没落令嬢、貧乏騎士のメイドになります
第三十七話 女傑二人と涙目子猫ちゃん
翌日。
アニエスは居間でハンカチに刺繍をしていた。
午後からベルナールの母親と義理の姉が来るという先触れが届き、緊張の面持ちで居る。
いまいち集中出来ずに、ハンカチに刺す針の速さもいつもの半分以下となっていた。
どうにも思ったように進まないので、針山に針を刺し、しばらく休憩をする。
机の上に置いてあった眼鏡に触れ、ホッと一息。
自分で支払うことになっている眼鏡であったが、二人で買いに行った日のことは素敵な思い出として胸に刻まれていた。
頬を緩ませながら眼鏡を眺めていれば、居間の扉が叩かれる。
アニエスは心臓が口から飛び出そうなくらい驚いたが、平静を装った声で返事をした。
やって来たのはジジルだった。
「失礼いたします。たった今、オセアンヌ様と旦那様の義理のお姉様であるイングリト様がいらっしゃいました」
「……分かりました。客間に、行けばよろしいのでしょうか?」
「はい」
客人二人を相手に、婚約者役を演じなければならない。緊張で、手先が震える。
イングリトに嘘は通用しないと言っていた。きちんと役目を果たせるのか、ドキドキと胸が高鳴っている。
立ち上がって瞼を閉じ、両手で胸を押さえて深呼吸。
瞼を開けば、ジジルと目が合った。
「アニエスさん、私も、可能な限り助けますので」
「はい。ありがとうございます」
ジジルに励まされながら部屋を出る。
客間まで行けば、エリックが扉を開いてくれた。会釈をして、中へと入る。
「――まあ、アニエスさん!」
客間に居たオセアンヌと義姉イングリトがアニエスの姿を確認すれば、立ち上がって笑顔で歓迎してくれる。
「お会いできて、嬉しいですわ」
「わたくしも、です」
近づいて行けば、オセアンヌはアニエスの体を抱き締めた。
久々に受ける柔らかな抱擁に、胸が熱くなる。
「あら、お義母様、大変!」
「どうかなさって?」
近くで二人の様子を見守っていたイングリトが、驚きの声をあげる。
アニエスは眦に涙を浮かべていたのだ。
「ごめんなさい。馴れ馴れしかったかしら?」
「……いえ、そんなこと、は」
ふるふると首を横に振り、否定する。
アニエスは亡くなった母を思い出し、涙していた。そのことを伝えたら、ホッと安堵する二人。
「その、抱きしめて頂けて、とても、嬉しかったです」
頬を染め、恥ずかしそうにお礼を言うアニエスに、イングリトは目を細めながら感想を述べた。
「とても可愛らしい御方だこと」
「ええ、ええ、そうでしょう、そうでしょう。息子には勿体ないお嬢さんですわ」
アニエスは思いがけない言葉を受けて照れていたが、ハッと我に返り、名乗り遅れましたと前置きをして、イングリトに挨拶をした。
「アニエス・レーヴェルジュと申します」
「はじめまして、ベルナールの義理の姉の、イングリト・オルレリアンよ」
「お目にかかれて光栄です」
「私も、嬉しいわ」
オセアンヌが座って話しましょうと言う。
向かい合って腰かければ、ジジルがカフェオレとお菓子を持って来た。
「義弟が自分で伴侶を探し出したと聞いて、ずっと会いたいと思っていたの。まさか、こんなに素敵な方だったなんて」
「ありがとうございます」
イングリトに褒めちぎられ、嬉しい気持ちはあったが、それ以上に居心地の悪さを覚えてしまう。
アニエスは本物の婚約者ではない。優しい人達を騙していることに、心が痛んだ。
同時に、ベルナールもいつか結婚してしまうことに気付く。
そうなった時に、自分はこの屋敷で耐えられるかと思ったが、そこまで思考を巡らせて、彼女は自らの浅ましさを恥じることになる。
受けた恩への感謝の気持ちと、恋慕は一緒に考えてはならないことだった。
現状、アニエスは恩返しをしようというよりも、慕う感情の方が強くなっている。
きちんと割り切らなければ、後々辛くなるのは分かっていた。
「それで、結婚式のお話でもしようと思いまして」
「――はい」
王都でするのか、ベルナールの生まれ故郷でするのかと、話し合う。
「アニエスさん、絶対に王都がいいわ。最新のドレス、流行りの会場、話題の料理」
「でも、招待客に来てもらうのも大変でしょう?」
「お義母様、領地の者達は、一度は王都に行ってみたいと思っているのよ」
イングリトとオセアンヌは大いに盛り上がっていた。
アニエスは笑顔で二人を見守っている。
「アニエスさんは?」
「結婚式は花嫁が主役ですものね」
「わたくしは――」
結婚式をするならベルナールの生まれ育った故郷で、ひっそりと行いたい。そう言ったあとで、恥ずかしくなる。結婚なんてあり得ないのにと、赤面してしまった。
頬を紅く染めるアニエスを見ながら、イングリトはそれでもいいと賛意を示した。
「いろいろあったから、王都でするのも複雑よね」
「ええ、そうですわ。王都での結婚式をともなれば、社交界での付き合いも伴いますし」
話はどんどん進んで行く。
イングリトは婚礼衣装の商品目録も持って来ていた。
「アニエスさんは細身だから――」
「!?」
細身だという言葉を聞いて、ハッと息を呑む。
あれがいい、これがいいと盛り上がっていたオセアンヌとイングリトは、首を傾げながら顔色を青くしているアニエスを見た。
「アニエスさん、どうかしたの?」
「顔色が悪いわ」
挙動不審に気付かれてしまったので、正直に矯正下着で体の線を絞っていることを告げた。
「矯正下着なんてしているの、王都の女性だけよ」
「そ、そうなのですか?」
「ええ。体に悪いし。領地では細身の女性はモテないのよ」
「多少ふっくらしていた方が健康的で可愛らしいわ」
「!」
二人の意見を聞いて、安堵するアニエス。
しなしながら、次なる追及を受けることになった。
「矯正下着を着けていない状態で着られる服は持っているの?」
「どの程度絞っているかも、問題ですが」
「あ、その……」
あるにはある。ただし、使用人用のワンピースと数着の寝間着だけだった。下町で買った服も入りそうだと思ったが、安価で購入した古着をオセアンヌやイングリトの前で着るわけにはいかない。
「ないのね?」
「アニエスさん?」
「……は、はい」
重圧感のある笑みを浮かべるオセアンヌとイングリトにたじろぐアニエスであった。
◇◇◇
終業の鐘が鳴る。
ベルナールは一刻も早く帰りたかった。
自分一人だけだったら何も問題はないが、家にはアニエスを残している。
母親と義姉を前にして、雨に濡れた子猫のような顔で、困っているのではと考えたら、居ても立っても居られなかった。
だが、こんな日に限って仕事が山のようにあった。
仕事が片付いたのが二時間後。
馬車の時間に間に合うように、早足で更衣室の前まで行ったが、着替えている時間も惜しいと思い、制服のままで帰ることになった。
馬車は出発時間ギリギリだった。なんとか乗れたので、ホッと一安心。夜は一時間に一本しか出ていないのだ。
馬車に揺られ、森の中の停留所に到着をする。
本日も駆け足で帰宅をした。
玄関で出迎えたのはエリックだった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ」
恐る恐る母と義姉はどうしているか聞いてみる。
すると、意外な答えが返ってきた。
「オセアンヌ様とイングリト様は六時間ほど前に帰りました」
「は?」
「また、明日訪問されるそうです」
「そう、か。だったらいいが」
意外なことに、滞在時間が少なかったことが発覚した。
アニエスの所在を聞けば、部屋で休んでいると言う。
話を聞きたいと思い、訪ねてみた。
声をかければすぐに返事があった。すぐに扉が開かれる。
顔を出したアニエスの顔色は悪かったが、ベルナールを見ればパッと表情が明るくなった。
「少し、話がしたい」
「はい。どうぞ」
ベルナールは初めてアニエスの部屋へ踏み入ることになった。
アニエスは居間でハンカチに刺繍をしていた。
午後からベルナールの母親と義理の姉が来るという先触れが届き、緊張の面持ちで居る。
いまいち集中出来ずに、ハンカチに刺す針の速さもいつもの半分以下となっていた。
どうにも思ったように進まないので、針山に針を刺し、しばらく休憩をする。
机の上に置いてあった眼鏡に触れ、ホッと一息。
自分で支払うことになっている眼鏡であったが、二人で買いに行った日のことは素敵な思い出として胸に刻まれていた。
頬を緩ませながら眼鏡を眺めていれば、居間の扉が叩かれる。
アニエスは心臓が口から飛び出そうなくらい驚いたが、平静を装った声で返事をした。
やって来たのはジジルだった。
「失礼いたします。たった今、オセアンヌ様と旦那様の義理のお姉様であるイングリト様がいらっしゃいました」
「……分かりました。客間に、行けばよろしいのでしょうか?」
「はい」
客人二人を相手に、婚約者役を演じなければならない。緊張で、手先が震える。
イングリトに嘘は通用しないと言っていた。きちんと役目を果たせるのか、ドキドキと胸が高鳴っている。
立ち上がって瞼を閉じ、両手で胸を押さえて深呼吸。
瞼を開けば、ジジルと目が合った。
「アニエスさん、私も、可能な限り助けますので」
「はい。ありがとうございます」
ジジルに励まされながら部屋を出る。
客間まで行けば、エリックが扉を開いてくれた。会釈をして、中へと入る。
「――まあ、アニエスさん!」
客間に居たオセアンヌと義姉イングリトがアニエスの姿を確認すれば、立ち上がって笑顔で歓迎してくれる。
「お会いできて、嬉しいですわ」
「わたくしも、です」
近づいて行けば、オセアンヌはアニエスの体を抱き締めた。
久々に受ける柔らかな抱擁に、胸が熱くなる。
「あら、お義母様、大変!」
「どうかなさって?」
近くで二人の様子を見守っていたイングリトが、驚きの声をあげる。
アニエスは眦に涙を浮かべていたのだ。
「ごめんなさい。馴れ馴れしかったかしら?」
「……いえ、そんなこと、は」
ふるふると首を横に振り、否定する。
アニエスは亡くなった母を思い出し、涙していた。そのことを伝えたら、ホッと安堵する二人。
「その、抱きしめて頂けて、とても、嬉しかったです」
頬を染め、恥ずかしそうにお礼を言うアニエスに、イングリトは目を細めながら感想を述べた。
「とても可愛らしい御方だこと」
「ええ、ええ、そうでしょう、そうでしょう。息子には勿体ないお嬢さんですわ」
アニエスは思いがけない言葉を受けて照れていたが、ハッと我に返り、名乗り遅れましたと前置きをして、イングリトに挨拶をした。
「アニエス・レーヴェルジュと申します」
「はじめまして、ベルナールの義理の姉の、イングリト・オルレリアンよ」
「お目にかかれて光栄です」
「私も、嬉しいわ」
オセアンヌが座って話しましょうと言う。
向かい合って腰かければ、ジジルがカフェオレとお菓子を持って来た。
「義弟が自分で伴侶を探し出したと聞いて、ずっと会いたいと思っていたの。まさか、こんなに素敵な方だったなんて」
「ありがとうございます」
イングリトに褒めちぎられ、嬉しい気持ちはあったが、それ以上に居心地の悪さを覚えてしまう。
アニエスは本物の婚約者ではない。優しい人達を騙していることに、心が痛んだ。
同時に、ベルナールもいつか結婚してしまうことに気付く。
そうなった時に、自分はこの屋敷で耐えられるかと思ったが、そこまで思考を巡らせて、彼女は自らの浅ましさを恥じることになる。
受けた恩への感謝の気持ちと、恋慕は一緒に考えてはならないことだった。
現状、アニエスは恩返しをしようというよりも、慕う感情の方が強くなっている。
きちんと割り切らなければ、後々辛くなるのは分かっていた。
「それで、結婚式のお話でもしようと思いまして」
「――はい」
王都でするのか、ベルナールの生まれ故郷でするのかと、話し合う。
「アニエスさん、絶対に王都がいいわ。最新のドレス、流行りの会場、話題の料理」
「でも、招待客に来てもらうのも大変でしょう?」
「お義母様、領地の者達は、一度は王都に行ってみたいと思っているのよ」
イングリトとオセアンヌは大いに盛り上がっていた。
アニエスは笑顔で二人を見守っている。
「アニエスさんは?」
「結婚式は花嫁が主役ですものね」
「わたくしは――」
結婚式をするならベルナールの生まれ育った故郷で、ひっそりと行いたい。そう言ったあとで、恥ずかしくなる。結婚なんてあり得ないのにと、赤面してしまった。
頬を紅く染めるアニエスを見ながら、イングリトはそれでもいいと賛意を示した。
「いろいろあったから、王都でするのも複雑よね」
「ええ、そうですわ。王都での結婚式をともなれば、社交界での付き合いも伴いますし」
話はどんどん進んで行く。
イングリトは婚礼衣装の商品目録も持って来ていた。
「アニエスさんは細身だから――」
「!?」
細身だという言葉を聞いて、ハッと息を呑む。
あれがいい、これがいいと盛り上がっていたオセアンヌとイングリトは、首を傾げながら顔色を青くしているアニエスを見た。
「アニエスさん、どうかしたの?」
「顔色が悪いわ」
挙動不審に気付かれてしまったので、正直に矯正下着で体の線を絞っていることを告げた。
「矯正下着なんてしているの、王都の女性だけよ」
「そ、そうなのですか?」
「ええ。体に悪いし。領地では細身の女性はモテないのよ」
「多少ふっくらしていた方が健康的で可愛らしいわ」
「!」
二人の意見を聞いて、安堵するアニエス。
しなしながら、次なる追及を受けることになった。
「矯正下着を着けていない状態で着られる服は持っているの?」
「どの程度絞っているかも、問題ですが」
「あ、その……」
あるにはある。ただし、使用人用のワンピースと数着の寝間着だけだった。下町で買った服も入りそうだと思ったが、安価で購入した古着をオセアンヌやイングリトの前で着るわけにはいかない。
「ないのね?」
「アニエスさん?」
「……は、はい」
重圧感のある笑みを浮かべるオセアンヌとイングリトにたじろぐアニエスであった。
◇◇◇
終業の鐘が鳴る。
ベルナールは一刻も早く帰りたかった。
自分一人だけだったら何も問題はないが、家にはアニエスを残している。
母親と義姉を前にして、雨に濡れた子猫のような顔で、困っているのではと考えたら、居ても立っても居られなかった。
だが、こんな日に限って仕事が山のようにあった。
仕事が片付いたのが二時間後。
馬車の時間に間に合うように、早足で更衣室の前まで行ったが、着替えている時間も惜しいと思い、制服のままで帰ることになった。
馬車は出発時間ギリギリだった。なんとか乗れたので、ホッと一安心。夜は一時間に一本しか出ていないのだ。
馬車に揺られ、森の中の停留所に到着をする。
本日も駆け足で帰宅をした。
玄関で出迎えたのはエリックだった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ」
恐る恐る母と義姉はどうしているか聞いてみる。
すると、意外な答えが返ってきた。
「オセアンヌ様とイングリト様は六時間ほど前に帰りました」
「は?」
「また、明日訪問されるそうです」
「そう、か。だったらいいが」
意外なことに、滞在時間が少なかったことが発覚した。
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