分が幸せだったと思い続ける自信はある。だから……」

 少し間を置いて一度呼吸を整えると、跳ねる感情を抑えながら俺は勇気を出して告げた。

「結婚してくれ」

 またも俺たちの周囲には自然が奏でる音だけの世界が広がっていた。
 少しの間その中に身を置いた後に、セリアは呆れたようにため息をつく。

「随分と勝手ね」

 それを聞いた途端に激しく後悔をした。
 大切な胸の内を語るにはあまりにも素直すぎたのではと思って。

「違うの、勝手と言ったのはあなたの思い込み。エルトはいつだって私にかけがえのないものを与えてくれるし、傍にいるだけで幸せな気持ちになれるんだから」

 セリアは目を細めると、温かい両手で俺の頬を包んだ。

「だから……私にもこれからの人生をかけてお返しさせて」

 せっかく望んでいた答えを貰えたというのに、胸がいっぱいになってただ無言で頷くことしか出来なかった。

 それでもセリアを想う気持ちが溢れて止まらず、体を重ねるとそれぞれが頭と背に腕を回し、再び口づけをする。
 大きくなりすぎた愛しさをぶつけ合っているのか、二度目のキスは互いを求めるようなより深いものだった。



 ◇



 日が完全に落ちてしまう前に俺たちは早めに下山することにした。
 道中は手を繋いで、2人でこれからのことについて話をしながら。

 おじさんとおばさんには今日のお祝いの席で報告しようとか、正式に契りを交わした後には俺の家に住もうなんて。
 都合のいいことに元々のセリアの家とは隣同士だし。

 それと、子供の話なんかもした。
 こうなれば必然的に出る話なのだろうけど……
 もうそういうことが分からない歳でもないから、どちらからともなく変に体を火照らせたりしてしまった。

 そのなんでもない時間や会話の1つ1つによって、これから先セリアと築き上げていく未来に希望を抱いていく。
 花畑で自分の中に広がっていた仄暗い感情が単なる思い過ごしだったのだと思えるくらい、たくさんの幸福な未来を。



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