女将軍 井伊直虎
第44話美濃侵食
『清州城』
「直虎、どこまでやらせる心算だ?」
「美濃の切り取りは御隠居様も認めておられたではありませんか?」
「まさか義龍が死ぬなどと思っていなかった、もっと時間が掛かると思っていた。」
「人の運命など予測がつかないものでございます、常に不測の事態に備えておかねば何も成す事は出来ません。」
「それ故に銭で足軽を集めて、兵馬を整えていたと言うのか?」
「国衆・地侍に頼っていては、危急の際に将兵を集めるのに困ります。特に農兵に頼っていては、農繁期に合戦が出来なくなります。」
「それだけではあるまい、白拍子と歩き巫女達を使って義龍の病を知っていたのだろう。それに氏真の息にかかった者を、義直の近くから排除する為の措置でもあろう。」
「分かっておられなら、そのまま知らぬ振りをしていて下さい。そうしていただければ、美濃も今川家のものになります。」
「刺客にはくれぐれも気をつけろよ。」
「御隠居様こそお気をつけください。」
『墨俣城』
「出陣!」
義直は、一色義興の反撃に備えて5000兵を井伊直親に預け墨俣城に残し、自分は直卒の1万兵と降伏して来た美濃衆を加えて揖斐川を遡って侵攻して行った。
侵攻途上にあった十七条城の林玄蕃・林正三兄弟は、勝ち目のない事を悟り降伏臣従してきた。
本田城と小柿城は守り切れないと判断したのか、もぬけの殻になっていた。そこで義直は、根尾川沿いを遡り更に侵攻を続けた。
北方城の安藤守就は、勝てないと判断して降伏臣従にやって来たが、安藤守就が味方になった事で多くの美濃衆が雪崩を打って降伏臣従してきた。
揖斐川から根尾川沿い左岸域・長良川の右岸域を制圧する事で、稲葉山城の一色義興を孤立させる事が出来た。
『墨俣城』
「母上様、どうすればいいでしょうか?」
「義直様はどうすればいいと思っているのですか?」
「稲葉山城は孤立しています。木曽川と長良川の間に義興を封鎖しておけば、義興は年貢を得る事が出来なくなり、将兵を維持する事が出来なくなるのではありませんか?」
「そうですね、それも大切なことですね。」
「それだけでは駄目と言う事ですね。」
「そう言う訳ではありませんよ、義直様は家臣達の意見を聞いて、1番よい策を取り上げられるのが大切なのですよ。」
「もっと調略を進めるべきなのですね。」
「それもよい策ですね。」
「義興を直接攻めるべきなのですね。」
「そうは言ってませんよ、家臣達の意見をよく聞いて、取り入れる事の出来る1番よい策を採り入れられた方がいいと言っているのですよ。」
「そう言えば、尾張に侵攻された時の母上は、敵が廃城にした城に入って侵攻を続けられましたね?」
「私がやったことではありませんよ、義直様が家臣達の色々の策の中から常に1番よい策を採り入れられて、その結果として尾張を制圧し美濃に侵攻されておられるのですよ。たまたまその1つが、私が提案した廃城を修築する事だったのです。」
「分かりました、稲葉山城周辺で拠点にできる廃城が無いか調べさせます。」
「そう為されて下さい。」
もちろん既に川手城・加納城・船田城の廃城群は調査済みだった。この3つの城は川手城を主城として、支城の加納城・船田城が連携して守る仕組みであった。
加納城は川手城の備えのため、土岐氏の家宰の斎藤利永によって沓井城として築城された。船田合戦では斎藤妙純の居城となっていたが、天文7年(1538年)にはすでに廃城となっていた。
川手城は、美濃源氏の一族の土岐家の第3代守護職・土岐頼康によって1353年築かれた。旧木曽川と荒田川に挟まれた自然の要塞といってよい地に築かれ、広大な敷地に神社・仏閣等を設置し、本殿は御殿風の建物があり、当時は戦う城ではなく住居としての城であった。
しかし1494年に、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により城は焼失する。後に再建されるが、1530年に土岐家を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移したことにより廃城となっていた。
船田城も船田合戦で焼失していた。
義直は今度も墨俣城に井伊直親に5000兵を預けて背後を固め、新たに加わった美濃勢を合せて1万5000兵を率いて川手城・加納城・船田城の城跡に入り急ぎ修築作業に入った。
「直虎、どこまでやらせる心算だ?」
「美濃の切り取りは御隠居様も認めておられたではありませんか?」
「まさか義龍が死ぬなどと思っていなかった、もっと時間が掛かると思っていた。」
「人の運命など予測がつかないものでございます、常に不測の事態に備えておかねば何も成す事は出来ません。」
「それ故に銭で足軽を集めて、兵馬を整えていたと言うのか?」
「国衆・地侍に頼っていては、危急の際に将兵を集めるのに困ります。特に農兵に頼っていては、農繁期に合戦が出来なくなります。」
「それだけではあるまい、白拍子と歩き巫女達を使って義龍の病を知っていたのだろう。それに氏真の息にかかった者を、義直の近くから排除する為の措置でもあろう。」
「分かっておられなら、そのまま知らぬ振りをしていて下さい。そうしていただければ、美濃も今川家のものになります。」
「刺客にはくれぐれも気をつけろよ。」
「御隠居様こそお気をつけください。」
『墨俣城』
「出陣!」
義直は、一色義興の反撃に備えて5000兵を井伊直親に預け墨俣城に残し、自分は直卒の1万兵と降伏して来た美濃衆を加えて揖斐川を遡って侵攻して行った。
侵攻途上にあった十七条城の林玄蕃・林正三兄弟は、勝ち目のない事を悟り降伏臣従してきた。
本田城と小柿城は守り切れないと判断したのか、もぬけの殻になっていた。そこで義直は、根尾川沿いを遡り更に侵攻を続けた。
北方城の安藤守就は、勝てないと判断して降伏臣従にやって来たが、安藤守就が味方になった事で多くの美濃衆が雪崩を打って降伏臣従してきた。
揖斐川から根尾川沿い左岸域・長良川の右岸域を制圧する事で、稲葉山城の一色義興を孤立させる事が出来た。
『墨俣城』
「母上様、どうすればいいでしょうか?」
「義直様はどうすればいいと思っているのですか?」
「稲葉山城は孤立しています。木曽川と長良川の間に義興を封鎖しておけば、義興は年貢を得る事が出来なくなり、将兵を維持する事が出来なくなるのではありませんか?」
「そうですね、それも大切なことですね。」
「それだけでは駄目と言う事ですね。」
「そう言う訳ではありませんよ、義直様は家臣達の意見を聞いて、1番よい策を取り上げられるのが大切なのですよ。」
「もっと調略を進めるべきなのですね。」
「それもよい策ですね。」
「義興を直接攻めるべきなのですね。」
「そうは言ってませんよ、家臣達の意見をよく聞いて、取り入れる事の出来る1番よい策を採り入れられた方がいいと言っているのですよ。」
「そう言えば、尾張に侵攻された時の母上は、敵が廃城にした城に入って侵攻を続けられましたね?」
「私がやったことではありませんよ、義直様が家臣達の色々の策の中から常に1番よい策を採り入れられて、その結果として尾張を制圧し美濃に侵攻されておられるのですよ。たまたまその1つが、私が提案した廃城を修築する事だったのです。」
「分かりました、稲葉山城周辺で拠点にできる廃城が無いか調べさせます。」
「そう為されて下さい。」
もちろん既に川手城・加納城・船田城の廃城群は調査済みだった。この3つの城は川手城を主城として、支城の加納城・船田城が連携して守る仕組みであった。
加納城は川手城の備えのため、土岐氏の家宰の斎藤利永によって沓井城として築城された。船田合戦では斎藤妙純の居城となっていたが、天文7年(1538年)にはすでに廃城となっていた。
川手城は、美濃源氏の一族の土岐家の第3代守護職・土岐頼康によって1353年築かれた。旧木曽川と荒田川に挟まれた自然の要塞といってよい地に築かれ、広大な敷地に神社・仏閣等を設置し、本殿は御殿風の建物があり、当時は戦う城ではなく住居としての城であった。
しかし1494年に、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により城は焼失する。後に再建されるが、1530年に土岐家を追放した斎藤道三が稲葉山城に拠点を移したことにより廃城となっていた。
船田城も船田合戦で焼失していた。
義直は今度も墨俣城に井伊直親に5000兵を預けて背後を固め、新たに加わった美濃勢を合せて1万5000兵を率いて川手城・加納城・船田城の城跡に入り急ぎ修築作業に入った。
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