ペンタゴンにストロベリー

桜間八尋

第10話

     13

「ごめんなさいっ」

 千歳の告白を受けて、何故か深雪の脳裏に浮かんだのはクラスメイトの友人の顔だった。彼に好意を抱いていたこと自体、今の今までまるで意識していなかったというのに。

 思わず出てしまった大きな声に、周囲の客が怪訝な目をこちらに向ける。その視線を感じて縮こまりながら、深雪は恐る恐る千歳の様子を窺った。彼女はテーブルに目を落としたまま押し黙っている。

「自分、好きな人がいて」

 そう口にしただけで顔が熱くなり、心臓がばくばくと脈打つのを感じた。緊張のせいか、膝の上でぎゅっと拳を握りしめてしまう。

「あの」

 じっと俯いている千歳からは答えが返ってこなかった。しかし、これ以上何かを言ったところで単なる追い打ちにもなりかねない。できれば彼女を元気づけられるような話をしてあげたいのだが―――それには言葉を慎重に選ぶ必要があるだろう。

「そう、ですよね」

 千歳がようやく口を開いた。深雪の中でひたすらに焦燥感だけが募っていく、そんな沈黙がしばらく続いた後だ。

「すみません。変なことを言ってしまって」

 そう言った彼女は弱弱しい笑みを浮かべていた。いつもの「ユキ」に対して笑顔を絶やさない思いやりからだろう。気の置けない友人として接するつもりが、結局は気を遣わせることになってしまった。

「そんなことないっす」

 口をついて出た言葉は、実に空虚な響きを伴っていた。しかし、今の自分には他にあげられるものが何もない。困った末、こんなとき優雨ならどうするのかと、つい想い人に胸中で助けを求めてしまう。

「いいんです」

 千歳がゆっくりと頭を振った。

「気を遣っていただかなくて」

 まるで返す言葉が見つからない。完全なお手上げだった。

「ちーちゃんの好きな人が、その、自分だと思わなくて。適当なこと言っちゃったかもしんないっす」

 深雪が口にしたのは自責の念だ。それ以外に、ましてや千歳を慰める言葉なんて逆立ちしたって出てきそうにない。考えれば考えるほど、今にも知恵熱で頭の中が沸騰してしまいそうだ。

「優しいんですね」

 千歳は微笑みながら、

「でも、諦めないと」

      *

 そのまま千歳はゆっくりと席を立った。ユキが何か言いたげに口を開こうとするが、言葉は出てこなかったようだ。

「またお店で会いしましょう」

 そう口にしてみたものの、再び彼女に会いに行く勇気が果たして自分にあるだろうか―――ユキの厚意を無下にしてしまったせめてもの罪滅ぼしに、売上に貢献してもいい。気が変わってアルバイトを続けることになったら、彼女の古参ファン面してやろう。

 後悔に胸の内が押し潰されそうになったが、不思議と涙は出てこなかった。メイクが崩れずに済むので好都合ではあるが、いっそ泣き叫んでしまった方が気持ちの整理は早くついたに違いない。テーブルを離れるときも、どんな顔をすればいいかわからなかった。そのせいで、ユキから目を背けるようにこの場を後にしてしまったのも心残りだった。

 ファストフード店を出てからしばらく、ユキの連絡を待っていたときとは真逆の気分で夕暮れの街をあてどなく歩き回った。こういうときに限って、自分の奇異な服装をしげしげと眺める周囲の目が煩わしい。

 こうして着飾っているのはユキのためだった。初めての入店で彼女を指名したときは、至って無難な服装を選んでいたものだが―――ユキの好みを聞き出し、それに合わせようという魂胆もあった。しかし、彼女は好みのブランドの有無以前に、ファッションそのものに無頓着なところがあった。逆にどんな服が好みなのか聞かれ、本当はゴシックロリィタが趣味なのだと正直に伝えたところ、着た姿を見てみたいと言われたのだ。

 彼女の言葉を真に受け、お気に入りの一張羅を選んで入念に練習したメイクを施した。余計な注目を避けるために現地まではタクシーを利用していたが、ユキに絶賛されたことで自信がつくと、周囲の目も次第に気にならなくなっていった。

 気合の入った姿をユキに見せることができた上、それを彼女が手放しで喜んでくれたことが心底嬉しかった。ユキは平然と嘘をつけるタイプでもなければ、お世辞すら思いつけないような人だ。そんな彼女が褒めてくれたのだから、自分の魅力を素直に認めてもいいだろう、と。それも、結局は無意味だったが。

 気がつけば、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。呆れたことに、一人で何時間もふらふらと歩き回っていたようだ。それでも心の整理がつかないどころか、心理状態はますます悪化の一途を辿っている。自分でも知らないうちに、失恋の苦しみが心に深い影を落としていた。

 いい加減に帰るとしよう。実家暮らしのいい大人が門限に縛られることもないのだが、妙な勘繰りをされるのも避けたい。そう思ってタクシーを呼ぼうとした矢先だった。

「あっ」

 目の前を一人の少女が通り過ぎた。そのとき、全身に電流が駆け巡ったかのような衝撃に襲われたのだ。それはまさしく、ユキと出会ったとき以来に感じた恋の感覚だった。

 まるで御伽の国からそのまま抜け出てきたような、亜麻色の髪の乙女。千歳は一目で恋に落ちてしまっていた。その存在感は、不思議と周囲の風景からくっきりと浮かび上がっているかのようだ。幸せそうに微笑んでいる彼女を見ていると、絵本の一ページを覗いているかのように思わされる。

 しかし、彼女の隣に男性がいたことでその魔法もすっかり解けてしまった。少女の笑顔も恋人に向けられたものだと知れると、途端に幻想が打ち砕かれる。

 どうして男ばかり―――なぜ彼女たちの隣に自分がいてはいけないのだろうかと、内心に激しい嫉妬の念が渦巻く。すると、無意識に千歳は二人の後を追っていた。その行動に明確な目的があったわけではない。ただ、現実の不条理に対する答えが欲しかっただけなのだ。


     14

 ワインを注文したのは流歌だったが、当然のように従業員が運んできたグラスは優雨の目の前に置かれた。

「だよねー」

 それを見た流歌が笑いながら、自分の側に置かれたオレンジジュースと位置を取りかえる。

「それじゃ、かんぱーい」

 二人がグラスを鳴らして乾杯する。すっかり肩の荷が下りたといった様子で、ワインが注がれたグラスに流歌が口をつけた。それに合わせて優雨もジュースを一口だけ含む。

 どうしてこうなった。

 あれから近くにあったファミレスに腰を落ち着けた二人だったが、優雨の心は未だにざわついたままだった。ついさっきまで、恋の成就を確信していたはずだったのに。未だに自分は騙されているのではないかと、つい勘ぐってしまう。しかし、その考えはすぐに頭から打ち消した。流歌を疑うようなことはできればしたくない。

「好きなもの頼んでいいよ。ここはボクが払うからさ」

 そう言った流歌に渡されたメニューを眺めてみるも、なかなか食欲はわいてこなかった。

「すみません。お任せします」

 結局、何も決められずにオーダーは流歌任せにした。すっかり気落ちしたところを見せてしまったせいか、彼が終始気遣わしげな目でこちらを見ている。

「ねえ、お稲荷、ボクが君の言うことをなんでも聞くって言ったら、何かお願いしてくれる?」

 そう提案する彼は、どうやら今日の「不発」に対して埋め合わせをさせてほしい様子だった。優雨としても気まずい雰囲気のまま別れるのは本意ではない。彼と恋人にはなれなくても、ゲームを一緒に遊ぶ友達としては今後も付き合っていけるのだから。これからも良き友人関係を続けていくためにも、ここはノーダメージをアピールしながら遊びに行く約束でも取り付けておくのがベターだろう。

「そうですね」

 二人きりでデート、というのも今日で懲りた。浅ましい野望など抱くものではない。しかし、こうして誰かを誘って出掛けた覚えなど最近はほとんどなかった。そう考えると寂しい青春を送っているのかもしれないが、今日という日がその巻き返しとなるかもしれない。そこで、

「あっ、そうだ」

 まるで天啓に導かれたかのように、あることを思いついた。

「なになにっ」

 これには流歌も待ってましたと言わんばかりの勢いで飛びついてきた。ぱっと明るくなった表情は、まるで主人を玄関まで迎えに来た犬のようで微笑ましい。

「直近なんで、もし予定が空いていたらでいいんですけど」
「うんうんっ」

 流歌がこくこくと頷きながら、一際大きな瞳を爛々と輝かせる。

「コミケでうちのサークルの売り子とか・・・・・・どうでしょう。準備込みだと朝早くからご足労いただくことになっちゃいますけど、混雑は避けられますし。勿論、開場後の合流でも構いませんから」

 そう言ってから流歌の表情を窺うと、彼は口を開けたままぽかんとした表情でこちらを見ていた。

「すみません。やっぱり急でしたよね」

 お盆休みは来週だ。流石に予定をねじ込むのは無理が過ぎたか。当然ながら彼には彼の付き合いがあるだろうし、上京したての大学生なら実家に帰省するタイミングであってもおかしくない。

「ううん、空ける」

 流歌が半ば茫然としながら、ぽつりと呟いた。それから、

「絶対行くしっ、ていうかボクなんかで本当にいいの?」

 突然テーブルから身を乗り出しそうな勢いで彼が言った。それを見た優雨が思わずたじろいだものの、すぐに柔和な笑みを取り戻して答える。

「勿論です。他に頼める人なんていませんよ」

 それを聞いた流歌が感激した様子で、

「ありがとうっ、ボクがんばるよっ」

 両の拳を胸の前で握りしめながら意気込んだ。

「どういたしまして」

 単なる思いつきを口にしただけだったが、ここまで喜んでもらえるとは思いもよらなかった。話が一段落したところでもう一口オレンジジュースを飲むと、先程よりも味が少し濃くなったような気がした。

      *

 すっかり気を良くしたのか、ファミレスを出た頃には少々酔いが回っていた流歌の様子に気を取られていた優雨は、駅に向かう道中も背後の不穏な影に全く気がつかなかった。

「ごめんね」

 流歌が申し訳なさそうに言う。時間が時間だけに、二人で乗り込んだ帰りの電車は非常に混みあっていた。自分が男であることを明かしてから、彼は過度なスキンシップで誘惑したことを優雨に詫びていた。しかし、車内は満員に近い状態だったために、今や二人はお互いの身体をぴったりと寄せ合っている。

「いえ、お気になさらず」

 この状況が優雨に踊り場で流歌を抱きしめてしまったことを思い出させた。あのときに感じた体温は実に蠱惑的だった。それは今も変わりないのだが、現状は理性によるブレーキがきちんと機能している。

「わっ」

 車内が揺れると、吊革を手にしていなかった流歌の足元がふらつき、その顔が優雨の胸板に押し付けられた。優雨が反射的に、流歌の細い肩を抱きとめる。流歌はその腕から逃れようとしないばかりか、そのまま身じろぎもせずに大人しくしていた。傍から見れば、公衆の面前でいちゃつくカップルのように映るだろう。そうであればいいと優雨自身も思う。しかし、その実態は見た目よりも複雑だ。

 不意に、優雨の腕の中で流歌が肩を震わせた。その直後、きょとんとした顔の彼と目が合った。

「どうかしたんですか」
「んっ」

 優雨がそう聞くと、流歌が妙に艶っぽい声を漏らした。他の乗客の視線が一斉にこちらを向く気配がする。

「・・・・・・大丈夫ですかっ」

 囁き声に近い調子でそう聞くと、続いて彼は不思議そうに首を傾げた。見たところ体調不良ではなさそうだし、当人に深刻な様子も見られないが。

「えーと、その、」

 流歌はなんとも言葉にしづらそうに、優雨に事情を伝えようとした。

「痴漢、っぽい」

 そう言った彼は、横目に自分の背後を確かめようとする。

 その瞬間、電光石火の早さで優雨が反応した。流歌の肩に回していた手を、そのまま彼の背をなぞるように下ろす。恐らくは流歌の臀部に触れたであろう者の腕を捕らえるのが目的だった。

 現行犯で捕まえてやる―――そう思ったときには既に犯人の手首を優雨はがっちりと掴んでいた。その感触は存外に細く、なんとか逃れようともがいているのが伝わる。しかし、その程度で優雨の万力のような腕はびくともしなかった。

「一旦降りましょう」

 流歌にそう伝えると、優雨は手に込めた力をわずかに強める。すると、犯人は観念したように抵抗をやめた。次の駅に到着して乗車口が開くと、流歌の手を引いて一緒に降車する。無論、痴漢の手首も掴んだままだ。

「はっ!?」

 三人が揃ってホームに出ると、優雨は手首を掴んだ相手の顔をそこで知った。驚きのあまり、思わず声が出てしまう。満員の車内を上から見下ろしても、優雨は誰が犯人なのか見当がつかなかった。それもそのはず、流歌の背後にいた人物が存外に小柄だったために、開けた場所に出るまでその全容が知れなかったのだ。

「・・・・・・この人なの?」

 流歌が疑問に思うのも当然だろう。優雨に手首を掴まれ、不貞腐れたようにこちらから顔を背けたのはゴスロリファッションの女だった。少女とも妙齢の女性ともつかない彼女の姿を目にした優雨は、犯人を取り違えてしまったのかとしれないと思うと冷や汗を額に浮かべた。

「そうだと、思うんですが」

 犯人の女は尚も抵抗の様子を見せない。こちらの勘違いだとしたら、せめて抗議の声を上げてくれもよさそうなものなのだが。

「両手に花だね」

 被害者意識など欠片もなさそうな調子で流歌が言った。酒が入った影響か、今も随分と呑気に見える。そんな彼を眺めているとこちらまで気が抜けてしまいそうだ。

 犯人との膠着状態が続いていると、次第に周囲の視線が集まってきた。ただでさえ人の集まる駅のホーム、個性豊かな三人組が尋常でない雰囲気を醸しているのだから至極当然といえるだろう。このままではあまりにも目立ちすぎると判断した優雨は、やむなくゴスロリ女を解放することにした。

「事情を話していただけますか」

 握りしめていた彼女の手首を放しながら、優雨は女に向かって毅然と言った。すると彼女はみるみるうちに目に涙を溜め、泣き出すのを必死に堪えながら優雨の方を見上げて叫んだ。

「殺せえええええええええええええええええええええ」

 優雨と流歌が思わずぎょっとした。彼らだけではない。ホーム上の誰もがこの異常事態に気がついたのだ。

「もうおしまいだあああああああああああ」

 その場でぼろぼろと泣き出した女は、優雨が反射的に差し伸べた手を払いのけると仰向けに倒れ込んだ。

「ちょっ、」
「一思いにやれえええええええええええええ」

 大の字になりながら、彼女は叫び続ける。その声を聞いた周囲の乗客たちがにわかに集まり出した。これ以上騒ぎが続けば、駅員を呼ばれるのも時間の問題だろう。

 犯行を認めたにしてはオーバーすぎるリアクションだった。一体全体、何が彼女をこうさせるまでに追い詰めてしまったのかはまるで見当がつかないが、そのトリガーを引いてしまったのは明らかに自分だ。しかし、この事態にどう対処すべきか優雨には良い考えがさっぱり思いつかなかった。

 唖然として立ち尽くすばかりだった優雨に先んじて動いたのは流歌の方だ。彼はゴスロリ女の元に歩み寄ると身を屈め、彼女の頬にそっと手を伸ばした。そして、

「何か力になれることはありますか」

 その一言で泣きじゃくる彼女を黙らせた。

 流歌は鞄からハンカチを取り出し、少女の目元にそっと押し当てる。しゃくり上げる彼女と目が合うと、彼は柔和な笑みを浮かべながらもう一度言った。

「ボクにできることがあれば」

 流歌が優しい声音で問い掛けると、彼女は僅かに考える素振りを見せてから、

「キス、してください」

 とんでもないことを言い出した。流石の流歌もこれには狐につままれたような顔をするが、すぐさま気を取り直した様子で言った。

「いいよ」

 予想外の返答に優雨のみならず言い出しっぺのゴスロリ女までもが目を丸くした。しかし、流歌の表情は真剣そのものだ。それを見た彼女は、

「嘘だったら、」

 流歌の唇に指を這わせながら疑惑の眼差しを向ける。その直後、

「んむっ」

 流歌は彼女と唇を重ね、その口を塞いで黙らせた。優雨が思わず絶句していると、周囲の注目がにわかに活気づいたものになったことに気がついた。中には二人をスマホで撮影している者さえいる。

「オジョさんっ」

 お互いに熱のこもった視線を交わしていた二人だったが、優雨の声に流歌の方がはっとしたように身を起こした。

「ほら、立って」

 流歌がそう促すと、未だに夢心地といった様子でうっとりとしているゴスロリ女も大人しくそれに従う。

「とりあえず、ここを出ましょう」

 立ち上がったゴスロリ女の手をしっかり握った流歌が頷いたのを見て取ると、優雨が野次馬の人混みをかき分けるようにして二人を先導した。騒ぎを聞きつけた駅員に捕まるのだけはどうしても避けたい。

 思い返しただけでも今日は波乱の一日だったのだが―――それもまだ、もう少し続くようだ。蘭子への土産話にするとしたって充分過ぎるくらいなのに。二人を伴って改札へと向かう優雨には、疲れを覚える暇もなかった。

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