女将軍 井伊直虎

克全

第36話春日郡調略

『那古屋城』

「母上様、明日はどういたしましょう?」

「義直様はどうするのがよいと思われますか?」

「正直迷います、このまま清州城に向かって早々に織田を攻め滅ぼすべきか、春日方面に出て国衆・地侍を着実に調略すべきか。」

「義直様の立ち位置はどこでございますか?」

「今川家の4男で次期井伊家当主、尾張侵攻軍先鋒総大将です。しかしながら御屋形様からは疎まれ、何時切腹を賜るか分からない状態です。」

「ならば何に1番気をつけるべきなのですか?」

「御屋形様からの暗殺と、切腹を賜るような失敗をしない事でしょうか?」

「それを考えれば何方に進むべきですか?」

「確実に勝てる春日方面ですね。」

「母もそれがいいと思います。」

「では明日の侵攻先を指図してきます。」

翌日義直は1万兵を率いて侵攻を開始した。


最初に包囲したのは小坂宗吉の守る上条城だった。

小坂宗吉は幼少期は吉田城で育ち、修験者であった覚然坊から棒術を習ったと言われている。身長は約180cmもある大男だったとも言われ、織田信長に家臣として仕えた。

弘治2年(1556年) 清洲城主の織田信光が家臣の坂井大膳により殺された際、織田信長の兵召集に応じた吉田城主の小坂久蔵が坂井の軍勢により討死した。小坂久蔵に世継ぎがいなかったので、信長は久蔵の遠縁である前野宗吉に跡を継がせ、上条城(この頃、林盛重が上条城の領地を信長に献上し帰農した)と吉田城城主を任ぜられた。

つまり前野宗吉が、母の生家である吉田城主である小坂氏の跡を継ぎ、小坂孫九郎尉宗吉と名乗ったのだ。史実ではその後、織田信雄の傅役を務め、信雄より「雄」の1字を諱として拝命し、小坂孫九郎尉雄吉と改名している。だから別名は前野宗吉(まえのむねよし)・前野雄吉で、通称は孫九郎、幼名は千代太郎だ。父親は小坂政吉とも前野宗康とも言われ、その場合は前野長康の兄と言う事になる

弘治2年(1556年)に起こった稲生の戦いの際には、比良城主の佐々氏らと共に奮戦し、織田信長からも高く評価されたといわれている

小坂宗吉の調略には、簗田政綱・水野雅楽頭・水野右京進清忠・織田忠寛・横地秀次の5人が派遣された。少々説得に時間はかかったものの、織田家の圧倒的不利を悟る一門家臣の説得も加わり、無血開城で降伏臣従することになった。

次は北野彦四郎の守る吉根城に降伏の使者が派遣される事になった。もちろん小坂宗吉を加えた6人が派遣され。吉根城は守山丘陵の麓にある独立丘陵に位置し、二百六十貫(約1300石)の領地を持つ北野彦四郎は直ぐに降伏臣従に応じた。

吉根城を囲んでいる頃、目端の聞く漢が挨拶にやって来た。足利義輝の家臣となる事で領地の維持を図った大留城の村瀬作左衛門だ、大留村のほかに九日市村・篠木村、さらには伊勢国にも所領を持ち、合わせると4万石を超える領地を維持しているから、この漢を取り込むことは大きかった。

「作左衛門殿、こちらにおられるのが今川義元様の4男で、尾張先鋒軍1万の総大将・義直殿じゃ。」

「御初に御目にかかります、村瀬作左衛門と申します、今後ともお見知りおきください。」

「私が今川義元の4男・義直です、公方様のため尾張を平穏にする為、これからは御助力いただきたい。」

「私のような者に丁寧な挨拶痛み入ります、これからは御昵懇にして頂ければ幸いです。」

「早速なのだが作左衛門殿、義直殿の軍に加わって頂けるのかな?」

「さて困りましたな、それがしは公方様の家臣、今川家と織田家の争いに加わる訳には参らぬのだ直平殿。」

「そうは申されてもこれは国を挙げての争いじゃ、尾張に住む作左衛門殿を背後において信長と合戦に及ぶ訳には参らん、背後を襲われてはたまらんからな。」

「そのような事はありえん、村瀬家は公方様の家臣、信長の指図になど従ういわれはない。」

「だが此方もそれを鵜呑みにする訳にはいかない、人質でも出して下さるなら信じる事も出来るのだが?」

「それは無礼でござろう、村瀬家は公方様の家臣だ、今川家に人質を出せと言われるいわれもない!」

「それはこまりましたな、今川家は「今川仮名目録」で幕府の守護不入を否認しておる。作左衛門殿が聞き訳の無い事を言われるようなら、武をもって家訓を守らなければならなくなる。」

「そこまで言われては御助力せぬわけにはいかないな、だが人質は出せん! 公方様の直臣として、それだけは飲むことはできん!」

「仕方ござらんな、だが兵を1000は出してもらう。作左衛門殿の身代なら可能であろう、当然旗印を出して旗幟を鮮明にし、村瀬家が今川に味方していると示して頂きますぞ!」

「そうせねば村瀬家を滅ぼし、城地を今川家の物にすると脅しておられるのか?!」

「左様、駿河から尾張まで兵を押し出した以上、それくらいの覚悟はござる。村瀬家の領地は4万石前後でござろう、今川家にとっても蔵入り地に出来るなら、それはそれでよいことなのだ。」

「私が味方してもよし、敵に回って攻め滅ぼす事が出来ればなおよし、中立だけは絶対に許さんと言う事ですな。」

「左様、どうなされますか?」

「御味方するしかないですな。」

村瀬作左衛門が味方になった事で状況が更に動いた。史実で秀吉の墨俣城築城に携わった2人の男が降伏臣従すると自らやってきたのだ。下大留城主・谷口友之進と堀を挟んで隣接する日比野六大夫館主・日比野六大夫だ。2人は助け合って戦国の世を生き抜いている。

志段味城の水野作右衛門は、主君で本家でもある新居城の水野雅楽頭に従い降伏臣従してきた。

義直は勢いに乗じて庄内川を渡る決断をした。きっかけになったのは白拍子・歩き巫女達から大草城の話を聞いたからだ。大草城は、天文17年(1548年)の岩倉織田家で家督争いに巻き込まれ、城主である西尾氏は別の地に移転し廃城となっていた。縄張りは東西約200m・南北約135mで、ここを修築して拠点とする事にした。

義直が大草城を修理し、周辺の内政と防衛の拠点をする事を知った周辺の国主・地侍は大きく動揺した。危機感を持った上末城の落合将監安親は、即座に降伏臣従に訪れた。

長江平左衛門は、屋敷に周辺に地侍や農民を集めて勢力を創り出してから降伏臣従に訪れた。そこで義直は、兵を分派して長江平左衛門の屋敷を拡大強化して田楽城として活用することにした。

義直はここで一旦侵攻を打ち切り那古屋城に戻ることにした。まだまだ敵地である尾張では、日暮れまでに安全が確保された城に戻る必要がある。

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