道の先で笑ってる。
【道の先で笑ってる】
我が師匠の名前は穴部十三だ。
若い頃は破拳の穴部と呼ばれて武道家の世界では恐れられた人物である。
俺が穴部に弟子入りしたのは中学一年の頃だった。
中学に進学した初日に、二年の先輩に喧嘩を売られてボコボコにされたのが理由だった。
悔しかった。
たった一年差で産まれた相手に体格の差だけで負けたのが悔しかったのだ。
そして、そいつを負かす為だけに俺は穴部の道場に入門したのだ。
実の処、空手でもボクシングでも、なんでも良かった。
ただ実家の近所に道場があったから、穴部の所を選んだのだ。
切っ掛けは、それだけだった。
単純な話である。
そして、俺が習い始めた武術は戦国古武道だった。
古い流派である。
戦国と聞いて、怪しいかなとも思ったが、その時の俺は顔面痣だらけで冷静じゃなかったんだろう。
兎に角強くなりたかったから、俺は何も考えずに入門したのだ。
今思えば門下生が俺以外に居ない事に可笑しいと気付かなかった自分が馬鹿であった。
それから俺は穴部とサシで稽古を積んだ。
半年後には、俺をボコボコにした先輩を、仲間三人を含めて同時にボコボコにしてやった。
四対一なのに勝ったのだ。
圧勝だった。
それ以来俺は稽古に夢中になった。
ハマったのだ。
調子にも乗った。
戦国古武道と言う怪しい武術名にも疑問を抱かなくなっていた。
それどころか穴部流戦国古武道の門下生と名乗る事に誇りすら持ち始めていた。
俺は変わったのだ。
武術を始めて大きく変わった。
考え方だけじゃない。
体格も大きく育った。
今では身長も伸びて185センチはある。
体重も100キロを越えている。
身体も太く、マッチョになった。
筋肉だけで上半身は逆三角形だ。
腹筋もシックスパックである。
俺は今年で高校を卒業する。
あれから六年、身体を鍛え、技を磨き、心を育んだ。
もう俺はいっぱしの格闘技家だ。
経験も数多く積んだ。
戦った。
試合にも出た。
優勝も何度かした。
町のゴロツキどもと喧嘩に明け暮れ、ヤクザとも揉めた。
プロの格闘技家とも戦った。
地下闘技場でも戦った。
表でも裏でも戦える。
むしろ裏のほうが楽しいぐらいだ。
俺の身体が武器。
俺の信念が狂気。
俺の夢が野望に煽られ燃え上がって行った。
俺はこれから世界に出るぜ。
もう日本だけでは狭すぎる。
今度は世界が相手だ。
日本一とは世界一だと証明して見せる。
それが俺の新たな目標である。
傲慢なまでの夢である。
強欲なまでの願望である。
そう、世界を掴み取るのだ。
俺が道場に正座で座り神棚を見上げていると、師匠の穴部がやって来る。
灰色の道着に黒い袴。
使い古した稽古着だ。
穴部師匠が萎れた声で俺に話し掛けた。
「幸子さん、飯はまだかのぉ~?」
ああ……。
「師匠、幸子さんって誰ですか。それにご飯ならさっき食べたでしょう」
「食べた? そうだったかのぉ~、幸子さん……」
そう、穴部師匠はボケたのだ。
残念ながら完璧にボケたのだ。
幸子さんが誰なのか俺には分からない。
穴部師匠は半年前に脳梗塞で倒れたのを切っ掛けに、すっかりボケてしまった。
修羅の如く恐ろしかった破拳の穴部もボケるのだ。
「幸子さん、ワシ、オシッコがしたい……」
「し、師匠、分かりましたからトイレに行きましょうね。前みたいに道場でお漏らしなんてしないでくださいよ!」
「ああ、あああ~~……」
「遅かったか……」
ぶりぶりぶり~~!!
「ブリブリって聞こえたぞ!!!」
「ああ、漏らしてもうたわい……」
「ウンコ漏らしたのかよ!!」
「トイレに行ってケツを拭いてくるわい……」
穴部はノソノソと道場を出て行った。
だが、その足元に汚物が点々と跡を残していた。
「パンツからウンコが漏れてるじゃあないですか、師匠!!」
「お~、すまんが拾っといて、幸子さん」
「拾えるか! それに俺は幸子さんじゃあねえってばよ!!」
「なんなら、前みたいに美味しく食べてくれていいんだよ、幸子さん」
「食うか! てか、幸子さんはウンコを食べたのかよ!?」
困った事になっている。
師匠には家族が居ない。
結婚もしていないから子供も居ない。
だから病気になっても面倒を見てくれる身内が居ないのだ。
だから、俺が師匠の面倒を見るしかないのだ。
師匠には恩義がある。
俺をここまで強くしてくれたのは穴部師匠だ。
穴部師匠無くして俺はここまで強くはなれなかっただろう。
だから恩義を返すんだ。
俺が穴部師匠を最後まで見守って、骨を拾うんだ。
それが恩義を返す最大の好意だろう。
「ああ~、幸子さん、足助てけろ~!」
「どうしました、師匠!?」
「便器に片足を落っことして嵌まった~」
「ぼっとん便器なのに落ちるなよ!!」
「ヌチョって感触が~」
「底まで足がついたか!!」
こうして俺の世界制覇は延期された。
その後、穴部師匠が亡くなるまで20年間もの間、俺はボケ老人の面倒を見るはめとなる。
20年後、俺の現役は終わっていた。
俺は老けた。
結婚して子供も二人居る。
もう、いいおっさんだ。
今では戦国古武道の道場を引き継ぎ、町の子供たちに稽古を付けながら暮らしています。
残念ながら世界制覇叶わず。
しかし、俺は家族や弟子に囲まれて幸せである。
穴部師匠が残してくれた戦国古武術道場を、この先も守って行きたいと思います。
【終わり】
若い頃は破拳の穴部と呼ばれて武道家の世界では恐れられた人物である。
俺が穴部に弟子入りしたのは中学一年の頃だった。
中学に進学した初日に、二年の先輩に喧嘩を売られてボコボコにされたのが理由だった。
悔しかった。
たった一年差で産まれた相手に体格の差だけで負けたのが悔しかったのだ。
そして、そいつを負かす為だけに俺は穴部の道場に入門したのだ。
実の処、空手でもボクシングでも、なんでも良かった。
ただ実家の近所に道場があったから、穴部の所を選んだのだ。
切っ掛けは、それだけだった。
単純な話である。
そして、俺が習い始めた武術は戦国古武道だった。
古い流派である。
戦国と聞いて、怪しいかなとも思ったが、その時の俺は顔面痣だらけで冷静じゃなかったんだろう。
兎に角強くなりたかったから、俺は何も考えずに入門したのだ。
今思えば門下生が俺以外に居ない事に可笑しいと気付かなかった自分が馬鹿であった。
それから俺は穴部とサシで稽古を積んだ。
半年後には、俺をボコボコにした先輩を、仲間三人を含めて同時にボコボコにしてやった。
四対一なのに勝ったのだ。
圧勝だった。
それ以来俺は稽古に夢中になった。
ハマったのだ。
調子にも乗った。
戦国古武道と言う怪しい武術名にも疑問を抱かなくなっていた。
それどころか穴部流戦国古武道の門下生と名乗る事に誇りすら持ち始めていた。
俺は変わったのだ。
武術を始めて大きく変わった。
考え方だけじゃない。
体格も大きく育った。
今では身長も伸びて185センチはある。
体重も100キロを越えている。
身体も太く、マッチョになった。
筋肉だけで上半身は逆三角形だ。
腹筋もシックスパックである。
俺は今年で高校を卒業する。
あれから六年、身体を鍛え、技を磨き、心を育んだ。
もう俺はいっぱしの格闘技家だ。
経験も数多く積んだ。
戦った。
試合にも出た。
優勝も何度かした。
町のゴロツキどもと喧嘩に明け暮れ、ヤクザとも揉めた。
プロの格闘技家とも戦った。
地下闘技場でも戦った。
表でも裏でも戦える。
むしろ裏のほうが楽しいぐらいだ。
俺の身体が武器。
俺の信念が狂気。
俺の夢が野望に煽られ燃え上がって行った。
俺はこれから世界に出るぜ。
もう日本だけでは狭すぎる。
今度は世界が相手だ。
日本一とは世界一だと証明して見せる。
それが俺の新たな目標である。
傲慢なまでの夢である。
強欲なまでの願望である。
そう、世界を掴み取るのだ。
俺が道場に正座で座り神棚を見上げていると、師匠の穴部がやって来る。
灰色の道着に黒い袴。
使い古した稽古着だ。
穴部師匠が萎れた声で俺に話し掛けた。
「幸子さん、飯はまだかのぉ~?」
ああ……。
「師匠、幸子さんって誰ですか。それにご飯ならさっき食べたでしょう」
「食べた? そうだったかのぉ~、幸子さん……」
そう、穴部師匠はボケたのだ。
残念ながら完璧にボケたのだ。
幸子さんが誰なのか俺には分からない。
穴部師匠は半年前に脳梗塞で倒れたのを切っ掛けに、すっかりボケてしまった。
修羅の如く恐ろしかった破拳の穴部もボケるのだ。
「幸子さん、ワシ、オシッコがしたい……」
「し、師匠、分かりましたからトイレに行きましょうね。前みたいに道場でお漏らしなんてしないでくださいよ!」
「ああ、あああ~~……」
「遅かったか……」
ぶりぶりぶり~~!!
「ブリブリって聞こえたぞ!!!」
「ああ、漏らしてもうたわい……」
「ウンコ漏らしたのかよ!!」
「トイレに行ってケツを拭いてくるわい……」
穴部はノソノソと道場を出て行った。
だが、その足元に汚物が点々と跡を残していた。
「パンツからウンコが漏れてるじゃあないですか、師匠!!」
「お~、すまんが拾っといて、幸子さん」
「拾えるか! それに俺は幸子さんじゃあねえってばよ!!」
「なんなら、前みたいに美味しく食べてくれていいんだよ、幸子さん」
「食うか! てか、幸子さんはウンコを食べたのかよ!?」
困った事になっている。
師匠には家族が居ない。
結婚もしていないから子供も居ない。
だから病気になっても面倒を見てくれる身内が居ないのだ。
だから、俺が師匠の面倒を見るしかないのだ。
師匠には恩義がある。
俺をここまで強くしてくれたのは穴部師匠だ。
穴部師匠無くして俺はここまで強くはなれなかっただろう。
だから恩義を返すんだ。
俺が穴部師匠を最後まで見守って、骨を拾うんだ。
それが恩義を返す最大の好意だろう。
「ああ~、幸子さん、足助てけろ~!」
「どうしました、師匠!?」
「便器に片足を落っことして嵌まった~」
「ぼっとん便器なのに落ちるなよ!!」
「ヌチョって感触が~」
「底まで足がついたか!!」
こうして俺の世界制覇は延期された。
その後、穴部師匠が亡くなるまで20年間もの間、俺はボケ老人の面倒を見るはめとなる。
20年後、俺の現役は終わっていた。
俺は老けた。
結婚して子供も二人居る。
もう、いいおっさんだ。
今では戦国古武道の道場を引き継ぎ、町の子供たちに稽古を付けながら暮らしています。
残念ながら世界制覇叶わず。
しかし、俺は家族や弟子に囲まれて幸せである。
穴部師匠が残してくれた戦国古武術道場を、この先も守って行きたいと思います。
【終わり】
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