ペンタゴンにストロベリー

桜間八尋

第16話

     19

「殊勝な心掛けだな」

 優雨が一通り事情を説明すると、得心がいったように蘭子が頷く。

「真っ先にあたしに頼るなんてな」

 深雪と駅で別れてから、優雨は彼女に黙って蘭子の家に向かっていた。自宅へと戻る前にどうしても相談しておくべきだと感じていたし、万が一自分の身に何かあったときに最も迷惑を掛けてしまうのも蘭子だった。

「迷惑を掛けても心が痛まないのはララさんくらいですからね」
「言ってろ」

 事態はかなり深刻なはずだったが、究極のポジティブ思考の持ち主である蘭子と話しているだけで辛うじて暗い気分にならずに済んだ。

「どーりで連絡つかねーと思ったら、そんなことになってたとはな」

 蘭子がソファで横になると、無遠慮に伸ばされた足が隣に座っていた優雨の太腿に乗り上げた。それから、はっとしたように「そうだ」と呟くと、上体を起こす。

「また待ち伏せされてるかもしんねーし、しばらくうち泊まってくか?」

 それは盲点だった。しかし、そこまで用意周到な相手なら優雨の生死を山中で確かめていそうなものだが。

「そんなこと言って、仕事手伝わせたいだけなんでしょう」
「まーな」

 だが、可能性の一つとしてそういったことを語られてしまうと、ついつい自分の身を案じてしまうものだ。

「・・・・・・怖くなってきました」
「親御さんにはあたしからも話しておくからさ。心配すんなよ」

 度々外泊させることもあって、蘭子は未成年の子供を預かる身として優雨の両親とは当然ながら面識があった。なかなか無茶苦茶なことをやる人だが、不思議と面と向かって話す相手を信用させてしまう空気を彼女は持っている。それどころか、優雨の母親とは息子以上に気の置けない間柄となっていた。

「責任取って婿にするってこの間話したばっかだからな」
「俺の意思は何処行ったんですかね」

 優雨は半ば呆れながらも、頭の中では蘭子宅に滞在することを検討している。

「父にも話したんですか、それ」
「晴子さんも喜ぶってよ」

 思いがけないタイミングでその名前を聞き、優雨が僅かにたじろいだのを蘭子は見逃さなかった。

「そう、ですか」

 晴子というのは、優雨がまだ小さい頃に病死してしまった実母の名前だった。現在の母親はつまり、父の再婚相手であり優雨にとっての義母にあたる。母といえど、未だに打ち解けた関係とはいえないのはそのためだ。

「着替えとかさ、誰かに持ってきてもらえよ。あたしが取り行ってもいいけど」
「何持ってこられるか分からないんで、妹にでも頼んでおきます」
「ミナちゃんか」

 優雨の言葉を聞いて、蘭子が渋面を作る。

 旧姓・文月水面。父の再婚相手の連れ子で、今や優雨の義妹だ。妹といっても、年子みたいなもので学年は同じなのだが。しかし、別々の高校に通っているのでお互いに顔を合わせるのはもっぱら家の中になる。

 水面とは同じ小学校に通っていたこともあり、彼女との家族仲は決して悪くはない。距離感としては、深雪のような異性の友人に近いだろうか。簡単な頼みごとくらいは引き受けてもらえるだろう。少なくとも、ポ〇モンタオルを借りたときに比べれば嫌な顔はされないはずだ。

「なんかあの子に嫌われてる気するんだよな」
「気のせいでしょう」

 水面が誰かを毛嫌いするような性格だとは思いたくなかったが、人間関係にも相性はつきものだ。義理の兄とはいえ、蘭子と仲良くするよう無理強いすることはできない。

「大好きなお兄ちゃんを取られて嫉妬、みたいな」
「ありえませんね」

 蘭子の言葉を一蹴すると、安心安全な生活を取り戻すにはどうしたらいいか考えを巡らす。

「とりあえず、外出るときはこれでも腹に巻いとけよ」

 蘭子はテーブルに置かれた漫画雑誌に寝転んだまま手を伸ばすと、それを優雨の胸に押し付けた。本当にこんなもので身を守れるのだろうか。

「つーか、警察行かねーの」
「それは、」

 至極もっともな意見だ。しかし、自分が命を狙われているかもしれないなどと、周囲に知られるのも抵抗がある。家族には心配を掛けたくないし、何より流歌の悲しむ顔を見るのだけは御免だった。

「もしかしたら、俺のこと殺したと勘違いしたまま、もう何もしないかも」
「ストーカー被害で捕まるのを待つ、か」
「ええ、まあ」

 実際は同一犯かどうかも未確定なのだが、他に自分の命を狙うような理由を持つ人間がいるとは思えない。件の盗撮犯が日常的に流歌にまとわりついていたところ、一緒にいた優雨を恋人と勘違いしたかもしれないということ―――想像できる範囲で導き出した答えがそれだった。

「自分のこととなると、急に楽観的になるよな、お前」
「そうでしょうか」

 身に覚えはないが、蘭子が言うのならそうなのだろう。家族と同様に、長い時間を一緒に過ごした人だ。

「あたしは行くべきだと思う」

 珍しく真剣な目をした蘭子が、優雨にきっぱりとそう告げた。

「まだ悩んでるなら、あたしんちから一歩も出るなよ」

 要するに、他の選択肢はないということか。彼女の語気に有無を言わせないプレッシャーを感じ、優雨は思わず圧倒されてしまう。

「そう、ですよね」
「大丈夫。なんとかなるって」

 優雨の太腿に乗せた足はそのままに、蘭子はソファから起き上がると彼の頭を乱暴に撫でつけた。彼女の優しい声音に、優雨は胸の奥が暖かくなるのを感じる。

「問題があるのは、俺だけじゃありません」

 蘭子に勇気づけられ、心に余裕ができた途端に流歌のことが気にかかり始めた。自分のように直接的な被害を受けることはないと思うが、既にネット上では十分過ぎるほどの迷惑を被っている。

「オジョのことか」
「はい」

 流歌が女性と見紛うほどの美貌の持ち主であっても、男性でありながら女性誌などにモデルとして映っていたことに否定的な意見を表明するネット上の書き込みも少なからず散見された。それらに対し、彼には応答する機会がないというのが現状だ。ブランドの広告塔ではあっても、流歌自身の活動を広報する手段は存在していなかったのである。

「何とかしてやりたいのは山々だけどよ」

 ストーカー被害に関しては犯人が捕まるのを待つしかないし、ネット上の反応にアクションを取るかどうかは、流歌自身の意思に任せるしかない。

「あたしらだけじゃどうにも、」

 再びソファに上半身を投げ出すと、蘭子が思案気な表情で唇を尖らせた。それから、何か閃いたように「あっ」と声を漏らすと、

「足りない知恵は頭数で補うか」

 理解が未だ追いつかないといった様子の優雨に向かって、彼女はしたり顔でそう言った。

      *

「私に提案がある」

 その日の晩に召集された面々の中で、真っ先に意見を述べたのが大佐だった。

「却下だ」
「まだ何も言ってないだろう」

 蘭子がにべもなく彼の言葉を撥ねつけると、「どうせろくなことにならないだろ」とつっけんどんに言い返した。

 急遽執り行われたこの作戦会議は、優雨と蘭子、大佐、千歳、そして話題の中心人物である流歌の五人が参加していた。

「とにかく聞いてくれたまえ。要はいかにしてオジョくんの名誉を回復するか、ということだろう」

 大佐が会議の主旨を確認する。

「そもそも、マイナスかどうかも分からないですよ。否定的な意見はごく少数です」

 大佐の言葉を打ち消すように、千歳が割って入る。

「オジョ本人が何も言ってない以上、噂は噂でしかないからな」

 千歳の言葉にそう付け加えると、蘭子は続けた。

「学校の連中にはもう何か言われたか?」
「それが、バレちゃったみたい。まだ返事してないけど」

 流歌が「どうしよ」と言葉を詰まらせる。夏休みが終われば級友たちとは否が応でも顔を合わせることになるし、そうなれば今回の件について言及することも避けられないだろう。

「否定することもできます」

 優雨が手段の一つとして提示した。しかし、流歌の純真な性格を思うと苦しい選択肢には違いない。

「嘘は、できればつきたくないかな」

 流歌が言い辛そうに答えた。優雨を騙したことに、まだ気持ちが引きずられているのだろうか。それも当事者である二人にしかわからないことではあったが。

「ならば釈明するしかあるまい。結果的には、『性別を偽っていた』と捉える者もいたようだしな」

 流歌の本来の性別を知った大佐も当初は大いに狼狽えたものだったが、今や蘭子のことしか頭にないのか「個性的でよろしい」の一言ですっぱりと態度を改めていた。

「で、具体的にはどうすんだ」

 あまり乗り気な様子ではないが、蘭子が続きを促すように言った。

「無論、先ずは声明を出す。包み隠さず、とは言わないまでも疑問を解消させてやることは大事だ。黙っていれば要らぬ憶測を生み続けることになる」

 一同が黙って大佐の次の言葉を待つ。

「次に、味方をつけることだな。ネットで話題になったことを逆手に取る」
「前置きがなげーぞ」

 そこで蘭子が堪え切れずに言った。「まあまあ」と千歳がそれを宥めると、大佐の言葉を引き取る。

「SNSなどで、双方向性を実現するということですか」
「理解が早くて助かる。そこで、だ」

 大佐が指をパチンと鳴らす音がスピーカー越しに聞こえた。直接顔を合わせているわけでもないのに、芝居がかった仕草を好むのは相変わらずのようだ。

「オジョくんに似合いの舞台がある」

 大佐の言わんとしていることに察しがいったのか、流歌が不安げに「それってもしかして」と小声で彼に答えを促した。

「そう、動画配信だよ」

 どうやら予想は的中したらしい。流歌が「だよね」と弱弱しい声で応えた。しかし大佐はそこで彼を鼓舞するように、

「PCやスマホの普及率は世界でも随一の国なんだよ、ここは。動画配信サイトはお手軽に娯楽を提供してくれるし、流行っているということはそこに利益があるということなんだ」

 急に早口になってまくし立て始めた。

「一攫千金を狙おうってわけじゃないが、上手くいけば姉君のブランドの宣伝も兼ねることができるだろうし。どうだ、悪い話ばかりじゃないだろう。配信を見に来る連中は少なからず君に興味を持っている人間に限られるから、否定的な意見があってもノイジーマイノリティとして片づけられる程度だろう」

「でも、配信って何やればいいの」

 流歌が鼻息の荒い様子の大佐におずおずと聞いた。

「君の得意なゲームでも披露してみたらどうだ。FPSとか」
「オタクは釣れそうだな」

 蘭子が皮肉っぽく茶々を入れる。

「ついでに『男の娘』って検索ワードも付けようぜ」
「配信でも流歌さんに女装させるんですか」

 千歳が呆れたように言った。

「その方が絵面はいいかもしれんな」
「そんな見世物みたいに、」
「いや見世物だろ。こいつの配信見てみろよ」

 三人が口々にお互いの配信観を述べ始めると、いよいよ収拾がつかなくなってきた。

「仮にライブが成功したとしましょう。しかし、それが第二、第三のストーカーを生むことにはなりかねませんか」

 千歳の意見が一同を黙らせた。

「まだ捕まっていない隠し撮り犯の方も、これを契機に増長するかもしれません」
「流歌が有名になれば警察も犯人探しに本腰を入れるんじゃねーか。知らんけど」

 彼女の言葉に反発するかのように、蘭子が周囲を焚きつける。優雨の身に危険が迫っていることを知った以上、犯人の目を流歌の動向に向けさせることでなんとか庇おうとしているのかもしれなかった。

「何もしないままで、状況が好転するとも思えんな。まあ、人の噂もなんとやらと言うし、ほとぼりが冷めるまで待つというのも一つの手ではある」

 愉快犯かと思われていた大佐だが、最終的には流歌自身の意思に委ねるという当然の帰結に議論の舵を切った。

「君が表舞台に立つということは、それ相応のリスクを背負うということでもある。万が一炎上騒ぎでも起こせば、最悪、学校側からは退学という措置もありえる。無論、そんなことは有り得ないと信じてはいるがね」

 彼が話している間も、流歌は押し黙ったままだ。

「それに、これは君の将来にも関わることだ。就職活動をするようになれば企業側は必ずこのことを嗅ぎ当てる。上手くいけば、そんなことをせずとも配信業で食えるようになるかもしれないが」

 流歌のアイドル性ならば後者も実現できるかもしれないが、彼の夢は学校の先生になることだ。それが今になって綱渡りな人生を歩もうとするとは思えないが―――駅での一件はまさしく「若気の至り」と周囲には見做されることになるだろう。それを跳ね返すだけの評判を得られるならば話は別だが。

「赤井さんは仕事の合間に趣味でやっているのでしょう。ご自分の理想を流歌さんに押し付けていませんか」
「否定はしない」

 千歳の厳しい物言いに、大佐がぐっと息を詰まらせる。

「手厳しいな。学生かと思っていたが」
「24歳、OLです」
「あっ」

 どれだけ夢のある話だろうが、それをばっさりと切り捨てるリアリストな一面を千歳は持っていた。流歌にキスを迫ったゴスロリ女と同一人物とは到底信じがたい。

「オジョさんはどう思います?」

 優雨がそう呼びかけると、流歌はゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。

「やってみたい、かな。今のままだと、なんか息苦しくて」

 そこで言葉を区切ると、彼はしっかりとした口ぶりで言葉を続ける。

「お稲荷のことも、千歳ちゃんのことも、みんなちゃんと話すよ。迷惑を掛けちゃったのは事実だし、隠し事はしたくないから」

 実に流歌らしい答えだった。彼の冒険心と実直さが綯い交ぜになった意思表示に、異を唱える者は誰一人としていなかった。

「そうと決まれば善は急げ、だ」

 ここぞとばかりに意気揚々とした大佐が、流歌の初配信に向けてのスケジュールを組み立てにかかった。それまでは彼に否定的なスタンスを保っていた千歳も、いざプロデュースの段階になると流石に好奇心を隠せない様子で会議を盛り立てた。

 優雨もできる限りの支援をするつもりでいたが、内心では不安に圧し潰されそうになっていた。流歌が自身について言及すれば、優雨の訃報が彼に伝わっていないことが犯人に筒抜けとなってしまう。

 それで殺人を思い止まってくれたならまだしも、続けての犯行を企てる可能性もなくはない。当然、そうなったら命の保証はなくなる。通話を終えてから、そのことについても蘭子と話し合うことになった。

      *

「こりゃ死んだふりも通用しなくなるな」
「まあ、どっちみちこのまま騙し果せるとは思えませんし。遅かれ早かれですよ」

 優雨が気丈に振舞って見せるが、蘭子はいつになく弱気な様子だ。

「なあ、今からでも警察行かないか」
「いえ、オジョさんの雄姿を見届けるまでは。そんな暇ないです」

 流歌は姉夫婦の家に間借りしている身らしく、それを考慮すると自宅の外に配信用のスタジオを設ける方がベターだ。そこで白羽の矢が立ったのが、蘭子が住むこのアパートである。

「仕事部屋をスタジオに改装する準備、ララさん一人でできますか」

 音楽を学べる学校が近所にあるせいか、今は優雨がペンを走らせるためだけに詰めていた小部屋はなんと防音仕様なのである。その付近に住もうという学生の需要に応えたはずのものなのだろうが、何の因果か「知り合いの伝手で借りた」という蘭子が持て余していたのだ。

「無理だわ」

 うーん、と悩ましげにひとしきり唸った挙句、まるで絞り出したかのように蘭子が弱弱しい声で言った。大佐を自宅へ招くことに対して頑なに拒否感を示した彼女の、まさしく身から出た錆だ。現役配信者の手を借りずに、必要な機材のセッティングを自らの手で行うことになってしまったのだから。

「やるからには成功させましょう。その為にはしっかり準備しとかないと」

 優雨がそう説き伏せると、蘭子はぐうの音も出ない様子でむっつりとした。今後彼女が手掛けなければならない原稿のことも考えると、この手助けは必要だろう。

「大丈夫ですよ。きっと」

 珍しく無口な蘭子を尻目に、優雨は気楽な調子を装って言った。同時に、それは自分に言い聞かせるためでもあったのだが。

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