女将軍 井伊直虎

克全

第57話永禄の変

『二条御所』

足利幕府・義輝将軍は三好の謀叛に備え、数年前から二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していた。

三好義継は1565年5月1日、義輝から「義」の字を賜って義重と改名、義輝の奏請により左京大夫に任官された。

5月18日、三人衆や松永久通(久秀の息子)を伴い、1万軍勢を率いて京都へ上洛した。

危険を察知した義輝は、難を避け京を離れ近江の観音寺城に逃れる為、いったん二条御所を脱出している。しかし奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると頑強に逃げることに反対した。しかも義輝とともに討死する覚悟を示してまで説得を行ったため、義輝も不本意ながら渋々御所に戻ってしまった。

三好は二条御所の門扉の改修が済む前に包囲するべく、5月19日に清水寺参詣を名目に1万の軍勢を結集して二条御所に攻め寄せた。そして義輝将軍に訴訟(要求)ありと偽って取次を求めた為、奉公衆の進士晴舎(しんじはるいえ)が訴状の取次ぎに往復するしたが、その間に三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。

三好の侵入を許したとはいえ義輝将軍側の応戦は激しく、一色淡路守以下十数名が三好方数十人を討ち取った。その間に殿中では、進士晴舎が敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹し、義輝は近臣たち1人1人と最後の盃を交わし終え、主従三十名ほどで討って出た。治部藤通の弟福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取り、剣豪塚原卜伝に兵法を学んだ義輝将軍自身も薙刀を振るって奮戦した。

しかし多勢に無勢、奉公衆の大半が討ち死にし、昼頃には義輝将軍も討ち取られてしまった。

三好軍は義輝将軍の生母・慶寿院(近衛尚通の娘・12代将軍足利義晴の正室)・義輝正室(近衛稙家の娘)・懐妊していた義輝将軍の側妾・小侍従(進士晴舎の娘)に自害を強いた。


『近江・観音寺城』

「義直様、京の公方様が殺されました。」

「なに! 三好でございますか?」

「左様でございます。」

「直ぐに軍を集めて報復せねばなりません、いや、鹿苑院の周暠様と一乗院の覚慶様をお助けせねばなりません。」

「御待ち下さいませ義直様、いま義直様が軍を京に入れられれば、京の都が焼け野原になってしまいます。最悪の場合には御上を戦に巻き込んでしまいます。」

「う! ならば大和に進みましょう。」

「大和の事は棄てておきましょう。」

「何を申されるのですか!」

「義直様、我らは京での権力争いなどに係わる必要はないのです、大切なのは朝廷の社稷を守る事なのです。」

「母上は何をせよと申されるのですか?」

「丹波宇津荘の宇津頼重は、皇室御領である山国荘を長年に渡り押領しております。三好が畿内の統一にかかっている間に、義直様は丹波を攻め取りましょう。」

「しかし丹波に兵を進めれば、三好が近江に攻め込んできませんか?」

「近江の守りは御隠居様に御願い致します、何の心配もありません。」

「しかし本当に周暠様と覚慶様をお助けしなくてよいのでしょうか?」

「もし周暠様と覚慶様が公方になられる器なら、義直様が軍を進めなくとも助かります。義直様が軍を進めなければ逃げる事も戦う事も出来ない者に、天下を任せる訳にはいきません。」

「それは余りに無慈悲ではないでしょうか。」

「もし義直様が周暠様か覚慶様をお助けになられ、14代将軍に就けようとなされた場合、三好は阿波の足利義冬様を擁して対抗してきます。その時は応仁の乱の再現となり、京の民は塗炭の苦しみを味わうことになるのですよ。」

「それは・・・・・」

「義直様は朝廷の為、天下万民の為に戦われませ。」

「分かりました、義直は丹波に行きましょう。」

義直は3万の直属兵を率いて即座に丹波に向かった。同時に若狭・近江・美濃・北伊勢・尾張・三河・遠江の国衆・地侍に動員をかけ、丹波遠征軍の後詰と対三好軍を編成した。

義直が丹波を攻め込んでいる間に、三好は義輝の弟で鹿苑院院主・周暠殺した。そしてもう1人の弟・大和興福寺一乗院の門跡・覚慶を殺そうとしたが、それは興福寺の僧兵により阻まれてしまった。

しかし三好はこれを好機と考え、実質的な大和守護の興福寺を攻め滅ぼし、大和支配を確立しようとしたのだ。

宇津頼重(うつよりしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。丹波国桑田郡宇津荘の宇津城主だが、宇津家は室町時代初期の婆娑羅大名である土岐頼遠の末裔を称し、両細川の乱では細川高国に属して、細川晴元や三好長慶らと戦う一方、皇室御領である山国荘を押領していた。

1535年、宇津家の当主であった頼重は、朝廷から再々の勅命や、三好長慶や松永久秀による命令にも従わず押領を続け、皇室の経済的困窮の主因となった。更に永年の盟友である波多野氏との軍事同盟により、内藤国貞や松永長頼とも合戦を繰り広げた。

史実で1569年4月には、足利義昭を奉じた織田信長からも山国荘の返還を命じられたが無視した。1573年2月、足利義昭が織田信長との戦いの為、丹波・丹後国・摂津国の国衆を招集するとこれに応じ御供衆に加えられている。その後も頼重は織田信長と敵対しており、1577年には、織田家重臣・明智光秀や滝川一益と戦い負傷している。しかし1579年7月19日、明智光秀の軍勢により宇津城を攻略され城を捨てて逃亡した。朝廷による山国荘の直務支配が回復すると、朝廷から明智光秀に恩賞が下され、織田信長にも御礼の勅使が遣わされた。

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