ペンタゴンにストロベリー
第7話
9
「ユキさんは女の子を好きになったことってありますか?」
いつものように常連客とお喋りをしていたつもりだったのだが、いつの間にやら空気が変わっていたらしい。目の前の女性客は俯きがちにそわそわしていて、とても緊張しているように見える。
「んー、自分はまだないっすね」
それでも、ついつい生真面目な答え方をしてしまった。
ベテランのキャストならここで口説き文句の一つでも添えるのだろうが、新人である深雪はそっち方面への発想力には未だに乏しかった。生来考えるより先に口が動いてしまう気質なばかりに、本音ばかりが先行してしまい、建前を用意するのが苦手なのだ。
「ちーちゃんはあるんすか?」
これまた思ったことをすぐさま口にしてしまう。入店当初はこの癖に気を揉んだものだが、今ではすっかり開き直って普段通りに振舞っている。
「それは、その、」
目の前の女性が口ごもるのを見て、深雪はこれがデリケートな質問であることをようやく悟った。彼女―――深雪が「ちーちゃん」と呼び慕う女性の名前は、百鬼千歳という。深雪が勤めるコンセプト喫茶の常連客だ。
ここでは女性キャストがウェイター姿に男装して働いており、彼女たちの見目麗しさに惹かれる女性客も少なくないという。千歳もその一人で、どうやら深雪を目当てにここへ通っているらしかった。
「実は、あったりして」
先の言葉に、彼女が顔を真っ赤にして答えた。きゃ、と声を上げたくなるのを我慢して、深雪が続きを促す。
「お友達っすか?」
「いえ、まだそんな間柄ではなくて」
千歳が首元のリボンタイを直すような仕草をしながら言葉を作った。
「昔から、男性が少し苦手で」
彼女はゴシックロリィタファッションを愛好していた。真っ白に塗った肌に赤い唇が妖艶に映え、垂れ目がちな瞳を一際大きく見せる縁取りや、墨を垂らしたような艶々とした黒髪とも相まって、まるでフィクションに登場する吸血鬼のように魔性めいた魅力に満ちている。
化粧越しにもわかる素材の愛らしさと高いメイク技術の相乗効果。それは彼女の姿をすっかり見慣れたはずの今でも、時折うっとりとしてしまうほどだ。小柄ながらも女性らしい起伏に富んだ体形を真っ黒なドレスですっぽりと覆い、それでいて真夏にも関わらず汗一つかかずいつも涼し気な顔をしている。「お洒落は我慢」とはよく言ったものだが、全くもって辛そうに見えない彼女に限っては、本当に魔法か何か使っているのではと不思議に思えてしまう。
「ははあ、それで女の子とばっかりつるんでたら、って感じっすか」
彼女ほどの美貌の持ち主なら、今まで世の男どもからうんざりするほどの視線を浴びてきたことだろう。それを理由に男を嫌うと言うなら容易に納得できる。
「うーん、ちょっと違うような」
千歳が慎重に言葉を選ぶように答えた。
しっかりとした口調で話す上に、言葉の端々から感じる思慮深い面も、深雪が彼女を好ましく思う点の一つで、自分にはないものだからこその憧れも抱いていた。
「一目惚れに近いでしょうか。なんかいいなって思って」
「うわあ、いいっすねそれ」
壊滅的に語彙力がない故の深雪のオウム返しだったが、話すうちに自然と笑みがこぼれる彼女の様子につられて、千歳の表情も次第ににこやかなものになる。
「話すうちに、好きになって」
消え入りそうな声でそう言うと、千歳は照れたように再び俯いてしまう。
彼女が自身のプライベートな胸の内を明かしてくれたことにすっかり気をよくしていた深雪は、興味津々な様子で千歳の次の言葉を待った。
「それで、今はどうなったんすか」
「まだ片思いです」
ちらとこちらを窺うような視線を送る千歳の目に、わずかな熱がこもっていたことに深雪は気がつかなかった。
「どうしていいのかわからなくて」
「なるほど」
そうは言いつつ、深雪にもその難題に対する答えはちっとも思い浮かばなかった。
「ユキさんは、その、女の子同士が付き合うのって、どう思いますか」
そして、聞こえてきた千歳の言葉に深雪はぽかんと口を開けたまま思考を停止してしまった。同性間での恋愛など、彼女に言われるまで考えたこともなかったのだ。
「えーと、んん?」
こうも直接的に言われてしまうと、言葉がリアルな質感を伴ってくる。同性愛をフィクションの世界でしか認識してこなかった深雪は、千歳の目に映る世界と自分のそれとの齟齬に直面し、ただただ困惑するばかりだった。
「やっぱり、変、ですよね」
珍しく言葉に詰まった深雪の様子を見て、千歳が気落ちしたように言った。
「ちーちゃんっ、自分は、その」
千歳がしょげたところを初めて目にした深雪は激しく動揺した。いつも楽しそうにしている彼女に安心感を覚えていたはずの自分が、よりにもよって悲しませてしまうことになるとは。
「正直、その、気持ちはよくわかんないっすけど、それがちーちゃんの望むことなら、自分は応援するっす」
もし彼女を失望させてしまったのならと、少しでも挽回しようと深雪が熱弁した。その言葉に気迫がこもる余り、たまたま近くにいた同僚のキャストが彼女の様子に思わず目を瞠った。
「そう、ですよね」
思わず面食らった千歳だったが、深雪の真摯さに心を打たれたようだ。
「ありがとう、ユキさん」
彼女の顔に笑みが戻るのを見て、ほっとした深雪は胸を撫で下ろした。
「どういたしましてっす」
*
脈なしだ。千歳は悟った。
千歳は異性に恋をしたことがなかった。だから、どうしてもこの感情が本物の恋心なのかどうかを確かめておきたかったのだ。そのためにはユキと懇意になって、彼女と親密な時間を過ごす必要があると考えていた。
ユキが同性と恋愛できるタイプだとは思っていなかったが、いざその事実に直面してしまうと想像以上に気が滅入ってしまった。それならそうと、わかっていながらなぜあんな聞き方をしてしまったのだろう。いくらなんでも焦り過ぎだ。考えもなしに同性愛者であることをカミングアウトしたばかりか、相手には明らかにドン引きされてしまった。この上ない失策である。
しかし、光明はあった。失意のまま、千歳がそろそろ店を出ようかと考えていたとき、
「ちーちゃん、この後時間あります?」
どことなく不安げな様子で、ユキがこっそりと千歳に耳打ちした。
「今日はもうすぐ上がりなんで。良かったら後で少しお話しましょ」
急な出来事に声を出すこともままならなかった千歳は、ユキに向かってこくこくと頷いてみせる。それを見た彼女がぱっと表情を明るくした。
「後でDM送るっす」
ユキが小声でそう言い足すのを聞くと、ようやく状況が飲み込めてきた千歳は、自分の鼓動が緊張で早くなるのを感じた。
恐らくは同情心からだろうが、まさに首の皮一枚で繋がった状態だ。この「お誘い」が千載一遇にして正真正銘な最後のチャンスかもしれない。ユキの人柄に付け込むようで良心は痛むが、なんとしてもこの機会はものにしたかった。
*
何食わぬ顔で喫茶店を出ると、そわそわしながら街中を歩き回って過ごし、ユキからのメッセージを待った。
彼女のツイッターアカウントはもちろんフォローしている。ひいきの客とコミュニケーションを取ったり、お店の広報をするためにキャストがそれぞれ開設したものに過ぎないが、今となってはこれだけが頼みの綱だった。
何度も何度も、折を見てはメッセージが届いていないか確認した。その度に不安を募らせながら待っていたのだが、
「きたっ」
本当に来たところで、思わず声が出てしまった。
メッセージの通り、ユキが待ち合わせの場所に指定したファストフード店に急いで向かう。誰かのために、こんなにも必死になったことは今まで一度もなかった。この胸の高鳴りが、恋でなくてなんなのだろう。足取りを緩めて通行人の脇をすり抜けると、再び駆け出す。一刻も早くユキに会いたかった。
目的地が視界に入ると走るのをやめ、ハンカチで汗を抑えた。念のために鏡でメイクが崩れていないか確かめようかとも思ったが、どの道直している時間はない。腹を括るとそのまま店内に踏み込んだ。
ファストフード店の中を見回すと、ラフな格好をした女性がこちらに向かって手を振るのが見えた。どうやら彼女がユキであるらしい。
「す、すみません。お待たせして」
「へーきへーき。全然待ってないっすよ」
荒くなりかけていた息を整えると、ユキの向かいの席に腰掛ける。
「なんか頼みましょっか。よければ自分がおごるっす」
「い、いえ。お構いなく」
正直、憧れのユキを目の前にしているだけで胸がいっぱいだ。このままでは緊張で何も喉を通りそうになかった。が、自分だけ何も頼まないというのも居心地が悪い。
「わかったっす」
そう言ってポテトをつまむ彼女は、やはりというべきかウェイター姿の凛々しい「ユキ」とは雰囲気が一変していた。男装用のメイクを落とし、お店ではアップにまとめていた髪をおろしているところなどは実に年相応の少女らしい未成熟な色香があった。ファッションも至ってシンプルなところが彼女の飾らない性格を表しているように見える。
エジプトの壁画っぽい画風の謎のキャラクターがプリントされたシャツとデニム地のパンツは、それぞれが体の輪郭を浮き彫りにするサイズ感だ。バイト中はサポーターでバストを小さく見せていたのか、女性らしい丸みを帯びた起伏が露わになっている今の姿はなんとなく目のやり場に困ってしまう。
「な、注文してきますね、ちょっと」
いかん。興奮してきた。
冷静さを取り戻すためにも、ここは少しばかり距離を(物理的にも)取ることにしよう。
「行ってらっしゃい」
そう言って微笑むユキに見送られると、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に陥った。思わず「い、行ってきます」と返事をしながら、未だに慣れない恋の苦しみに戸惑うばかりだ。
凄まじいギャップだった。見た目が少し変わったくらいで、こんなにも印象が変わるものなのか。距離感だって、本当の友達みたいだ。ただ一つ変わらないところがあるとすれば、彼女の独特な丁寧口調だろうか。初めは後輩キャラでも演じているのかと思ったが、どうやら普段からこんな感じらしい。
「お待たせしました」
注文の品を受け取る頃には気分も落ち着いてきたが、いざ再びユキと対面するとなると少しばかり気合が必要だった。
「へへ、待ってたっす」
あっ、可愛い。
彼女の屈託のない笑顔で迎え入れられると、本当にこれが無料のコンテンツなのかつい疑ってしまう。
「ちーちゃんとはこうやって普通にお喋りしてみたくて。同伴ってやつ?」
それを言うならアフターではないだろうか。何はともあれ、ユキが屈託のない笑顔を見せる度、その眩しさにまるで心が洗われたような気分になった。しかし、
「ありがとうございます・・・・・・でもそれって、私だけ、ですか」
自身のネガティブな部分が、まるで相手を問い質すような口ぶりを生んでしまった。自分でそう言っておきながら、千歳は胸の内がちくりと痛むのを覚える。
「そうっすね。ちーちゃんより仲良いお客さんいないっすから」
だが、ユキは即答した。そのあまりにもあけすけな言い方はプロ意識に欠けているようにも聞こえるが、そこは彼女の実直さと捉えるべきなのだろう。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしましてっす」
その一言にすっかり毒気を抜かれてしまった千歳は、内心で自分の卑屈さに辟易しながらも次の言葉を探した。
「ユキさん、本当にお店辞めちゃうんですか?」
どうしても聞いておきたかったこと。以前に彼女自身から聞いた話だ。
「んー、そうっすね。とりあえず夏休みいっぱいって感じで」
「そう、なんですか」
つまり、残り一か月もない。突然目の前が真っ暗になった気がした。しかし、
「でも、ちーちゃんのおかげっす。今日はそれを伝えたくて」
突然ユキがテーブルから半ば身を乗り出すようにして、千歳に顔を近づけて言った。それが唐突だったもので、驚いた拍子に彼女の声が思わず裏返ってしまう。
「なっ、どうしたんですか急に」
テーブルを挟んだ距離感しか知らなかったせいか、目の高さを等しくして話せることがこれほど特別に感じられるとは。
「ほんとはすぐに辞めるつもりだったんすけど。ちーちゃんが指名してくれるようになってから、お客さんと話すのが楽しくなってきて」
すると今度は頭の中が真っ白になってしまった。喜びに打ち震える暇すらない。
「まあ、それで、ちょっとだけ続けてみようかなって」
「そう、だったんですか」
彼女の中で特別な存在になれたのかと思うと、その場で拳を振り上げたくなるような嬉しさがこみ上げてくる。自重したが。
「うん、でも、なんか、お金いっぱいもらうのも、なんかむずむずするっていうか」
確かに彼女への「投資」は傍目には「馬鹿らしい」と言われてしまう金額なのだろうが。ロールプレイが比較的甘いユキのようなキャストが刺さる層はニッチだろうから、なかなか固定客にも恵まれなかったかもしれない。つまり、自分の存在を印象付ける場は整っていたことになる。
「そ、そんなの気にしないでください」
そうは言ってみたものの、やはりユキとの間には金銭感覚にずれがあるようだ。社会人の自分と違って相手は高校生なのだから当然のことではあるが、だからといって簡単には納得してくれそうにない。
「うー、やっぱ気になるっす」
自ら上客を手放すことも厭わないというのか―――すれていないというか、この手の業種では苦労しそうな性格だ。
「でも、お友達になっちゃえばその辺も一石二鳥かなって」
ユキの思いがけない提案に千歳は唖然となった。しかしすぐに気を取り直すと、
「抜け駆けみたいで、悪い気がします」
謙虚に構えることにした。急いては事を仕損じる。本来なら手放しで歓迎したいところだが。
「よくわかんないっすけど、ダメってことっすか」
「違います嘘ですごめんなさいユキさん大好きです」
彼女に下手な小細工や駆け引きは無意味だった。それは痛いほど思い知っていたはずだ。ストレートな表現を選ぼうとして軽率に好意を伝えてしまったが、このまま何も伝わらないよりはましだろう。そのはずが、
「あー・・・・・・」
まさかの裏目に出た。
ユキがフレーメン反応を起こした猫みたいな顔になったかと思うと、困ったように目を泳がせたのだ。これはどう見ても先の発言を冗談と受け止めたリアクションではない。ついさっき同性愛者であることを告げてしまったばかりなのだ。大袈裟な意味に捉えられてしまっては言い逃れができない。どうにか弁解しなければ。
「ちーちゃん?」
しかし、何故か言葉が出てこなかった。
今言うべきは、「好き」と言ったのは「友人として」だとか「言葉のあや」だとか、とにかくそんな言い訳だ。
そして同時に、嘘をつくことになる。
果たして、それは許されることなのか。ユキの誠実さを目の当たりにしながら、彼女の優しさに付け入ることしかできない自分自身に千歳はとことん幻滅した。
*
顔を真っ赤にしたまま、半開きになった口はいかにも何か言いたげに見えるのだが、結局千歳は何も言わなかった。
千歳に「大好き」と言われてつい尻込みしてしまったが、この程度の冗談をいちいち真に受けているようでは話が思うように進まない。そもそも彼女の恋愛相談に乗るのが目的だったのだ。
「あ、そうだ。自分の連絡先教えとくっす。何かあったら教えてほしいっす」
「あ、はい、是非」
お互いのプライベートな連絡先を交換しながら、深雪は千歳の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「自分、どうしてもちーちゃんの力になりたくて。恩返しっていうか」
千歳は俯いたまま、何も答えない。
「普通に友達にもなりたいし・・・・・・ちーちゃんはどうっすか」
「あ、や、もちろん、私も」
「まあ、きつかったら別にいいっすけど」
「そんなこと、私は、」
千歳が言い淀んだ。いくらなんでも強引過ぎただろうか。良い提案だと思ったのだが、向こうはかなり戸惑っている様子だ。なんだか自信がなくなってきた。
「うー、やっぱこの仕事向いてないかもしんないっす」
ベテランの先輩だったら、気の利いた一言で千歳を元気づけられたかもしれない。口では「力になりたい」と言っておきながら、まるで無力な自分に深雪はもどかしさを覚える。
「じゃあ、どうしてこの仕事を」
「んー、まあ、どうせなら変わったことしたいなって。メイド喫茶とどっちにしようか迷ってたんすけど」
それでクラスメイトの秋山優雨にどっちの方が好きかと聞いたら「メイド喫茶」と即答されたので、男装喫茶をバイト先に選んだのだった。
*
「メイド喫茶の方を選ばれていたら、会えてなかったかもしれませんね」
千歳が春先に気晴らしのつもりで街を歩いていたときのことだった。たまたま通りかかったところを、ちらと覗いた店内で働くユキの姿を見初めたのは。
「ユキさんなら、どちらを選ばれても私は好きになれたと思いますけど」
彼女がお店にいる日はできる限り会いに行った。コンセプト喫茶に特有のサービスを目的に多少の出費も厭わなかった。
「それに、本当に感謝したいのは私の方で」
単なる片思いだと思っていたが、ここまで気にかけてくれていたとは。
「ユキさんと話すの、本当に楽しくて。変なこと聞いちゃいましたけど、ちゃんと受け止めてくださいましたし」
先刻とは打って変わって、千歳の口からはまるで堰を切ったかのように次々と言葉が溢れてくる。
「今もこうして付き合ってくれて。勝手に貢いでただけなのに、こんなに優しくしてくれるなんて。私なんかには勿体ないです、本当に」
感情のままに喋っていると、今動いているのが本当に自分の口なのかどうか、ふと疑問に感じた。喋っている自分と、口を閉ざしたままの無感動な自分とが、分離した状態でそれぞれを意識しているような。
「やましい気持ちで近づいておいて、今更良い顔しようなんて思ってる。気持ち悪いって思われても仕方ないのに」
千歳のとめどなく溢れる想いには、歯止めをかけるものがなかった。
「こんなの絶対迷惑だって、わかってるのに」
注文したきりろくに口も付けていなかったカフェオレの氷が解け始めると、分離した二層の液体がこれからの二人の行く末を暗示しているような気がした。
「好きなんです、それでも・・・・・・」
もう引き返せない。自分がここまで暴走する性質だったとは思いもよらなかった。こちらの勢いに飲まれてか、ユキも黙って話を聞いている。
もう黙っていることなんてできなかった。
「ユキさんのことが」
「ユキさんは女の子を好きになったことってありますか?」
いつものように常連客とお喋りをしていたつもりだったのだが、いつの間にやら空気が変わっていたらしい。目の前の女性客は俯きがちにそわそわしていて、とても緊張しているように見える。
「んー、自分はまだないっすね」
それでも、ついつい生真面目な答え方をしてしまった。
ベテランのキャストならここで口説き文句の一つでも添えるのだろうが、新人である深雪はそっち方面への発想力には未だに乏しかった。生来考えるより先に口が動いてしまう気質なばかりに、本音ばかりが先行してしまい、建前を用意するのが苦手なのだ。
「ちーちゃんはあるんすか?」
これまた思ったことをすぐさま口にしてしまう。入店当初はこの癖に気を揉んだものだが、今ではすっかり開き直って普段通りに振舞っている。
「それは、その、」
目の前の女性が口ごもるのを見て、深雪はこれがデリケートな質問であることをようやく悟った。彼女―――深雪が「ちーちゃん」と呼び慕う女性の名前は、百鬼千歳という。深雪が勤めるコンセプト喫茶の常連客だ。
ここでは女性キャストがウェイター姿に男装して働いており、彼女たちの見目麗しさに惹かれる女性客も少なくないという。千歳もその一人で、どうやら深雪を目当てにここへ通っているらしかった。
「実は、あったりして」
先の言葉に、彼女が顔を真っ赤にして答えた。きゃ、と声を上げたくなるのを我慢して、深雪が続きを促す。
「お友達っすか?」
「いえ、まだそんな間柄ではなくて」
千歳が首元のリボンタイを直すような仕草をしながら言葉を作った。
「昔から、男性が少し苦手で」
彼女はゴシックロリィタファッションを愛好していた。真っ白に塗った肌に赤い唇が妖艶に映え、垂れ目がちな瞳を一際大きく見せる縁取りや、墨を垂らしたような艶々とした黒髪とも相まって、まるでフィクションに登場する吸血鬼のように魔性めいた魅力に満ちている。
化粧越しにもわかる素材の愛らしさと高いメイク技術の相乗効果。それは彼女の姿をすっかり見慣れたはずの今でも、時折うっとりとしてしまうほどだ。小柄ながらも女性らしい起伏に富んだ体形を真っ黒なドレスですっぽりと覆い、それでいて真夏にも関わらず汗一つかかずいつも涼し気な顔をしている。「お洒落は我慢」とはよく言ったものだが、全くもって辛そうに見えない彼女に限っては、本当に魔法か何か使っているのではと不思議に思えてしまう。
「ははあ、それで女の子とばっかりつるんでたら、って感じっすか」
彼女ほどの美貌の持ち主なら、今まで世の男どもからうんざりするほどの視線を浴びてきたことだろう。それを理由に男を嫌うと言うなら容易に納得できる。
「うーん、ちょっと違うような」
千歳が慎重に言葉を選ぶように答えた。
しっかりとした口調で話す上に、言葉の端々から感じる思慮深い面も、深雪が彼女を好ましく思う点の一つで、自分にはないものだからこその憧れも抱いていた。
「一目惚れに近いでしょうか。なんかいいなって思って」
「うわあ、いいっすねそれ」
壊滅的に語彙力がない故の深雪のオウム返しだったが、話すうちに自然と笑みがこぼれる彼女の様子につられて、千歳の表情も次第ににこやかなものになる。
「話すうちに、好きになって」
消え入りそうな声でそう言うと、千歳は照れたように再び俯いてしまう。
彼女が自身のプライベートな胸の内を明かしてくれたことにすっかり気をよくしていた深雪は、興味津々な様子で千歳の次の言葉を待った。
「それで、今はどうなったんすか」
「まだ片思いです」
ちらとこちらを窺うような視線を送る千歳の目に、わずかな熱がこもっていたことに深雪は気がつかなかった。
「どうしていいのかわからなくて」
「なるほど」
そうは言いつつ、深雪にもその難題に対する答えはちっとも思い浮かばなかった。
「ユキさんは、その、女の子同士が付き合うのって、どう思いますか」
そして、聞こえてきた千歳の言葉に深雪はぽかんと口を開けたまま思考を停止してしまった。同性間での恋愛など、彼女に言われるまで考えたこともなかったのだ。
「えーと、んん?」
こうも直接的に言われてしまうと、言葉がリアルな質感を伴ってくる。同性愛をフィクションの世界でしか認識してこなかった深雪は、千歳の目に映る世界と自分のそれとの齟齬に直面し、ただただ困惑するばかりだった。
「やっぱり、変、ですよね」
珍しく言葉に詰まった深雪の様子を見て、千歳が気落ちしたように言った。
「ちーちゃんっ、自分は、その」
千歳がしょげたところを初めて目にした深雪は激しく動揺した。いつも楽しそうにしている彼女に安心感を覚えていたはずの自分が、よりにもよって悲しませてしまうことになるとは。
「正直、その、気持ちはよくわかんないっすけど、それがちーちゃんの望むことなら、自分は応援するっす」
もし彼女を失望させてしまったのならと、少しでも挽回しようと深雪が熱弁した。その言葉に気迫がこもる余り、たまたま近くにいた同僚のキャストが彼女の様子に思わず目を瞠った。
「そう、ですよね」
思わず面食らった千歳だったが、深雪の真摯さに心を打たれたようだ。
「ありがとう、ユキさん」
彼女の顔に笑みが戻るのを見て、ほっとした深雪は胸を撫で下ろした。
「どういたしましてっす」
*
脈なしだ。千歳は悟った。
千歳は異性に恋をしたことがなかった。だから、どうしてもこの感情が本物の恋心なのかどうかを確かめておきたかったのだ。そのためにはユキと懇意になって、彼女と親密な時間を過ごす必要があると考えていた。
ユキが同性と恋愛できるタイプだとは思っていなかったが、いざその事実に直面してしまうと想像以上に気が滅入ってしまった。それならそうと、わかっていながらなぜあんな聞き方をしてしまったのだろう。いくらなんでも焦り過ぎだ。考えもなしに同性愛者であることをカミングアウトしたばかりか、相手には明らかにドン引きされてしまった。この上ない失策である。
しかし、光明はあった。失意のまま、千歳がそろそろ店を出ようかと考えていたとき、
「ちーちゃん、この後時間あります?」
どことなく不安げな様子で、ユキがこっそりと千歳に耳打ちした。
「今日はもうすぐ上がりなんで。良かったら後で少しお話しましょ」
急な出来事に声を出すこともままならなかった千歳は、ユキに向かってこくこくと頷いてみせる。それを見た彼女がぱっと表情を明るくした。
「後でDM送るっす」
ユキが小声でそう言い足すのを聞くと、ようやく状況が飲み込めてきた千歳は、自分の鼓動が緊張で早くなるのを感じた。
恐らくは同情心からだろうが、まさに首の皮一枚で繋がった状態だ。この「お誘い」が千載一遇にして正真正銘な最後のチャンスかもしれない。ユキの人柄に付け込むようで良心は痛むが、なんとしてもこの機会はものにしたかった。
*
何食わぬ顔で喫茶店を出ると、そわそわしながら街中を歩き回って過ごし、ユキからのメッセージを待った。
彼女のツイッターアカウントはもちろんフォローしている。ひいきの客とコミュニケーションを取ったり、お店の広報をするためにキャストがそれぞれ開設したものに過ぎないが、今となってはこれだけが頼みの綱だった。
何度も何度も、折を見てはメッセージが届いていないか確認した。その度に不安を募らせながら待っていたのだが、
「きたっ」
本当に来たところで、思わず声が出てしまった。
メッセージの通り、ユキが待ち合わせの場所に指定したファストフード店に急いで向かう。誰かのために、こんなにも必死になったことは今まで一度もなかった。この胸の高鳴りが、恋でなくてなんなのだろう。足取りを緩めて通行人の脇をすり抜けると、再び駆け出す。一刻も早くユキに会いたかった。
目的地が視界に入ると走るのをやめ、ハンカチで汗を抑えた。念のために鏡でメイクが崩れていないか確かめようかとも思ったが、どの道直している時間はない。腹を括るとそのまま店内に踏み込んだ。
ファストフード店の中を見回すと、ラフな格好をした女性がこちらに向かって手を振るのが見えた。どうやら彼女がユキであるらしい。
「す、すみません。お待たせして」
「へーきへーき。全然待ってないっすよ」
荒くなりかけていた息を整えると、ユキの向かいの席に腰掛ける。
「なんか頼みましょっか。よければ自分がおごるっす」
「い、いえ。お構いなく」
正直、憧れのユキを目の前にしているだけで胸がいっぱいだ。このままでは緊張で何も喉を通りそうになかった。が、自分だけ何も頼まないというのも居心地が悪い。
「わかったっす」
そう言ってポテトをつまむ彼女は、やはりというべきかウェイター姿の凛々しい「ユキ」とは雰囲気が一変していた。男装用のメイクを落とし、お店ではアップにまとめていた髪をおろしているところなどは実に年相応の少女らしい未成熟な色香があった。ファッションも至ってシンプルなところが彼女の飾らない性格を表しているように見える。
エジプトの壁画っぽい画風の謎のキャラクターがプリントされたシャツとデニム地のパンツは、それぞれが体の輪郭を浮き彫りにするサイズ感だ。バイト中はサポーターでバストを小さく見せていたのか、女性らしい丸みを帯びた起伏が露わになっている今の姿はなんとなく目のやり場に困ってしまう。
「な、注文してきますね、ちょっと」
いかん。興奮してきた。
冷静さを取り戻すためにも、ここは少しばかり距離を(物理的にも)取ることにしよう。
「行ってらっしゃい」
そう言って微笑むユキに見送られると、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に陥った。思わず「い、行ってきます」と返事をしながら、未だに慣れない恋の苦しみに戸惑うばかりだ。
凄まじいギャップだった。見た目が少し変わったくらいで、こんなにも印象が変わるものなのか。距離感だって、本当の友達みたいだ。ただ一つ変わらないところがあるとすれば、彼女の独特な丁寧口調だろうか。初めは後輩キャラでも演じているのかと思ったが、どうやら普段からこんな感じらしい。
「お待たせしました」
注文の品を受け取る頃には気分も落ち着いてきたが、いざ再びユキと対面するとなると少しばかり気合が必要だった。
「へへ、待ってたっす」
あっ、可愛い。
彼女の屈託のない笑顔で迎え入れられると、本当にこれが無料のコンテンツなのかつい疑ってしまう。
「ちーちゃんとはこうやって普通にお喋りしてみたくて。同伴ってやつ?」
それを言うならアフターではないだろうか。何はともあれ、ユキが屈託のない笑顔を見せる度、その眩しさにまるで心が洗われたような気分になった。しかし、
「ありがとうございます・・・・・・でもそれって、私だけ、ですか」
自身のネガティブな部分が、まるで相手を問い質すような口ぶりを生んでしまった。自分でそう言っておきながら、千歳は胸の内がちくりと痛むのを覚える。
「そうっすね。ちーちゃんより仲良いお客さんいないっすから」
だが、ユキは即答した。そのあまりにもあけすけな言い方はプロ意識に欠けているようにも聞こえるが、そこは彼女の実直さと捉えるべきなのだろう。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしましてっす」
その一言にすっかり毒気を抜かれてしまった千歳は、内心で自分の卑屈さに辟易しながらも次の言葉を探した。
「ユキさん、本当にお店辞めちゃうんですか?」
どうしても聞いておきたかったこと。以前に彼女自身から聞いた話だ。
「んー、そうっすね。とりあえず夏休みいっぱいって感じで」
「そう、なんですか」
つまり、残り一か月もない。突然目の前が真っ暗になった気がした。しかし、
「でも、ちーちゃんのおかげっす。今日はそれを伝えたくて」
突然ユキがテーブルから半ば身を乗り出すようにして、千歳に顔を近づけて言った。それが唐突だったもので、驚いた拍子に彼女の声が思わず裏返ってしまう。
「なっ、どうしたんですか急に」
テーブルを挟んだ距離感しか知らなかったせいか、目の高さを等しくして話せることがこれほど特別に感じられるとは。
「ほんとはすぐに辞めるつもりだったんすけど。ちーちゃんが指名してくれるようになってから、お客さんと話すのが楽しくなってきて」
すると今度は頭の中が真っ白になってしまった。喜びに打ち震える暇すらない。
「まあ、それで、ちょっとだけ続けてみようかなって」
「そう、だったんですか」
彼女の中で特別な存在になれたのかと思うと、その場で拳を振り上げたくなるような嬉しさがこみ上げてくる。自重したが。
「うん、でも、なんか、お金いっぱいもらうのも、なんかむずむずするっていうか」
確かに彼女への「投資」は傍目には「馬鹿らしい」と言われてしまう金額なのだろうが。ロールプレイが比較的甘いユキのようなキャストが刺さる層はニッチだろうから、なかなか固定客にも恵まれなかったかもしれない。つまり、自分の存在を印象付ける場は整っていたことになる。
「そ、そんなの気にしないでください」
そうは言ってみたものの、やはりユキとの間には金銭感覚にずれがあるようだ。社会人の自分と違って相手は高校生なのだから当然のことではあるが、だからといって簡単には納得してくれそうにない。
「うー、やっぱ気になるっす」
自ら上客を手放すことも厭わないというのか―――すれていないというか、この手の業種では苦労しそうな性格だ。
「でも、お友達になっちゃえばその辺も一石二鳥かなって」
ユキの思いがけない提案に千歳は唖然となった。しかしすぐに気を取り直すと、
「抜け駆けみたいで、悪い気がします」
謙虚に構えることにした。急いては事を仕損じる。本来なら手放しで歓迎したいところだが。
「よくわかんないっすけど、ダメってことっすか」
「違います嘘ですごめんなさいユキさん大好きです」
彼女に下手な小細工や駆け引きは無意味だった。それは痛いほど思い知っていたはずだ。ストレートな表現を選ぼうとして軽率に好意を伝えてしまったが、このまま何も伝わらないよりはましだろう。そのはずが、
「あー・・・・・・」
まさかの裏目に出た。
ユキがフレーメン反応を起こした猫みたいな顔になったかと思うと、困ったように目を泳がせたのだ。これはどう見ても先の発言を冗談と受け止めたリアクションではない。ついさっき同性愛者であることを告げてしまったばかりなのだ。大袈裟な意味に捉えられてしまっては言い逃れができない。どうにか弁解しなければ。
「ちーちゃん?」
しかし、何故か言葉が出てこなかった。
今言うべきは、「好き」と言ったのは「友人として」だとか「言葉のあや」だとか、とにかくそんな言い訳だ。
そして同時に、嘘をつくことになる。
果たして、それは許されることなのか。ユキの誠実さを目の当たりにしながら、彼女の優しさに付け入ることしかできない自分自身に千歳はとことん幻滅した。
*
顔を真っ赤にしたまま、半開きになった口はいかにも何か言いたげに見えるのだが、結局千歳は何も言わなかった。
千歳に「大好き」と言われてつい尻込みしてしまったが、この程度の冗談をいちいち真に受けているようでは話が思うように進まない。そもそも彼女の恋愛相談に乗るのが目的だったのだ。
「あ、そうだ。自分の連絡先教えとくっす。何かあったら教えてほしいっす」
「あ、はい、是非」
お互いのプライベートな連絡先を交換しながら、深雪は千歳の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「自分、どうしてもちーちゃんの力になりたくて。恩返しっていうか」
千歳は俯いたまま、何も答えない。
「普通に友達にもなりたいし・・・・・・ちーちゃんはどうっすか」
「あ、や、もちろん、私も」
「まあ、きつかったら別にいいっすけど」
「そんなこと、私は、」
千歳が言い淀んだ。いくらなんでも強引過ぎただろうか。良い提案だと思ったのだが、向こうはかなり戸惑っている様子だ。なんだか自信がなくなってきた。
「うー、やっぱこの仕事向いてないかもしんないっす」
ベテランの先輩だったら、気の利いた一言で千歳を元気づけられたかもしれない。口では「力になりたい」と言っておきながら、まるで無力な自分に深雪はもどかしさを覚える。
「じゃあ、どうしてこの仕事を」
「んー、まあ、どうせなら変わったことしたいなって。メイド喫茶とどっちにしようか迷ってたんすけど」
それでクラスメイトの秋山優雨にどっちの方が好きかと聞いたら「メイド喫茶」と即答されたので、男装喫茶をバイト先に選んだのだった。
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「メイド喫茶の方を選ばれていたら、会えてなかったかもしれませんね」
千歳が春先に気晴らしのつもりで街を歩いていたときのことだった。たまたま通りかかったところを、ちらと覗いた店内で働くユキの姿を見初めたのは。
「ユキさんなら、どちらを選ばれても私は好きになれたと思いますけど」
彼女がお店にいる日はできる限り会いに行った。コンセプト喫茶に特有のサービスを目的に多少の出費も厭わなかった。
「それに、本当に感謝したいのは私の方で」
単なる片思いだと思っていたが、ここまで気にかけてくれていたとは。
「ユキさんと話すの、本当に楽しくて。変なこと聞いちゃいましたけど、ちゃんと受け止めてくださいましたし」
先刻とは打って変わって、千歳の口からはまるで堰を切ったかのように次々と言葉が溢れてくる。
「今もこうして付き合ってくれて。勝手に貢いでただけなのに、こんなに優しくしてくれるなんて。私なんかには勿体ないです、本当に」
感情のままに喋っていると、今動いているのが本当に自分の口なのかどうか、ふと疑問に感じた。喋っている自分と、口を閉ざしたままの無感動な自分とが、分離した状態でそれぞれを意識しているような。
「やましい気持ちで近づいておいて、今更良い顔しようなんて思ってる。気持ち悪いって思われても仕方ないのに」
千歳のとめどなく溢れる想いには、歯止めをかけるものがなかった。
「こんなの絶対迷惑だって、わかってるのに」
注文したきりろくに口も付けていなかったカフェオレの氷が解け始めると、分離した二層の液体がこれからの二人の行く末を暗示しているような気がした。
「好きなんです、それでも・・・・・・」
もう引き返せない。自分がここまで暴走する性質だったとは思いもよらなかった。こちらの勢いに飲まれてか、ユキも黙って話を聞いている。
もう黙っていることなんてできなかった。
「ユキさんのことが」
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